異譚33 お散歩
たこ焼きの材料を買った後、春花は材料を矢羽々家に置いてそのまま帰宅した。
たこ焼きパーティーは魅力的だったけれど、春花は朱美のお夕飯を作らなければいけない。それに、あの様子であれば真弓と千弦の事はお婆さんに任せれば大丈夫だろう。千弦も前向きな姿勢を見せていた。真弓と話すようにも言ってあるし、余程こじれて伝わらない限りは大丈夫なはずだ。
帰ると言ったら四人はかなり駄々をこねていたので、言い聞かせるのが少し大変だった。
しかして、春花にもやらなければいけない事がある。
お夕飯を作らなければいけないのも事実だけれど、それ以外にやらねばならぬ事もあるのだ。
家に帰って直ぐ、春花は朱美の部屋をノックする。
「朱美さん、今大丈夫ですか?」
春花が声を掛ければ、暫くして朱美が扉を開ける。
ちらりと顔を覗かせた朱美に、春花は優しい声音で言う。
「それじゃあ、今日もお散歩に行きましょう」
そう言って、春花は優しく朱美の手を取ると、ゆっくり朱美を部屋から引っ張り出す。
『あーあ。未亡人とお忍びデートですかー。いやらしいいやらしい。手なんか繋いじゃって。これだから男って』
なんてテレパシーで余計な事を言ってくるヴルトゥームは無視する。後でまた塩水をかけてやろうと心には決めておく。
ゆっくり朱美の手を引いて、靴を履き、マンションの外へ出る。
「今日もいい天気ですね。少し、肌寒いですけど」
「そう、ね」
朱美の手を引いて、ゆっくり街の中を散策する。
「あ、金木犀が咲いてますよ。良い匂いですね」
「本当ね」
「あ、猫ですよ。野綺麗な毛並みですね」
「あ、本当だ」
「焼き魚の匂いがします。今日のお夕飯は魚にしますか?」
「うん」
「もう秋ですからね。秋刀魚なんてどうですか?」
「うん」
歩きながら、他愛も無いお喋りを続ける。
このお散歩を始めたのは、真弓とカフェテリアでお話をしてからだ。
春花なりに色々考えてみたのだ。考えたのは勿論、朱里と朱美の事。
朱里がどうして朱美と一緒に住んでいるのかが春花は分からなかった。だって、本当に嫌いあっているのであれば、朱里の財力であれば別居は可能なのだ。
だが、朱里はそうしなかった。それはつまり、同居している事こそが朱里の答えなのだ。
言葉にはしない。態度にも出ない。それでも、朱里は朱美の事が好きなのだ。母親としてまだ愛しているのだ。だから一緒に暮らしている。
それが分かれば、春花は二人の仲を取り持つだけだ。だが、ただ取り持つのは意味が無い。
現状、朱美には社会復帰が必要だ。失礼な話だけれど、朱美は千弦が辿るかもしれなかった未来の姿だと、春花は思っている。
やりたくない事、出来ない事をやらせないと言うのは、最終的に本人の為にはならない。無論、能力的に無理難題を押し付けるような事は意味合いが変わってくる。
朱美の場合は周囲が朱美は何も出来ないからと、何も任せて来なかったから朱美の成長を潰してしまっていた。結果、出来ない事への処理能力が欠落したまま育ってしまった。
今の朱美に必要なのは、外の世界に慣れさせる事と、少しずつで良いから出来ない事を減らしていく事。そして、最終的には朱里と話し合う事。自分がしてしまった事と向き合う事。
最後の二つはなあなあで終わらせてはいけない部分になるはずだ。朱里の為にも、朱美の為にも。
ゆくゆくはパートでもなんでも良いから、働けるようになる事だろう。
ただ、一つ不明点があるとすれば、朱美が朱里をどう思っているか、である。
朱美は朱里を怖がっている。暴力を振るわれたという事実でしか捉えていないので、自分にどんな非があったかを理解していない。それを理解した上で、それでも朱里を自身の子供として愛せるのかは、朱美本人にしか分からない事だ。
「……ねぇ」
「なんですか?」
「……多分ね、意味無いと思うの」
「それは、どういう意味ですか?」
責めるつもりは無い。けれど、春花の声音が冷たく感じたのか、びくっと身を震わせる朱美。
「だ、だって……外に出たって、アタシに出来る事なんて、無いし……。だ、だったら、ずっと、家にこもってた方が、良い、から……」
「じゃあ、ずっと何も出来ないままで良いって事ですか?」
春花の問いかけに、朱美は何を言うでもなく俯く。
「それとも、失敗するのが怖いんですか?」
朱美は何も答えない。ただ俯いているだけ。
「失敗して馬鹿にされるのが怖いんですか?」
ぎゅっと朱美の手に力が入る。
「失敗して呆れられるのが怖いんですか?」
力んでいるのか身体が震える。
「失敗して失望されるのが怖いんですか?」
それでも、朱美は何も言わない。ただ、俯いている。
「失敗してしまう、自分が嫌なんですか?」
「――っ、全部よっ!!」
春花がしつこく訊ねれば、朱美は声を荒げて答える。周囲の目を考えずに声を荒げたので通行人は何事かと春花達の方を見るけれど、朱美は気にする余裕も無く続ける。
「ずっと失敗ばっかりしてきたのよ!? 馬鹿にされて、呆れられて、貶されて、騙されて! 怖いわよ! 全部全部!! だってアタシは何にも出来ないんだから!! 何も出来ないなら何もしない方が良い!! ずっとずっと部屋にこもってれば、誰の邪魔もしないんだから!!」
金切り声でそう叫ぶ朱美。
あの部屋に居れば誰の邪魔もしない。あの部屋に居れば誰にも馬鹿にされない。あの部屋に居れば何も失敗しない。
何もしなければ、馬鹿にされる事なんて無い。誰の迷惑にもならない。だから何もしない。それが、朱美の導き出してしまった答え。
「だからって、何もしなくて良い理由にはならないですよ?」
そんな朱美に、春花は厳しい言葉をかける。
春花は、少し怒っていた。怒っていたから、あんなにも朱美をしつこく問いただしたのだ。
怒りの理由は、朱美が自分を蔑ろにするような事を言ったからだ。
「失敗したくない気持ちは分かります。誰かに迷惑をかけてしまう事もありますし、取り返しのつかない事態に陥る事だってあります。でもそれって当たり前なんです。生きている限り失敗し続けます。皆そうです」
春花だって失敗を経験してきている。大きな失敗から、小さな失敗まで。取り返しのつかない失敗だって一杯経験している。その最たる失敗を、春花は忘れたりしない。
「朱美さんは失敗をする度に周りに責められたり、怒られたり、呆れられたりして来たんだと思います。だから、何もしない事を選んだんですよね。でも、それも失敗です。朱美さんのその選択は失敗なんです」
「そ、そんな事無い! あ、アタシなんか、何もしない方が良いんだから! その方が、皆幸なんだから!」
「その幸せになる皆って、朱美さん以外、ですよね?」
「――っ」
春花の言葉に朱美は息を飲む。
「朱美さんの辛さを分かるとは言いません。朱美さんが受けた痛みは、朱美さんにしか分からないですから。でも、それで朱美さんは幸せになれたんですか? 全部諦めて、その結果幸せになれたんですか?」
優しい事を言うだけが相手の為になるとは限らない。けれど、厳しい言葉をぶつけるのも優しさとは違う。だから、頑張って言葉を選ぶ。優しすぎず、厳しすぎず、さりとて朱美が現実をちゃんと見るための言葉を選ぶ。
「このまま何もしない人生なんて寂しいです。それで誰かに迷惑を掛ける事が無くなったとしても、朱美さんはずっと辛いままです」
しっかりと朱美と目を合わせ、春花は優しい声音で言う。
「少しずつで良いんです。少しずつ、少しずつ、失敗しても良いから、何かやってみませんか? そうだ。帰ったら料理をしましょう。僕、料理は得意なんです。だから、もし朱美さんが失敗してもカバー出来ますよ」
「……でも」
「何もしないよりも少しでも何かして、楽しい事を見付けた方が良いです。全部出来て当たり前、なんて言いませんよ。だって、出来ない事があるのが人間なんですから」
にっこりと優しい笑みを浮かべる春花。
「とりあえず、今日はこのままスーパーに行って、お買い物をして、料理を作りましょう。あ、お菓子も買っちゃいますか? 友人に勧められたお菓子があるんですけど、まだ食べてないのでおやつの時間に一緒に食べましょう」
そう言って、春花は朱美の手を引いて歩き出す。
困惑しながらも、朱美は春花に手を引かれるまま歩く。
多分、まだ迷っているのだろう。春花の言った事を飲み込めてもいないのだろう。
だからこそ、少し強引でも、春花は朱美を引っ張っていく。
今の朱美には小さな選択でも決められないのだろう。だから、最初は春花が選択し、支える。
そうして、少しずつ、少しずつ、自分で何かを選べるようになればいい。
「今更遅すぎる、なんて事は無いです。今更無理、なんて事も無いです。だって、自分から部屋を出て、僕に会いに来てくれたじゃないですか」
「――っ」
「だから、大丈夫です。一歩ずつ、進んで行けてますよ」
誰かに優しくされた事はある。
誰かに厳しくされた事はある。
誰かに見放された事はある。
でも、誰かに認められた事は無かった。
それがたった小さな事も、認められた事は無かったのだ。
「……ぁ、たし……っ」
隣から鼻をすする音が聞こえてくるけれど、春花は視線を向けない。でも、少しだけゆっくり歩く。スーパーに着く頃にはその音が止むように、ゆっくり、ゆっくり。




