異譚23 小さな異譚
春花は授業を抜けだし――勿論、教師には説明をした――対策軍本部へと向かった。
迎えの装甲車は既に朱里達を乗せて行ってしまったので、春花は自力で向かうしかない。
対策軍と学校はそこそこ離れている。装甲車であれば十分もかからない距離だけれど、人の足ではそこそこかかる。
春花は人気のない所でアリスに変身し、即座に空を飛ぶ。
普段は身バレの危険性が在るのであまりしないけれど、今回のように急を要するのであれば迷わず変身する。
対策軍までひとっ飛びで到着し、駆け足でカフェテリアへと向かう。
カフェテリアには既に童話の魔法少女達が集まっており、沙友里と一緒にブリーフィングを行っていた。
最後に来たアリスは壁際のソファに座り、邪魔をしないようにその様子を見守る。
「今回は異譚の範囲も狭いので、三人で向かってもらう。メンバーは珠緒、笑良、餡子で行って貰う」
「了解で~す」
「了解」
「りょ、了解です!」
笑良も珠緒も慣れた様子で返事をするが、今回が初出撃である餡子は緊張した様子で返事をする。
「ふぁ、ファイトッス! 餡子ちゃん!」
「が、頑張ります!」
同期である餡子を案じて、瑠奈莉愛がエールを送る。
「今回は規模の関係で花と合同だ。協力して異譚の終結に当たってくれ」
ブリーフィングの後、珠緒、笑良、餡子の三人は速やかに異譚へと向かった。
アリスはタブレット端末で異譚の情報に目を通す。
今回は待機。それも、無理を言っての待機だ。きっと、余程の事が無い限りアリスに出番は無いだろう。
「キヒヒ。アリス、やっぱりそうだったよ」
いつの間にか戻っていたチェシャ猫が、アリスの膝の上で報告する。
「そう……」
「心配かい?」
「少しだけ」
「キヒヒ。良くない傾向だ」
他人の心配をするという事はつまり、他人を思いやるという事だ。それを、チェシャ猫は良くない傾向だという。普通であれば、褒められた事であり、優しいと評価される事なのに。
けれど、チェシャ猫の言葉の意味を、アリスはしっかりと理解している。
「……あの人の分までは、とは思ってる。けど、それって普通の事でしょ?」
「キヒヒ。そこに余分な物が付随しなければ、ね」
「……あの事に関しては、余分だとは思ってない。あれは、私の責任だから」
「キヒヒ。その責任が余分だって言うんだよ」
責めるような、けれど、心配しているような口振り。
そんなチェシャ猫の頭を、アリスは優しく撫でる。
「それは私が決める」
「キヒヒ。そうかい……」
頑固者だね。とは、口にしない。頑固者さえも、責任だからと一蹴されてしまうのだろうから。
片手でタブレット端末を操作しているアリスが、先行した魔法少女達によって撮影された異譚内部の写真を見て指を止める。
「……? これ、本当に異譚?」
「アリスも気付いた」
「唯も一も気付いた」
アリスの両サイドを埋めるように、唯と一が座る。
一はアリスの膝からチェシャ猫を抱き上げて自身の膝の上に乗せる。
「異譚なのに、景色変わってない」
「全部普通。空だけ灰色。でも曇ってない」
「全部が色褪せてる」
「「不思議」」
唯と一が言ったように、撮影された写真は全てが白黒写真のように見えているだけで、それ以外は至って普通の景色だった。
以前のように中世の様な街並みに変化してはいないし、アリスが作り上げた模造異譚のように禍々しい風合いでも無い。
ただ色が抜け落ちた世界。
「……世界を侵食する力が弱いのかも」
「なら、今回は余裕ッスね! あっ、別になめてかかってる訳じゃ無いッスけど……それほど侵食が弱いなら、きっと皆無事に帰って来られるッスよね?」
前からアリスのタブレット端末を覗き込む瑠奈莉愛が、アリスの様子を窺うように訊ねる。
以前の異譚でアリスが『楽な異譚は無い。なめてかかるな』と言ったのを思い出したのか、アリスに怒られると思ったのだろう。
そんな瑠奈莉愛にアリスは淡々と言葉を返す。
「分からない。何が起こるか分からないのが異譚だから」
異譚に通例は無い。それだけに、前例が幾つも覆されている。
それに、自分の命がかかっているのだ。端からなめてかかるよりも、警戒をしていた方が賢明だ。
「でも、ちっちゃい異譚」
「一は見た事ない」
「唯も」
「確かに、かなり規模が小さい。異譚侵度Dだとしても、小さすぎる」
前回の漁港の異譚の四分の一程しかない。漁港の異譚は内陸まで広がっていたのでかなりの範囲が異譚となっていた。その四分の一ともなればそこそこの広さは在るけれど、異譚としてはあまりにも小さい。
「じゃあ最小の異譚って事ッスか?」
「違う。最小最短の異譚は前例がある」
異譚侵度D以下。計測できたのが奇跡なくらいに小さく、一分程で自壊した異譚とも呼べない異譚。
何故起きて、何故終わったのかも不明。
一応記録は在るけれど、そういう異譚が起こったという記録だけらしい。
らしいというのも、アリスはその記録を覗いていない。そう言う事があったと教えて貰った事が在るだけだ。特に興味も無かったので調べていない。
「ともあれ、新人が出るにはうってつけ」
「唯もそう思う」
「一もそう思う」
異譚侵度Dであれば、生存率はかなり高くなる。新人が異譚に慣れるための最初の一歩としては、真っ当な異譚だ。
けれど、どうしてか違和感を覚えてしまう。
今までの異譚では、異譚は世界を侵食するように景色を変えていった。それは、どの異譚も共通だった。そこだけは、通例だった。
異譚は世界を侵すモノ。
だというのに、この異譚はただそこに在るだけだ。世界を侵そうという意志が感じられない。
それが、ものすごく引っ掛かる。
だが、ただの杞憂の可能性も在る。異譚として顕現するだけで限界の異譚であり、世界への侵食力を最低限しか持っていないという可能性もある。それに、侵食という点では、世界が白黒になっているという点は間違いなく侵食である。
ざわざわと、胸騒ぎがする。
勝手に出撃をしたいけれど、それは明確な命令違反であり、沙友里が言ったように他の者へ迷惑をかける行動に他ならない。
アリスが無償で戦うとなれば、下の者も無償での戦いを世間から強いられてしまう。とりわけ、魔法少女を疎んでいる者は声を大にして宣う事だろう。
その主張は間違いであり、対策軍は跳ね除ける事は出来るだろう。けれど、一度でも前例を作ってしまえば、同じ事をする者が出てくる可能性が在る。そうなれば、規則が緩む。
自分が戦場に立てない事が、こんなにももどかしいとは思っていなかったアリスは、自然とタブレット端末を掴む手が力む。
「キヒヒ。まったく、仕方ないなぁ」
そんなアリスを見て、チェシャ猫は一度瞑目してから姿を消す。
「あ。消えちゃった」
「残念。唯も抱っこしたかった」
チェシャ猫が消え、唯と一はがっかりしたように肩を落とす。
「三本貸しておくれ。猫に出来るのはそこまでだからね。キヒヒ」
「――っ」
アリスの耳元に、チェシャ猫の声が届く。
アリス以外には聞こえていないのか、唯と一、瑠奈莉愛に聞こえている様子は無い。
チェシャ猫の意図を察したアリスではあったけれど、それを許可する事は出来ない。
自分の心配のために、チェシャ猫を危険晒す事はしたくない。
「キヒヒ。駄目だなんて言ったら、猫は丸腰で行っちゃうよ」
だが、そんなアリスの心情を予想していたのか、チェシャ猫はアリスが断れないような言葉を選ぶ。
チェシャ猫はアリスの相棒だ。けれど、チェシャ猫はアリスの魔法から生まれた存在ではない。つまり、アリスが縛る事の出来ない存在でもあるのだ。
神出鬼没のチェシャ猫を止める術をアリスは持っていない。そして、チェシャ猫は言葉通り丸腰で向かう事だろう。自分に何が出来なくとも、何かをするために。それは、アリスのために。
チェシャ猫を止めるのは無理だと悟ったアリスは、チェシャ猫の望む通り、三本貸し出す。
「キヒヒ。ありがとう、アリス。じゃあ、借りていくよ」
「……ありがとう」
アリスにしか聞こえていないチェシャ猫の声に、誰にも聞こえないくらい小さく、アリスはお礼を言う。
きっと、お礼を言っている時にはチェシャ猫は既にこの場所には居ないのだろうから。