異譚37 朱里の追憶
休日。春花、朱里、朱美の三人はバスに揺られて郊外へと向かっていた。
一番後ろの席に三人並んで座っている。朱里は窓の外を向いており、真ん中に座る春花は前を向き、朱美は不安そうにぎゅっと春花の手を握っている。
「この日、予定空けといて。大事な用事があるから」
朱里にそう言われて、春花は言われた日に予定を入れずにいた。元々、春花はそんなに予定の無い人間だ。
春花は平気だが、問題は朱美だ。朱里は、朱美にこの日に出かけると伝えて欲しいと春花に言った。今でこそ散歩が出来るまでになったけれど、遠出が出来るとは思えない。それに、朱里と一緒の遠出だ。朱里を恐れている朱美がその誘いに応じるとは思えなかった。
「……分かったわ」
が、意外とあっさりと朱美は誘いに応じた。
春花の言った、少しずつ出来る事を増やす、という事を実践してくれているのだろう。前向きに進む事を選んでくれたのは良い事だと思う。
そうして、三人は朱里の案内の元、目的地へと向かっているのだ。何処に向かっているのかは朱里のみぞ知る、かと思いきや、その場所が近付くにつれて朱美の顔が青褪めていく。
朱美の反応を見て、春花も何処に行こうとしているのか何となく分かった。
バスを降り、そこからは徒歩で向かう。バス停にほど近い位置だったのか、目的地までは五分ほどで到着した。
「とーちゃくっと……。はぁ、やっぱ辛気臭いとこね、此処」
「やっぱり……」
「ど? 懐かしいでしょ」
青い顔をした朱美に朱里は訊ねる。
三人が辿り着いたのは、今はもう誰も住んでいない集合住宅。
この場所は、朱里と朱美がかつて住んでいた場所だ。だが、良い思い出のある場所では無い事は、二人の表情を見れば分かるだろう。
「アタシ達が入ってた宗教の集合住宅よ。もう閉鎖されて、今は廃墟みたいだけどね……。二年しか経ってないのに、もう荒れてるわね」
朱里から発せられた答えは、春花の想像した通りの答えだった。その答えを聞けば、春花は朱里が何をしにこの場所に来たのかを理解した。
朱里は何を言うでも無く歩き出す。
春花は朱美の手を引いて朱里の後を追う。朱美は少しだけ躊躇ったけれど、春花に手を引かれるままに歩き出す。
「此処、アタシ達が住んでた部屋。アタシ達が抜けてから直ぐに宗教は解散したから、この部屋もそのままかもねぇ。まぁ、元々そんなに物の無い部屋だったけど……」
朱里はかつて住んでいた部屋の扉を開ける。
「今更だけど、勝手に入って大丈夫?」
「許可は取ってあるから大丈夫よ」
どうやら、事前にこの土地の管理者に立ち入り許可は取っていたらしい。どうりで立ち入り禁止の看板を見ても気にせずずんずんと進んで行ける訳だ。まぁ、許可を取っていなくとも、朱里はずんずん進んで行きそうではあるけれど。
開け放たれた扉を躊躇無く潜る朱里。
そこは、とても簡素な部屋だった。扉の横にはガスコンロが一つに、小さな洗い場があるだけの簡素で小さな台所。五畳程の居間にはローテーブルが置いてあり、端の方に小さな箪笥と畳まれた布団が置いてあった。
それだけ。本当に、それだけだった。台所の下を開ければきっと食器や調理器具はあるのだろう。扉が二つあり、そこはお風呂とトイレになっているのだろう。けれど、目に見える全てがあまりにも簡素が過ぎた。これでは、春花の部屋の方がまだ物が置いてあるくらいだ。
こんな小さな部屋で、こんな何も無い部屋で、楽しみも無いまま、喜びも無いまま、過ごしたのだろう。
「こんな狭かったのね、この部屋って。あの頃はちょっと広く見えてたけど……まぁ、今の部屋に慣れてるからってのもあるかしら」
土足でそのまま上がりこみ、朱里は部屋を見回す。
「うん、やっぱあの時のままね。荷物を持つだけ持って出てったのよね。懐かし」
朱里は懐かしそうにしているけれど、朱美はずっと青い顔をしているだけだ。
部屋はあの時のまま。だから、鮮明に思い出す事が出来る。あの日、あの時の事を。
朱里は一つ深呼吸をしてから、意を決したように朱美の方を向く。
「此処で、アタシはアンタに手を上げた。蹴ったし、殴ったし、罵声も浴びせた。流石に、忘れて無いわよね」
朱里は真っ直ぐ朱美を見やる。朱里の言葉に朱美は可哀想なくらいに震える。
「アタシは……アンタに手を上げた事は後悔してる。あの時、手を上げるんじゃなくて、自分に何が起こったのか、自分が何をされそうになったのか、ちゃんと言えれば良かったって今でも思ってる。でも、あの時のアタシにはあれ以外の答えが見つからなかった」
淡々と、当時の事を思い出しながら言葉を紡ぐ朱里。
「アンタは、アタシがなんで手を上げたか、分かって無いでしょ? ただアタシが、急に乱暴して来た。そう思ってるのよね」
「…………そう、思ってたわ。ええ……で、でも……多分、アタシが見て無かった事、アタシが、目を逸らしてた事が、多分、あるのよね……?」
思いもよらぬ朱美の返事に、朱里は思わず目を見開く。
返って来たとて、それは否定的な言葉か、あるいは分からないと言った思考を投げだしたような言葉だと思っていた。
けれど、朱美はしっかりと自分の意見を言った。
思わず、春花が入れ知恵をしたのかと思い春花の方を見るけれど、春花は小さく首を横に振って否定する。
これは朱美自分で考えて、自分で辿り着いた答え。朱里だけでは無い。朱美も過去と向き合おうとしているのだ。
「……そう。分かってるなら、話が早いわ。ちょっと、場所を変えましょうか」
朱里の提案で三人は集合住宅を後にする。
「ちょっと歩くけど、まぁ、その間に少しずつ話をしましょう」
朱里が先頭を歩き、その後ろを春花と朱美が歩く。
「父さんが死んでから、質の悪い先輩に騙されてこの良く分からない宗教に入信した。……いや、違うわね。あの人も多分本気で信じてたんでしょうね。此処の馬鹿みたいな教祖を拝めば異譚の脅威に晒されなくなるって……そう、信じたかったんでしょうね」
それでも、自分達を巻き込んだことを許せるかと言われれば、答えは否だ。
「此処での生活は本当にクソだった。美味しいご飯も食べられなければ、玩具だって無い。テレビも無ければマンガも無い。学校に行ってもクソみたいな宗教に入ってるからって腫れ物扱いだし、馬鹿な奴らは普通に悪口言ってくるしで……もう最悪も最悪よ」
朱里が宗教の悪口を言う度に、そこに入信すると言ってしまった朱美は萎縮して肩を丸める。その宗教の悪口を聞くだけで、自分が悪く言われていると思ってしまう。いや、実際に悪いのは朱美なのだから、その通りなのだと事実として受け止めるしかない。
ただ、それと同時に自分の愚かしさに改めて気付かされる。
初めて聞いた。自分が何も考えていない間、朱里がそんな目にあっていたなんて。そんな風に考えていたなんて、初めて知ったのだ。
本当に見ていなかった。いや違う。見ないようにしていたのだ。
「本当なら、こんなとこもう二度と来たく無かったわ。此処には嫌な思い出しか無いし、不謹慎だけど、此処に異譚が発生してぐちゃぐちゃになって、何も無くなってしまえば良いとさえ思うくらいよ。……ま、異譚が無くとも、此処は無くなる訳だけどね」
朱里の視線は一つの看板に向けられる。その看板には『解体工事のお知らせ』と記されていた。
「丁度良いと思ってね。此処が解体されて全部無くなる前に、全部話しておきたいって思ったのよ」
そう言って、朱里は振り返りながら立ち止まる。
どうやら、朱里の目指していた目的地に到着したらしい。
「此処。宗教団体の本部。まぁ、支部なんて無い小さな宗教だったけど……って、そんな事どうでも良いわね。大事なのは、此処で何が起きたかよ。……アンタの事だから、宗教団体が解体された理由も知らないんでしょ?」
朱里が朱美に問えば、朱美は素直にこくりと頷いた。
「じゃあ、尚更しっかり見てって。アンタが何も考えずに入信した宗教がどんなとこで、何をしてたかを」
踵を返し、朱里はガラスの割れた玄関の扉を開けて施設の中へと入っていく。春花と朱美も、その後に続いた。




