異譚61 嫌がらせ
「はぁ……まったく、やんちゃな子ねぇ」
瓦礫の山に身体を預けるマイノグーラ。
余裕を伺わせるように笑みを浮かべてはいるけれど、その実、マイノグーラは既に死に体であった。蝙蝠のような翼は捥がれ、左足と右腕が消し飛んでいた。
時間にして数分。アリスとの戦闘時間はたったの数分だった。それだけで、マイノグーラは既に取り返しのつかない程に負傷していた。
「やっぱり強いわねぇ。勝てないのは分かってたけど、まさか此処までとはねぇ……」
瓦礫の山に寝そべるマイノグーラを見下ろすように、上空に佇むアリス。アリスには傷一つ無いどころか衣服には汚れ一つ無い。
悠然と致命の大剣を持ったアリスを見て、マイノグーラはおかしそうに笑う。
マイノグーラはそもそも戦闘向きでは無い。人類、特に男性に対しての圧倒的有利を持ってはいるものの、戦闘能力は他の異譚支配者よりも劣る。それは、マイノグーラ自身も十分に理解している事だった。
それでも、ある程度は食らい付けると思っていた。せめて一矢報いるくらいの事は出来るのではないかと、そう思っていた。
だが、結果は惨敗。異譚支配者では無く、旧支配者として戦っていれば善戦は出来たかもしれないけれど、この場この時においては現状がマイノグーラの全力である。
それに、旧支配者として戦うつもりは無い。勝てない相手に挑んで死んでしまっていては、究極の美食を楽しむ事が出来ないのだから。
「今回は良く遊びました、と言う事で」
ふぅっと息を吐いて身体の力を抜く。
「まぁ、タダで消えるつもりも無いけどね~」
悪辣に笑い、マイノグーラは自身の残りの魔力を捻り出す。
マイノグーラが何かをしようとしているのに気付き、アリスは即座に致命の極光を放つ。
「うふふっ、もう遅いわよ」
致命の極光がマイノグーラに到達する直前に、マイノグーラの姿が霧散する。
そもそも、マイノグーラはアリスに勝てるとは思っていなかった。他の魔法少女が相手でも、高い確率で自分が負ける事を覚っていた。旧支配者としてであればともかく、異譚支配者では力は半減以下なのだから。
だから、最初からマイノグーラの目的は魔法少女に勝つ事では無い。
『あ~あ、ざぁんねん。もうちょっと遊べると思ったんだけどな~』
何処からともなくマイノグーラの声が聞こえてくる。
「――っ、何処に……!!」
マイノグーラを完全に見失ったアリスは、マイノグーラを見つけ出そうと視線を彷徨わせるけれど、その姿を見付けだす事は出来ない。
『うふふ。私はもう何処にもいないわよ~。私はこれで退場。正真正銘、貴女の勝ちよ。おめでと~』
アリスの勝ちと言う割に、マイノグーラの口調に悔しさや怒りの感情は感じ取れない。あるのは、最初から彼女の言葉に含まれていた嘲りのみ。
『でぇもぉ、ただ消えるのって面白く無いじゃな~い』
嬉しそうな、楽しそうな、悪辣な声音。顔は見えないけれど、マイノグーラが悪辣な笑みを浮かべているであろう事は想像に難くない。
『だからね、私の残りの魔力をぜーんぶ、異譚の暗幕につぎ込みました~。私の込めた魔力が尽きるまで、貴女はこの異譚から出られませ~ん』
「なっ……」
マイノグーラの言葉に絶句した後、アリスは即座に頭上に向かって致命の極光を放つ。
しかし、致命の極光は頭上の暗幕とかち合うと、四方八方に分散して弾き返される。
弾かれた致命の極光の残滓は、幾つかは空中で霧散し、幾つかは破壊をもたらす流星として街に降り注いだ。
「――っ」
『因みに、暗幕への攻撃は反射するようにしておいたから、その剣を使うのはおススメしないわ。って、言うの遅かった? ごめんなさいね~?』
くすくすとアリスを嘲笑うマイノグーラ。
ウジャトの眼で見ていればこんな初歩的なミスはしなかったはずだ。その失態を犯してしまう程に、先の言葉はアリスを焦らせる原因であった。
『でもでも、今の攻撃を続ければ暗幕も直ぐに壊れるかもしれないわよ? 今ので魔力も結構減っちゃったし。まぁ、その代わり綺麗に残ってる街と生き残った人は死んじゃうかもだけど』
アリスはこの異譚を手早く終わらせて、他の異譚に救援に向かおうとしていた。それは、アリスだけでは無く、他の面々も同じ気持ちだろう。
何せ、異譚侵度Sが四つ。一人でも多くの魔法少女の力が必要になるのは明白なのだから。
けれど、マイノグーラが注ぎ込んだ魔力が続く限りこの異譚の暗幕は晴れない。つまり、アリス達は救援に向かう事が出来ないのだ。
暗幕を破壊しようにも、攻撃を反射する性質を付与されているので、アリスの最大火力である致命の極光を撃つ事は出来ない。
この異譚からノーリスクで出られる者はレディ・ラビットかチェシャ猫くらいのものだろう。
『そ、れ、とぉ。貴女のお仲間、ピンチかもね~?』
「――ッ!!」
マイノグーラの言葉に、アリスは慌ててサンベリーナとマーメイドの方を見やる。
そこには、何匹もの猟犬に追われているマーメイドの姿があった。姿は見えないけれど、サンベリーナはマーメイドの髪の中にでも隠れているのだろう。
それと同時に、アリスはその猟犬の情報をウジャトの眼で見た。そして、最悪の事実に気付いた。
即座に、アリスは二人の元へ急降下する。
そんなアリスに追従するように、マイノグーラの声は絶えず聞こえてくる。
『異譚に居る限り、ただの人間は異譚の影響を受ける。貴女も私が捉えた人間達を救出する時に違和感を持っていたと思うけど、男の心は既に私の手によって虚ろに変えてしまいました~。当然不可逆だよ? それでね、私は優しい優しい神様なので、虚ろになった心を持ったままこの世界を生きる彼等を憂いたの。だって、自我喪失してるんだよ? この世界じゃ満足に生きられないよね? だからね、私が負けるのは分かってたから、男の心を奪うのと同時に、異譚生命体になる速度も早めてみました~。今頃、異譚のあちこちで私の可愛い猟犬達が美味しいお肉をぱくぱくしてる事でしょう~』
お喋りに興じるように心底楽し気な様子で口早に言葉を紡ぐマイノグーラ。
マイノグーラはアリスには勝てない。だから、最初から勝つ事は目的では無い。
『あら、もう時間ね~。残念。もう少しお喋りしてたかったけど此処までみたい』
マイノグーラの目的はただ一つ。アリスを此処に足止めする事。
何も出来ず、誰の手助けも出来ず、ただ仲間が死んでいるかもしれないと気を逸らせる事が、マイノグーラの目的。
つまり嫌がらせこそが、この異譚におけるマイノグーラの本懐であった。
『まぁ、精々頑張って。独り善がりの英雄さん。応援してるわね』
それだけ告げて、マイノグーラは完全にこの異譚から消え去った。
残ったのは無数の猟犬が蔓延るアリスを閉じ込めるための異譚。
アリスは知らないけれど、攻撃の反射と異譚の維持に魔力をつぎ込んでいるので、異譚の膨張は止まっている。それを知ったところで何の慰めにもなさないけれど。
マーメイドを追っている猟犬達を射出した剣で貫きながら、全属性を分解した致命の剣列を異譚の暗幕に射出する。極光であれば跳ね返りを気にするけれど、剣を直接放つのであれば反射をあまり気にする必要も無い。
それでも、暗幕に放たれた剣は暗幕を破る事は出来ず、暗幕を維持している魔力を微量減らすくらいが関の山だった。
「あ、アリス! ありがとう! た、助けた人が急に異譚生命体になっちゃって!」
猟犬を始末しながら二人の前に降り立ったアリスを見て、サンベリーナは歓喜の声を上げる。
「……アリス、ありがと……死ぬかと、思た……」
「――っ、私を……此処から……ッ」
「……アリス……?」
だが、アリスには二人の声が聞こえていない。
暗幕を貫けず、散り散りに落ちる剣を見て、もう居ないと分かっていても、アリスは腹の底からマイノグーラへの怒りの声を張り上げる。
「出せぇぇぇぇぇぇぇええええええええええええっ!!」
アリスの咆哮が異譚の闇夜に響き渡る。
初めて見るアリスの強い怒りの発露に、サンベリーナとマーメイドはただ目を丸くして見守る事しか出来なかった。
この後の、この異譚の結果だけを言うのであれば、一番早く異譚支配者を倒し、一番遅く異譚が終わったというちぐはぐな結果だ。アリスの残るこの異譚は、最後まで残り続けた。
アリスが事の顛末を知ったのは、全てが終わった、その後だった。




