異譚68 確かな憎悪
冷たく重い身体を引きずる。
全身が倦怠感に襲われている。少しでも意識を手放そうと思えば、直ぐにでも気を失える程だ。
それでも、意識は手放さない。
「はぁ……はぁ……」
一息吐くたびに白い吐息が広がる。
早く、早く見付けなければいけない。あの渦巻く闇を。あの憎き仇敵を。氷漬けにするだけじゃ足りない。見つけ出して、この地球に手を出した事を後悔するくらいにずたずたに引き裂いてやらなければいけない。
だが、出会いたくない時に出会うくせに、出会いたい時にはまったくと言って良いほど出会えない。
どれほど異譚を歩き回ったのか分からない。十分程度のような気もするし、もっと長いような気もする。倦怠感や疲労感で少しの時間も長く感じているだけなのかもしれない。
時計を持っていないので正確な時間は分からない。だが、今のスノーホワイトにとって問題は時間では無い。何時間かかろうとも、何日かかろうとも、どうでも良い。あの仇敵さえ殺せればそれで良い。
普段のスノーホワイトであればそんな思考にはならなかっただろう。自己だけを優先さえるような判断は下さない。魔法少女として、多くを助けるための選択をするはずだ。
今のスノーホワイトの行動原理は魔法少女としてではない。その行動原理はただの私怨。今はただ、あの渦巻く闇を殺してやりたくて仕方が無い。
堰を切ったように心の底から憎悪が溢れ出す。
その憎悪の先は異譚支配者、だけでは無い。憎悪は際限無くあちらことらへ向けられている。
自分達の平穏を奪う異譚。その異譚を生み出す異異譚支配者。異譚支配者よりも上位の存在である全ての元凶である旧支配者。そして、それを統括する黒幕。
愛しているはずの自分達を捨てた母。柔軟に物事を受け入れられずに家族を離散する事を選んだ父。勝手に魔法少女になって、勝手に死んでいった美奈。そして、誰も護れない自分自身。
全ての歯車を狂わせた、アリス。
頭の中に渦巻く大小様々な憎悪が四方八方に散らばっていく。
お母さんの分まで頑張らないととか知らないし。私が戦うのにお母さんとか関係無い。世界の為とかも正直どうでも良い。世界とか勝手に幸せになって勝手に不幸になれば良い。誰が死んだとか、誰が助かったとか、私の周りで起きてない事に一喜一憂なんてしてられる訳が無い。例え異譚に巻き込まれた人を助けられなかったとしても、どうだっていい。残念には思うけれど引きずったりはしない。目の前で人が死ぬのは気分が悪いけれど、それ以上の感情なんて持ち合わせない。そこまでの感受性は自分には無い。泣いてどうなる? 悔いてどうなる? くだらない。非情にくだらない。自分に関係の無い相手の生き死にで心を動かす方が非合理的だ。ああ違う。分かってる。こんな事思う方がおかしい。助けられなかったのは自分の力不足だし、彼等が死んでしまうのは異譚なんてものが存在するからだ。彼等も自分も巻き込まれた側で、異譚なんてものがなければ自分も彼等も不幸な目に合わなくて済んだんだ。でも、人の生き死にがどうでも良いと思うのは異譚は関係無くて、いや、本来の自分だったらきっとそんな事を思う事だって無いはずだ。だって、今までそんな事を思った事だって無いし、必死に人を助けようと――
今まで蓋をしていられたのが信じられないくらいに溢れる憎悪が無限に脳内に渦巻く。それと同時に、その憎悪を否定する自分と肯定する自分がいる。
考えがまとまらない。きっと血を失い過ぎて正常な思考能力を失っているだけなのだろう。
ああ、でも、きっと本当に思っている部分もある。心の底で思っている自分が居るのは否定が出来ない。
誰が憎いとか、何が憎いとか、なるべくそういう事を考えないようにしている自分が居るのも分かっている。そういう自分を抑えている。それが、正しくないかもしれないと分かっているから。
「……人の事、言えたもんじゃ無いわね」
思わず自嘲気味な笑みがこぼれる。
イェーガーの事を嗜めていた自分が恥ずかしく思える。まさに、どの口がといったところだ。
自分の内にこんなに醜い気持ちが溢れているなんて知らなかった。知りたくなかったとは思わないけれど、それでも知らない方が幸せだったかもしれないとは思う。
緊急時だからなんて言い訳にはならない。多分、ずっと心の奥底にあった本心がコレなのだ。醜く、直ぐに何かを恨み、黒い感情をぶつけてしまう。魔法少女として頑張ろうとしていただけで、本質はあの頃と何一つ変わっていないのだ。
ただ、魔法少女スノーホワイトとしてあろうと頑張っていただけの、あの日に心を置き去りにした一人の少女だったのだ。
必死に動かしていた脚を止める。
「……遅い」
バタバタと何かの羽ばたく音が聞こえる。
たまたまだ。本当にたまたま。いつの間にか、闇の中にぽうっと光を放つバルーン投光器の前に立っていた。
バルーン投光器。夜間工事の際などに使用されるバルーン型の照明器具。バッテリー内蔵型なのか、どこかに電源コードが伸びている様子はない。
周囲を見渡してみても工事現場は無い。だから、何故そこにバルーン投光器があるのかは謎だ。
だが、スノーホワイトにとっては都合が良い。
それは蝙蝠の羽ばたきにも似た音を立てて顕現する。
焦りはない。諦観も無い。あるのは、絶対に殺してやるという強い憎悪と殺意のみ。
冷静で、それでいて白けたような目をソレに向ける。
冷たい暗がりの中に、渦巻く闇は三度顕現する。
「……はぁぁ……っ」
深く、深く、冷たい息を吐く。
止血の為に氷漬けにしていた腕に氷の義手を生成し、ぐーぱーと氷の義手の指を開閉させる。問題無く十分な可動。
白い吐息がバルーン投光器の光を反射して、キラキラと宝石のように輝く。
渦巻く闇がスノーホワイト――厳密に言えばスノーホワイトの背後のバルーン投光器――に渦巻く闇の奔流を放つ。
「――ッ!!」
口の端から白い吐息を漏らしながら、スノーホワイトは氷の義手を振り上げる。
直後、氷の剣山が出現し渦巻く闇の奔流と衝突。互いの衝撃に耐えきれず氷の剣山は派手に崩れ、渦巻く闇の奔流は四方に散る。
渦巻く闇が様子を窺うように蠢く。
そんな渦巻く闇に、スノーホワイトは氷の義手の人差し指を向け、憎悪を込めた瞳でねめつける。
「楽に死ねると思わないでよ……」
ゆっくり、スノーホワイトは一歩を踏み出す。
「痛みを知らないなら教えてあげる。恐怖を知らないなら教えてあげる。凍える寒さを知らないなら教えてあげる。破滅を知らないなら教えてあげる。私が……」
氷の足跡がアスファルトを侵食する。凍える程の寒さを持つ空気が更に熱を無くす。
「……私が、お前の破滅よ」




