異譚90 恋する乙女は、最強なのよ
その声は微かに聞こえ、しかし、確かにロデスコの耳に響いた。
いや、耳だけじゃない。魂にまで響いた。何の比喩でも無く、本当に、その言葉は失いかけていた命の灯火を再度灯したのだ。
失った四肢を燃え上がる炎が形作る。
『馬鹿な……』
瀕死の重傷だった。動けるはずなんて無い程、完膚なきまでに叩きのめした。
「……っ、たぁ……流石に、身体中痛いわね……」
燃える四肢で身体を支え、ロデスコはゆっくりと立ち上がる。
燃える三眼は、その姿をただ呆然と眺めていた。
だが直ぐに、ロデスコが立ち上がれた理由に思い至り、忌々し気に三眼を細める。
『なるほど。死にぞこないの猫か……。だが、まぁ良い。運命を弄るのもこれが最後。次は無いのだからね。それに……』
立ち上がり燃える三眼を見上げるロデスコ。その目の闘志は消えてはいないものの、その身体は既に満身創痍。
シュティーフェルの魔法は協力だが、完璧では無い。運命を弄った事で発生する歪みの帳尻を合わせる為に、ロデスコの体内の魔力を使用してなんとか立てる状態にまでロデスコの身体を回復させただけで、最早戦闘は不可能な程に疲弊しきっている。
このまま戦っても、どちらにしろ勝つのは燃える三眼だ。
『君ももう満身創痍だね。もう楽になった方が良い。立っているのもしんどいだろう?』
そう言いながら、燃える三眼は自身の目の前に三つの魔法陣を融合させた一つの魔法陣を展開する。
先程と同じ鉄砲水を放つ。それだけで、今度こそロデスコの命の炎は消え去る。
自身の命を簡単に消し去れる魔法陣を前に、ロデスコはただ悠然とそれを見上げていた。
「アンタのさ」
『何かな?』
「さっきの言葉、あれ本当なわけ?」
『さっき? あぁ、異譚を作っている張本人の話しか。本当だとも。此処まで頑張った君へのささやかな報酬だからね。嘘は吐かないとも』
「そう……なるほどね」
燃える三眼の言葉を聞いて動揺した。その隙を突かれて大技を喰らってしまった。それほどまでに衝撃的な事実ではあったけれど、ロデスコには燃える三眼の言葉だけが真実ではないように思えてならない。
本当の事を言っているけれど、それが真実の全てでは無い。ロデスコに一瞬の隙を作らせるために、真実の一端を語ったに過ぎないのだろう。まぁ、ロデスコが隙を作ってしまったのは、それだけが原因でも無いけれど。
『さて、お喋りは此処までだ。逆境に立つ君が一番厄介だからね。これでおさらばとさせていただくよ』
その言葉の直後、ロデスコ目掛けて鉄砲水が放たれる。威力は先程と同じ。満身創痍のロデスコの命を奪うには過剰すぎる出力。
迫る鉄砲水を前に、ロデスコは冷静だった。
色々確認したい事はある。問い質して、真実を吐かせて、この異譚の真相を知りたい気持ちもある。
けれどそれ以上にロデスコを動かす気持ちがある。
絶対に消えない。何者にも奪わせない。何者にも否定させない。ロデスコの、ロデスコだけの気持ち。
「燃えろ、赤い靴ッ!!」
脚を形作る炎が熱を上げる。
帰るのだ、絶対に。絶対に、春花の元へ帰るのだ。
この気持ちだけが、ロデスコの絶対的な原動力。
「さっきも言ったけどねぇ……ッ!!」
熱は地面を溶かし、空気を歪ませる。空間が歪む事によって赤雷が生じ、周囲を無作為に穿つ。
『なんだ、それは……』
予想外の展開に思わず言葉をこぼす燃える三眼。
あり得ない。あり得るはずがない。身体は既に限界。魔力も既に底をついているはずだ。
『どこからそんな力が……!!』
迫る鉄砲水を真正面から見据える。
「人の恋路を、邪魔する奴は……ッ!!」
地面を蹴り上げ、ロデスコは鉄砲水に真っ向から勝負を挑む。
「アタシに蹴られて、死になさいッ!!」
爆発的に加速し、鉄砲水と衝突するけれど一瞬の拮抗も許さずにロデスコは鉄砲水を蹴散らす。
「オォラァァァァァァアアアアアアアアアアアッ!!」
まずいと思った時にはすでに遅かった。
『馬鹿な……』
天に上がる流星は鉄砲水を全て蹴散らし、勢いそのままに燃える三眼を貫き、その身体に巨大な風穴を開けた。
『何処にそんな力が……残って……』
神核を砕かれた燃える三眼は重力に則って地面に落下する。
「アンタみたいな奴でも知らない事があるみたいね。良いわ、情報の対価として教えてあげる」
自身もゆっくりと地面に降りながら、燃える三眼の言葉に自信満々に返す。
「恋する乙女は、最強なのよ」
『……ははっ』
自信満々に言い放つロデスコを見て、燃える三眼は面白そうに笑う。
『……やはり、人間は、面白いなぁ……』
燃える三眼はすっと楽しそうに目を細め、ロデスコの炎に焼かれながら地面に衝突する。
ゆっくりと地面に着地し、地面に倒れる燃える三眼を警戒するように見るけれど、ぴくりとも動く様子も無ければ、魔力の反応も無い。
『はぁ、まさかこの私が負けるとはね』
「――っ」
肩の力を抜きかけたその時、何処からともなく燃える三眼の声が聞こえて来たけれど、慌てて周囲を見渡しても燃える三眼の姿は見当たらない。
『今回は潔く負けを認めるとしよう。だが、次に会った時は、もっと容赦無く君を殺す事にするよ』
「はっ、次はちゃんと殺してやるわよ。首を洗って待ってなさい!」
『そうかい。それは楽しみにしておくとしよう。では、また会おう、ロデスコ』
その言葉を最後に、燃える三眼は言葉を紡ぐ事は無かった。暫く警戒をしてみたものの、既に何処かに去って行ったのか誰の気配も感じとることは出来なかった。
「っとと……」
脅威が去った事で気が緩んだのか、炎の脚の形状がぶれる。
「……流石に、限界ね……」
ゆっくりとその場に座り、変身を解きロデスコから朱里に戻る。
変身を解いてしまえば、当然手足は無い。寝転がったまま、救援を待つしかない。
自前の魔力による止血は出来ているので失血死の心配は無い。また、アドレナリンのお陰か痛みも感じない。
「はぁ……流石に、疲れたわ……」
緊張が解けたからか、それとも血を失い過ぎたからか、頭がぼーっとする。
「キヒヒ。お疲れ、ロデスコ」
「――っ」
いつの間にか、地べたに寝ころぶ朱里の近くにチェシャ猫が座っていた。
「あぁ……なんだアンタか。びっくりした……」
「キヒヒ。驚かせてごめんね?」
あまり申し訳無さそうでは無いチェシャ猫の謝罪だけれど、退屈に救援を待つよりは居てくれた方がずっと嬉しい。
「良いわよ、別に。一人で待つのも、退屈だったし……」
「キヒヒ。そうかい。でもごめんね。猫は君とお喋りをしに来た訳じゃ無いんだ」
「じゃ何しに来たの、よ……?」
ちらりとチェシャ猫を見た。だが、そこにチェシャ猫の姿は無かった。
大きくて真っ黒な三日月が、朱里の目の前に広がっていた。
それがあり得ないくらいに巨大化したチェシャ猫の口である事に気付くのに数瞬を要した。
「なに――」
その行動の意味を問おうとしたけれど、最後まで言い切る前にチェシャ猫の大きな口が朱里を容赦無く丸呑みにした。
悲鳴も、絶叫も無く、朱里の身体はチェシャ猫の小さな身体に飲み込まれた。
朱里を丸呑みにしたチェシャ猫はぺろりと口に舌を這わせる。
「キヒヒ。ごめんよ、ロデスコ。今の君は、アリスにとって凄く邪魔なんだ」
「はぁ……ようやく戻って来れたと思ったら……」
いつの間にかチェシャ猫の背後に立っていたエイボンは、チェシャ猫を見て深い溜息を吐いた。
「今からでも思い直さないかい?」
「キヒヒ。君の計画は頓挫したんだ。負け犬は口を出さないでおくれ」
エイボンにそれだけ言い残し、チェシャ猫は一瞬でその場から姿を消した。
「負け犬、ね……。はぁ、今度は勝ち馬だと思ったんだけどなぁ……」
そうこぼし、エイボンもその場から一瞬で姿を消す。
後には何も残らず、異譚の爪痕を濃く残した荒れ地だけが残った。
こうして、四つの異譚は終息を迎えた。
アリスにとって、童話の魔法少女達にとって、最悪の爪痕を残して。




