異譚38 規則
『良いですか? 正しい人になりなさい。正しい事をする人は、誰もが認めてくれます。貴女も、正しき人になり、人々を啓蒙なさい』
――はい、おばあ様。正しい事をします。
『正しさとは、公的利益を護る行動の事だ。それ以外の行動に正しさは無い。我が家に生まれたからには私人であるな。いつ何時であろうとも、公人であれ』
――はい、御父様。公的利益を護ります。
『規律を護れ。規律は絶対だ。護らぬ者が居れば遵守させろ。規律を護らぬ者に、この国を生きる資格はない。人とは、規律の上を歩いているのだからな』
――はい、お兄様。規律を護ります。
『……そんなに、肩肘張らなくて良いのよ。確かに、ルールを護るのは大事だけど、ルールに縛られるのは良くない事だからね』
――……分かりません、お母様。規律は大事です。規律は絶対です。規律を護らなければ、正しい人では無いのです。
そう言った自分を見て、母親は疲れたように笑った。それが、母親を見た最後の姿になった。
『あいつの話はするな。まったく……気骨のある奴だと思ったんだがな……』
母親の所在を父親に訊ねても、父親は呆れたように溜息を吐くばかりだった。
『母さん? ……お前が知る必要は無い。それより、宿題はもうやったのか? 分からないところがあるなら、俺が見てやる』
兄に訊いても、はぐらかすように話を逸らされた。
『正義を全うする覚悟が無かっただけよ。清く正しく生きる事の出来ない人だった。ただそれだけの話よ』
姉は冷たくそう言った。明確な答えはくれなかったけれど、母親が帰って来ない事はなんとなく理解できた。
家族の皆が自分に言う。正しく在れ。正しさを信じろ。規律を護れ。
家族の言葉に自分は言う。分かりました。正しく在ります。
それが、家族から与えられた価値観。それが、家族から貰った共通認識。
だから、家族が居なくなった今も、それは自分の指針になっている。
正しい事は正解、正しくない事は間違い。それが、自分の中の当たり前。
「さぁ、戻りましょう! 戻って避難誘導です!」
シュティーフェルは体育館の屋根の上でへたり込む美奈を見ながら、戻る事を促す。
「……あんた……あんた一人で戻りなさいよ……」
「ダメです! 団体行動が魔法少女の鉄則です! 単独行動は規律違反です! あ、でも、ある程度の実力が在るのであれば、単独行動は許されますよ! アリス先輩やロデスコ先輩は単独行動が許可されているので、間違いありません!」
現状の美奈にとってはどうでも良い情報を報告するシュティーフェル。
単独行動が禁止されているのは、異譚支配者との戦闘をチーム単位で行わなければいけないから、というのが主な理由である。加えて言うのであれば、単独行動は輪を乱す行為にほかならず、それぞれが勝手に行動しては統率が取れないからという理由もある。
だが、根本的な理由としては、単独行動をすると生き残れないのが異譚であるからだ。
異譚支配者が強いのはいざ知らず、その他の異譚生命体も驚異的な力を持っている。
一人で行動した場合、余程運が良くない限りは殉職する事になる。だからこそ、単独行動は禁止されているのだ。
特例として、アリスやロデスコなど、単騎で強力な魔法少女には単独行動が許されている。そもそも、アリスであればチームが足を引っ張る状況が多いので、基本的には単独行動をすることになっている。
「でも、今はダメです! 如月さんは弱いのですから、皆と一緒に行動しましょう!」
にこりと非情に現実を突きつけてくるシュティーフェルに、美奈は苦々し気な表情を浮かべる。
「単独行動は禁止です! 規則ですから!」
「規則規則って……その規則って誰のためにあるのよ!! 皆を助けるための規則じゃないの!? この人達を見捨てるのが規則なら、私は従えない!!」
美奈の言葉に、シュティーフェルは不思議そうにこてんと小首を傾げる。
「ん~……よく分からないですね。そこまで分かってて、なんでそんなに勝手な行動が出来るんですか?」
「え……?」
「その皆を護るための規則を破って、皆を助けないための選択をしてるのは他でもない如月さんじゃ無いですか」
「…………は? ……私が……?」
「そうですよ! さっきから言ってますけど、大勢を救いたいのであればここの人達は後回しにすべきです。……あ! まさかとは思いますが、異譚に居る全員を助けたいと言っているのですか?」
「だったら、何よ……さっき言ったじゃない」
美奈が頷けば、シュティーフェルはなるほどなぁと深く頷く。
「なるほど、意気込みでは無く、本当にそうしたいと思っていたんですね! これは失礼しました」
ぺこりとお行儀よく謝罪をするシュティーフェル。
ようやっと分かってくれたのかと思い、このままシュティーフェルを追いやろうと口を開きかけたその時、シュティーフェルが表情の抜け落ちた顔で美奈を見やった。
「いい加減にしてください。魔法少女は夢見る仕事じゃ無いんですよ?」
とんっと一足で体育館の屋上まで登ったシュティーフェルは無表情で美奈へと詰め寄る。
「過去の異譚の記録には目を通しましたか? 異譚が確認されてからずっと、死亡者が出なかった異譚は一つ限りです。その異譚も、異譚とは言えない程小さく、極短時間の発生でした。つまり、通常の異譚で死亡者が出ないなんて言う事は統計的に在り得ないのです」
「だから、私が――」
「アリス先輩より弱いのに、どうしてそんな事が言えるんですか?」
反論しようとする美奈の言葉に被せるようにシュティーフェルは続ける。
「異譚で死亡者を出さない事が出来る可能性が一番高いのがアリス先輩です。そのアリス先輩ですら出来ない事を、なぜ如月さんがやろうとしてるんですか? 考えなくても分かりますよね、無理だって」
「そんなの、やってみないと――」
「分かります。貴女には無理です。知恵も、知識も、経験も、力量も足りない貴女に出来るはずが無いですよ。やってみせなくても結構です。それこそ、貴女みたいな人の報告だって上がってます。その人の結果をお教えしましょうか? 死にました。勝手に動いて、勝手に助けようとして、勝手に死にました。意味の無い行動です。例え生き残ったとしても命令違反で厳重な処罰が下されます。良いですか? わたし達は軍なんですよ。規律は貴女や一般人を護るだけじゃありません。仲間を護るためにも在るんです。貴女の勝手な行動で得るモノは、貴女のちっぽけな自尊心と満足感だけです」
力強く、シュティーフェルは美奈の肩を掴む。
「戻りましょう。貴女に出来る事は高が知れています。戻って、貴女が出来る事をやりましょう」
「――ッ!! これだって私に出来る事よ!!」
パシンッと肩に置かれた手を叩いて退ける美奈。
「……」
叩かれた手に視線をやるシュティーフェル。
しかし、直ぐに美奈に視線をやると、にこりと笑みを浮かべる。
「もう……馬鹿の相手はめんどくさいです!」
直後、美奈の側頭部に衝撃が走り、勢いそのままに体育館の下へと吹き飛ばされる。
強烈な勢いのまま地面に叩きつけられた美奈は、自身に起こった出来事を理解するのに数秒の時間を要した。
蹴られたのだ。目にも止まらぬ早業の上段蹴りを食らったのだ。
地面を転がった後に、美奈は体育館の屋根の上に立つシュティーフェルを睨みつける。
「あんた……!!」
睨む美奈にシュティーフェルはにこにこと笑みを返す。
「あまりに強情なので、強硬手段に移らせていただきます! 手加減は出来ないので、早めに諦めてくださるとありがたいです!」
笑みを浮かべるシュティーフェルに、美奈は怒り心頭に返す。
「……こっちだって、あんたの正論パンチにはうんざりなのよ……!!」
互いに緩やかに拳を握る。
直後、両者共に地面を蹴り付けた。