異譚34 本当の母の味
「たーだいまー」
扉を開け、疲れた様子でリビングに入って来る朱里。
「おかえりなさい。ご飯、もう出来てるよ。お風呂も沸かしてあるから、疲れてたらお風呂先に入っちゃって大丈夫だよ」
「ありがたーい。お腹減ったから先にご飯食べる。てかアンタ、日に日に嫁力増してくわね~」
「よめりょく?」
「お嫁さん力よ、お嫁さん力」
「僕の場合はお婿さんだと思うけど?」
今のご時世、専業主夫をしている男性もいる。良いお婿さんになる、でも問題は無いと思う春花。
「アンタ見てると、お婿さんよりお嫁さんの方がしっくりくるのよね。あー、多分アレね。詩とかシャーロットのせいね」
そんな事を言いながら、朱里は着替える為に自身の部屋へと向かった。
が、朱里は何か思い付いたのか、にたぁっと笑いながら春花を振り返る。
「ねぇ。せっかくだから今の台詞『ご飯にする? お風呂にする? それとも、わ・た・し?』で言ってみてよ。双子に言ったみたいにさ」
「何がせっかくなのか分からないんだけど。ご飯温めておくから早く着替えて来ちゃってください」
「はーい。ママみも増して来たわね……」
これ以上からかっても無駄だと判断した朱里は、素直に着替えに部屋へ向かう。
朱里が部屋着に着替えている間に、春花は冷蔵庫に仕舞っていたおかずを電子レンジで温め、お味噌汁を火にかけて温め直す。
少しして、着替え終わった朱里がリビングに戻って来る。
「あー、良いにおーい。めっちゃお腹空いてたけど、この匂い嗅ぐと更にお腹空くわ~」
朱里がテーブルの前に座り、春花は温め直したお夕飯を朱里の前に置いて行く。
「ありがと。今日は和食なのね」
「そうだよ」
「では早速。いただきます!」
余程お腹が空いていたのか、朱里は忙しなく箸を動かしてご飯を食べる。
春花は冷蔵庫から麦茶を取り出し、コップに注いでから自身と朱里の近くに一つずつ置く。
今日の献立は秋刀魚の塩焼き、かぼちゃの煮物、切り干し大根にお婆さんに作り方を教えて貰った白菜の漬物である。お味噌汁はオーソドックスにわかめと豆腐である。
「うん、相変わらず美味しいわ。けど、このかぼちゃ味見した? 何か、いつもより味が濃い気がするわ」
「美味しくない?」
「ううん。美味しいわよ。ちょっと、いつもと味付けの感じが違ったから、気になっただけ」
「そう」
自分の味付けを憶えてくれている事が凄く嬉しいけれど、それ以上に朱里の素直な気持ちが聞けて嬉しいと思ってしまう。
「それ、朱美さんが作ったんだよ」
春花がそう言えば、あれだけ忙しなく動いていた手がピタッと止まる。まるでだるまさんがころんだをしている時のように微動だにしない朱里だったけれど、少しの間を置いて恐る恐る言葉を返す。
「……そう、なの?」
そう言われれば、確かに切られたかぼちゃの大きさがまばらである。春花であれば、味が沁み込む速度を均等にするために、大きさを均等にして切るだろう。実際、春花の料理は機械で切ったかのように食材は均等な大きさである。
「うん。今日はね、一緒に御夕飯作ったんだ。かぼちゃの煮物と、秋刀魚の塩焼きは朱美さんが作ってくれたんだよ」
そう言われても、朱美の事を知っている朱里からすれば、春花の言葉はまさに晴天の霹靂だった。何せ、朱美は引っ越しをしてから一切部屋から出てこなかったのだ。
料理を作った痕跡だって無い。料理以外にも何かをした痕跡は無かった。朱里は朱美に自由に使えるお小遣いを渡している。子から親に、なんて変な話ではあるけれど、入用な物があれば自由に使ってくれと言って毎月渡しているのだ。
だが、そのお金を使った形跡だって無い。この家に来て朱美がした事なんて高が知れているのだ。
だから、春花の言葉が信じられなかった。あれだけ何もしなかった朱美が料理をしたなんて、朱里からすれば冗談のように聞こえたけれど、春花はそんなつまらない冗談を言ったりはしない。
「本当に? あの人が、料理をしたの?」
「うん。一生懸命頑張ってたよ」
春花は優しくそう返す。
「久し振りの料理だったから指先とか切っちゃってたけどね。それでも、上手に出来たって喜んでたよ」
「そう……」
春花の言葉を聞いて、朱里はゆっくりとかぼちゃの煮物に箸を伸ばす。かぼちゃの煮物を箸で掴み、口に運んで噛みしめるようにゆっくりと味わう。
朱里にとって母の味は遠い昔の記憶過ぎて、最早覚えが無いものだった。
だから、懐かしいとは感じない。
「……そっか。こんな味、だったんだ……」
それでも、得も言われぬ感情が湧き上がる。
朱里は何も言う事無く、ぱくぱくとご飯を食べ続ける。
箸を止める手は止まらず、あっという間に白米をたいらげる。
「おかわり」
「うん」
差し出された茶碗を受け取り、春花は炊飯器から白米をよそって朱里に渡す。
朱里は春花から茶碗を受け取ると、またぱくぱくとご飯を食べる。
その様子を春花は微笑みながら見守る。
朱美が作ったと聞いた後、朱里は言葉にして料理を褒める事はしなかった。それでも、食べる手を止めない事が今の朱里の心情をよく表している。
結局、お夕飯を食べている間、朱里は一言も喋らなかった。けれど、ご飯を食べ終わった後はいつもの朱里だった。
「あ゛ぁ゛……食べ過ぎだぁ……」
苦しそうにお腹をさすり、ソファに身体を預ける朱里。
「まさか、炊飯器の中のご飯全部食べちゃうとは思わなかった……」
「ごめぇん……」
「ふふっ、別に平気だよ。ご飯は明日炊けばいいんだし」
朱里の隣に座り、春花は朱里の前にプリンを置く。
「今じゃなぁい……」
「お腹空いたら食べてね」
「あぁい……」
用意しておいた自分用のプリンをスプーンですくい、ぱくりと一口食べる。プリンの甘味に少しだけ苦みのあるカラメルが丁度良い。
「うぅ……」
呻きながら、朱里は春花の肩に頭を預ける。
「……ありがとね」
何が、とは言わない。
「ううん。好きでやってる事だから。それに、朱美さんと料理するの楽しいし」
「そう。……アンタが迷惑じゃ無かったら、あの人の話し相手とか、色々……引き続きお願いしても良い?」
「うん」
「ありがと……」
一つお礼を言って、朱里はゆっくりと目を閉じる。少し休むつもりで目を閉じたのだろうけれど、満腹感と疲労でそのまま眠りについてしまった。
朱里は春花の肩に頭を預けているので、朱里が起きない限り春花は動く事が出来ない。
「チェシャ猫、本持ってきてくれる?」
「キヒヒ。良いとも」
チェシャ猫にお願いして、春花の部屋から読みかけの本を取って来て貰う。
最近、あんまり人前に出てこないチェシャ猫だけれど、声を掛ければ出て来てくれるのでいつもそばに居てくれては居るらしい。因みに、寝る前になると姿を現して一緒に寝ている。
「キヒヒ。はい、持って来たよ」
「ありがとう。チェシャ猫」
「キヒヒ」
一つ笑って、チェシャ猫は春花の膝の上に丸まって眠る。
『人妻の後は娘ですか! 親子丼というやつですね! あーいやらしいいやらしい! これだから男の人って不潔なんです! 出掛けてる間も色んな女の人を引っ掛けてるんでしょうね! この女の敵!』
最近妙に自分への当たりが強いヴルトゥームのテレパシーを聞きながら、朱里が起きたらまた塩水かなと慣れたように考える春花であった。




