異譚76 バタフライエフェクト
運命を捻じ曲げる魔法。そう言われても、餡子には良く分からなかった。
何せ、餡子はただ実現可能な嘘を吐いていただけだ。これくらいなら本当に出来そう。これくらいなら起こってもおかしくない。その程度の認識だったのだ。それがまさか、運命を捻じ曲げているだなんて誰が思うだろうか。
それに、もし仮に餡子の能力が運命を捻じ曲げる能力だとして、それがどう自分の寿命に繋がるのかも分からない。
分からない。けれど、漠然と覚えていた違和感が膨れ上がっているのが分かる。
「キヒヒ。それで、君の運命を捻じ曲げる魔法の事だけれどね、普通に使う分にはなんら問題は無いんだよ。ただ魔力を消費して、ちょっと運命に干渉するだけだからね。君の声は因果律に干渉して、過去、時には未来に向かって進んで行く。その先で、君の放った言葉を実現するために状況に干渉して、君の放った言葉を実現させる。例えるなら、バタフライエフェクトみたいなものさ」
バタフライエフェクト。何となくだけれど餡子も聞いた事がある。ある日、アリスが声の出なくなった餡子を慮って、退屈しのぎにと一緒にSF映画を観てくれた時、その単語が出て来た。詳しい話は分からないけれど、蝶の小さな羽ばたきが遠くの場所で竜巻を起こすか、みたいな話だったと記憶している。本当はもっと難しい話なのだろう事は、調べてみたので知っている。難しすぎて餡子には理解出来なかったけれど。
確かに、チェシャ猫の説明で言えば、餡子の言葉が起点となって運命を動かしているので、その例えでも間違いでは無いかもしれない。とは言え、それはフィクション的な例えであり、実際のバタフライエフェクトとはニュアンスが違うのかもしれないけれど。
「キヒヒ。運命を捻じ曲げる魔法。そう聞けば聞こえは良いだろうけど、実際はそう便利な物じゃないんだよ。それは君も良く理解しているだろう?」
確かに、何となくではあるけれど、魔法を使う時に出来る出来ないは分かる。
これくらい言えば魔力を消費するだけ。全然平気。
これくらい言っちゃうとちょっと無理するかも。喉の疲労とか、魔力消費とか。
これは絶対に言えない。言ったら自分に跳ね返ってくる。喉の疲労と魔力消費では済まない。
戦っていく内に、ある程度は把握出来るようになった。ただ魔力を消費するだけで、絶対に発動しないような嘘の内容も把握している。
「キヒヒ。君の魔法は、物に対してだったらそんなに抵抗は無い。けど、生物に対しては干渉するのに多大な魔力を要するね。それに、死ねとか消えろとか、相手の存在に関わる事については絶対に発動しない。いや、発動する事が出来ないんだ。これはひとえに、君の実力不足ってところが大きい。君が魔法少女として大成すれば、きっと雑魚くらいなら言葉一つで殺せる事が出来るはずだよ」
言葉一つで殺す事が出来る。それを聞いて、餡子の背筋が凍る。
だって、言葉一つで相手を殺せるかだなんて、そんな風に考えた事も無かった。自分の言葉に、声に、そんな力が宿っているとも思っていなかったから。
何かを言葉一つで殺せる程実力が備わっていない事に、少しだけほっとしてしまうと同時に、そんな力が無い自分が無性に情けなくなる。
自分が強ければ助けられた命があったはずなのだから。
「キヒヒ。さて、此処から本題だよ。これまで、君の魔法について説明をしたけど、なんとなく分かったなか?」
チェシャ猫の問いに、こくりと頷く。本当に何となくではあるけれど、自分の魔法が特別である事は理解した。
「キヒヒ。それじゃあ、最初に言った話をしよう。君の寿命の話だよ。君の寿命は……」
そう言って、チェシャ猫は少し間を置く。表情は変わらなかったけれど、それが逡巡である事は理解できた。
最初に寿命の話だと言って自分で逃げ場を無くしたのに、いざこうして本人に伝えるとなると尻込みしてしまっているのだろう。
そんなチェシャ猫を見て、自分は今とても残酷な事を言われるのだと理解した。理解した上で、餡子はチェシャ猫の目を見て頷く。それが続きを促す頷きである事はチェシャ猫にも伝わった。
チェシャ猫は観念したように口を開いた。
「キヒヒ。そうだね、もって……後一年だよ」
一年。つまり、来年の秋には自分は死んでいると言う事になる。
あまりにも短い余命宣告に、餡子は顔色を――
「……」
――変える事無く、ただ事実を受け入れるように頷いた。
あまりに動じない餡子を見て、チェシャ猫の方が口をぽかんと開けてしまうくらいに、餡子の表情に動揺の色は無かった。
「キヒヒ。お、驚かないんだね」
チェシャ猫がそう言えば、餡子はスケッチブックに文字を書く。
『驚いてます』
「キヒヒ。そうは見えないよ」
『実感が無いだけかもです』
「キヒヒ。まぁ、ただの猫に言われても、直ぐには直ぐ信じられないだろうからね」
『いえ、信じてます。同じ猫ですので』
餡子はチェシャ猫の言う事を信じている。チェシャ猫は冗談を言ったりはするけれど、嘘は言わない。それにこんなつまらない冗談をチェシャ猫は好まない。付き合いは短いけれど、それくらいは知っている。
『なんで寿命が減ったんですか?』
「キヒヒ。そうだね。ただの生物、それこそ異譚生命体に干渉するくらいだったら、寿命は減らないさ。異譚支配者であれば、少しくらいは減るかもしれないけどね。それでも、多くて数年ってところだよ」
その時点で、餡子には何が原因で自分の寿命が減ったのかを理解できた。
「キヒヒ。君に限らず、魔力が底をついた魔法少女はある程度継戦出来る。けど、その時消費しているのは魔力では無く生命力だ。つまり、魂の力を借りてるんだ。この魂の力を使う行為は、言わば寿命の前借さ。何せ、生命力を削る訳だからね。でも、人間、特に魔法少女の生命力は強大だ。多少使ったところでそんな簡単に枯渇したりはしないし、しっかり休んで栄養を取れば失った分を取り戻す事も出来る」
それが分かっていながら、チェシャ猫は餡子に余命を突き付けた。つまりは、休んで栄養を摂るくらいでは治らない程に、自身の魂が損傷してしまったという事だろう。
「キヒヒ。でもね、君の魂はもうそんな事では治らない。運命に干渉するには、相手が悪かったんだ。何せ神様の運命に干渉したんだ。即死じゃ無かっただけでも奇跡のようなものだよ」
つまり、アトラク=ナクアの核の位置を見付ける為に吐いた嘘、その嘘を実現するためには自分の魔力だけでは無く生命力も必要であり、再生するには不可能な程の生命力を失ってしまったのだ。
『それでも、一年しか無いんですよね?』
「キヒヒ。余命一年とは言ったけどね、それは猫の概算さ。君の魂の様子を見て言っただけで、もう少し長く生きられるかもしれない。だからね、こんな危険な仕事は辞めて、君は普通に暮らすと良い。シュティーフェルとしてじゃ無くて、猫屋敷餡子として過ごすんだ」
『そんなの、誤差みたいなものですよね。なら、私は』
「キヒヒ。だからって、投げやりはいけないよ。最後の最期まで、君は君らしくあるべきさ」
チェシャ猫は餡子の言葉を遮る。そして、続きを慰めるように、諭すように、チェシャ猫は言葉を紡ぐ。
「アリスや皆には猫の方から伝えておくよ。君が望むのであれば、後遺症が残ったとでも言って誤魔化しておくさ。そうすれば、君が魔法少女を辞めても――」
『辞めません』
チェシャ猫の言葉を遮り、スケッチブックに書きなぐる餡子。
その言葉を見て、チェシャ猫が困った顔をするのが分かった。
「キヒヒ。どうしてだい?」
少しだけ悲しそうな声音でチェシャ猫が言う。
チェシャ猫は本気で餡子を心配してくれたからこそ、真実を伝えたのだろう。いや、餡子だけじゃない。他の魔法少女達の事を思って自ら辛い役を買って出たのだ。
それはそうだ。この先の異譚で生き残ったとしても、余命一年しかない餡子が戦っている最中に急に死ぬ可能性だってある。どういう死に方をするのかは分からないけれど、そういう風に皆に迷惑をかけてしまう可能性だってあるのだ。
だったら、戦場を離れて普通に暮らして、静かに健やかに人生に幕を下ろした方が良いに決まっている。わざわざこんな辛くて苦しい仕事なんてする必要はないのだから。
餡子に少しでも幸せになって欲しいから、チェシャ猫は話をしたのだ。それが分からない餡子では無い。
それでも、そんなチェシャ猫に餡子は力強い筆跡で返した。
『私が、魔法少女だからです』




