異譚45 猟犬
南の異譚へと向かうのは、アリス、マーメイド、サンベリーナの三人。
三人は異譚の暗幕の外まで辿り着いており、アリスは既に致命の剣列を展開しており、両手に斬撃と衝撃の大剣を持っている。
「準備は良い?」
「へ、平気だよ!」
「……うい……」
サンベリーナはアリスのエプロンドレスのポケットに入り、マーメイドはアリスに背後から抱き着いている。
これは装甲車で移動をしている間に決めた布陣だ。異譚侵度Sでは何が起こるか分からない。アリスに引っ付いて動けば大半の危険にはアリスが対処出来るので、今の布陣で異譚の中を進む事に決めた。危険な異譚の中ではアリスの傍が一番安全なのだ。
「二人共、気を抜かないように」
そう言って、アリスは迷う事無く異譚内部へ入る。
暗幕を抜け、変わり果てた世界の風景に覚悟をしていたけれど――
「……?」
――異譚の中は何も変わっていなかった。夜の闇に包まれた、ごく普通の市街地。背後を振り返れば暗幕があるので、異譚内部である事は間違い無い。
「こ、此処……異譚、だよね?」
「……魔力、充満してる……」
「だ、だよね! じゃ、じゃあ、なんで普通の街なんだろう?」
「分からない。でも……」
振り返ったアリスは、暗幕に手を当てる。
押してみれば、返って来るのは確かな抵抗感。
「……厄介な場所である事は事実」
異譚から出る事が出来ない。つまり、逃げ場が無いと言う事に他ならない。
「……壊せる……?」
「分からない」
アリス・エンシェントになってウジャトの眼を使い、その上で致命の大剣を使えば壊せる可能性はあるだろうけれど、異譚侵度Sであればあまり乱用はしたくは無い。
「これを壊すより、核を倒した方が建設的。それに、異譚同士の接触までのタイムリミットもある」
「な、なら、やる事はいつもと変わらないね!」
「うん。私達はこのまま進む。二人とも、索敵をお願い」
「……了解……」
「わ、分かったよ!」
マーメイドとサンベリーナに索敵を頼みつつ、自身も周囲を警戒する。
コツコツとアリスの足音だけが市街地に響く。その事に、アリスとマーメイドは違和感を覚える。
「音がしない」
「……遠くの方も、音無い……」
普通、異譚に入ればそこかしこで音が鳴っているはずだ。戦闘音だったり、阿鼻叫喚だったり、必ず音が聞こえてくる。
しかし、この異譚に入ってから三人以外に音源は無い。
「ひ、避難した、とか?」
「……それなら、少し音、聞こえる、はず……」
他の三つの異譚に比べて、この異譚の規模はそう大きくない。マーメイドであれば、この異譚の四分の一の範囲の音を拾う事が出来るはずだ。
異譚に来るまでに多少の時間は掛かったけれど、避難を完了するまでにはまだ時間が掛かるはずだ。どこからか音が聞こえて来ないのはおかしい。
アリスはすんすんっと匂いを嗅いでみるも、血の匂いもして来ない。シュティーフェルが居れば匂いで情報を集める事が出来ただろうけれど、この場に鼻の利く者は居ないのでそれれも出来ない。
チェシャ猫を呼ぼうかと思ったけれど、異譚侵度Sの異譚には呼びたくない。異空間に退避出来るとは言え、そこに敵の手が届かないとも限らないのだから。
情報は歩いて探るしか無い。
ちゃんと警戒をしながら歩いていた。音でも魔力でも、警戒をしていた。
それは、突然気配を現した。
「――ッ!!」
ブロック塀と道の角から、窓と窓枠の角から、大きな角、小さな角、ありとあらゆる角から、青黒い煙のような物が噴出する。
突然の出来事ではあるけれど、異譚で突然の出来事など当たり前の事。即座に、アリスは身構える。
青黒い煙のような物は広がり空気に溶ける事は無く、徐々に濃くなっていき、凝り固まっていく。酷い匂いが刺激臭を伴いながら現れたのは、形容しがたい四つ足の生物だった。
青みがかった脳漿の様な粘液を全身からしたたらせた狼のような身体。黄ばんだ鋭い牙の生えた口からは、太く曲がりくねった注射針のような舌をだらりと垂らし、舌からは絶えず涎を垂らしていた。
どこからともなく現れた狼のようにも、犬のようにも見える異譚生命体は、一様にアリス達を虚ろな瞳で見つめていた。
「な、何、こいつら!? ど、どこからともなく現れたよ!?」
周辺の魔力を感知していたサンベリーナからしても、前触れも何も無く急激にその場に沸き上がったように感じた。
「驚くのは後」
アリスは迷う事無く衝撃の大剣を振るう。
「まぁ、避けるよね」
しかし、異譚生命体はアリスの放った衝撃を簡単に回避する。
回避しながらもアリスに迫り、注射針のような舌を伸ばす。
斬撃の大剣で舌を切り落としながら、衝撃の大剣を振るって舌を切られた異譚生命体を吹き飛ばす。
狼のようだとも思ったけれど、それにしては統率を感じられない。各々が好き勝手に動いているので、互いに進路を邪魔している場面も見受けられた。
また、犬と呼ぶには気性も荒く、酷く暴力的だ。
「頭の悪い猟犬、ってところかな」
猟犬を観察しながら、焦る事も無く全て斬り捨てていくアリス。
「それにしても、数が多い」
「……私、歌う……?」
「平気。準備は出来たから。執行」
アリスが一つ呟けば、いつの間にやら猟犬達の頭上に出現していた剣が、猟犬達を一斉に貫く。
それだけで、全ての猟犬が生命活動を停止する。
元々アリスの十八番の魔法だったけれど、力を付けて来た影響か、剣の生成と標的への固定、射出までの速度が著しく向上していた。他の魔法に関しても、以前よりもスムーズに実体化させる事が出来る。
嬉しい変化、ではあるけれど、それと同時に何処か不安を覚える。
だが、今は不安を抱えたまま戦っている場合では無い。
「行こう。この異譚をさっさと終わらせて、皆の援護に向かう」
「そ、そうだね! は、早く終わらせて、皆の手助けに行かなくちゃだね!」
「……でも、焦りは、禁物……」
「分かってる。油断も焦りもせず、最速で片を付ける」
と、意気込んではみるけれど、異譚支配者が何処に居るのかは分からない。
「ひ、人が居ないのって、この犬にやられたから、かな?」
「それなら血の匂いがしないのはおかしい。それに、戦闘をしたにしては街が綺麗過ぎる」
「……突然だったけど、倒せない相手じゃ、無い……」
突然現れる事には驚かされるけれど、異譚侵度Sの異譚に派遣された魔法少女であれば、十分に対処できる程の強さだった。
戦闘がそんなに得意ではないマーメイドでさえ勝つ事の出来る相手だ。もっとも、相性もあるだろうけれど。
ともあれ、街が静かなのは猟犬達のせいでは無い。一因としてはあるかもしれないが、猟犬が全ての現況では無いだろう。
「とりあえず、進むしかない。核を倒せば――」
「……待った。音、聞こえる……」
喋っているアリスの口を塞いで、目を閉じて耳を澄ますマーメイド。
「……遠くの方、ピアノの音、聞こえる……」
そう言って、マーメイドはアリスの口を塞いでいた手を離す。
「ピアノ?」
「……うい。ピアノ……」
「い、異譚で、ピアノ……?」
どうして異譚の中でピアノの音が聞こえてくるのかは分からないけれど、何も無い中から掴んだ情報だ。行ってみる価値は十分にあるだろう。
この状況下で不自然に聞こえてくるピアノの音なんて、罠以外考えられないけれど、罠であるのなら真っ向から打ち破れば良いだけの事。その力がアリスにはある。
「行ってみよう。マーメイド、案内して」
「……うい……」
マーメイドの案内の元、アリスは夜の街を歩いた。




