異譚20 分からない
「あんた、本当にどんくさいわねぇ」
最初に朱美にそう言ったのは、実の母親だった。
何をしてそう言われたのかは憶えていない。きっと、母は何の気なしに言ったのだろう。それでも、何故か朱美はこの事をずっと憶えていた。
「あけみちゃん、ちゃんとやってよ! あけみちゃんのせいでいっつも負けちゃうんだよ? あけみちゃんみたいな子、どんくさいって言うんだよ?」
小学校に上がり、集団行動をするようになってから、そう言われる回数は増えた。
どんくさい。のろま。とろとろしないで。なんで何回も同じ失敗するの? 足引っ張らないでよ。ここ何回も教えたよね? 真面目にやってる? いっつもあんたが失敗するじゃん。本当に何にも出来ないよな、お前。顔が良くても、頭悪ぃよな。
生きてきて褒められた回数は少ないのに、バカにされた回数は数知れない。
自分が物事を要領良くこなせない事は薄々気付いていた。
勉強が出来ない。授業で習ったところをノートに綺麗にまとめても憶えられない。何度も予習復習をしたけれど、テストの点はいつも低かった。
運動が出来ない。何も無いところで転んでしまう。運動会のリレーではいつも転んでしまった。大縄跳びも何回かは大丈夫だったけれど、いつも朱美が引っ掛かってしまった。
仕事が出来ない。一回言われた事を憶えられない。何度も同じ失敗をしてしまう。高校生の頃にバイトをしてみたけれど、同じミスを頻発してしまって自主退職を勧められた。
小学生の頃に何となく気付き始め、中学生の頃にはそれを自覚し、高校生の頃には痛いほどの実感へと変わった。
小学生の頃に言われた抽象的な言葉は、中学生の頃には具体性を帯び、高校生の頃には朱美を苛む言葉の刃へと変わった。
そんな人生を送って来た結果、朱美はある結論に達した。
東雲朱美は何も出来ない。
今まで生きて来て、朱美はそれを痛いほどに実感している。
確かに、自分一人で出来る事の方が少なかった。人より物覚えが悪く、人より理解力が乏しい。初めは優しく接してくれた周囲も、段々と朱美を相手にしなくなった。
それでも、朱美にも友人と呼べる存在はいた。朱美を可愛がってくれて、朱美に優しくしてくれた友人達。けれどそれが、純粋な優しさではない事に朱美は気が付いていた。
憐れみ。周囲が朱美に優しくするのは、朱美を憐れんでいるからであり、心底からの優しさではない。
『ああ、朱美ちゃんって私が居ないとダメなんだなぁ』
『朱美って一人じゃ何にも出来ないからさー。あーしが付いてやんなきゃだめなわけー』
『東雲には無理だからやんなくて良いよ。俺がやっとくから』
皆、笑顔でそう言ってくる。だから、朱美も笑顔で返す。
『ありがとう』
だって、優しくしてくれたんだから、ありがとうって言わないといけない。自分の代わりにやってくれたんだから、ありがとうって言わないといけないのだ。
それが純粋な優しさじゃなくても良い。自分が何にも出来ない無能だと言う事は分かっている。なら、朱美に出来る事は何かをする事じゃない。何かをして貰う事だ。
だって自分では何も出来ないのだから、誰かにやって貰う他無いのだから。
ずっと、ずっと、そうやって生きて来た。誰かに何かをして貰って、誰かに何かを決めて貰った。それが自分の意志を乖離していたとしても、何も出来ない自分は文句を言ってはいけないのだ。
『ありがとう』
そう言って、感謝する事だけが朱美に出来る事だった。
男の人と付き合って、最終的に結婚をしたのも、『俺達、付き合おう』『俺達、結婚しよう』そう言われたからだ。だから付き合ったし、結婚したし、子供も産んだ。
朱里を産むときは正直恐怖の方が大きかった。だって、自分が無能だから、自分と同じ無能が生まれてしまうんじゃないかと思ったのだ。それに、自分に子育てなんて出来ない。そんな自信は無い。
それでも、『そろそろ子どもが欲しいよね』と笑顔で言われれば、『そうだね』以外の言葉を言う事は出来なかった。
朱里を産んで暫くして、夫の手を借りてなんとか朱里を育てる事が出来た。朱里は自分とは似ても似つかない程に利発だった。本当に自分の子供なのかと疑う程だったけれど、自分は夫以外と身体の関係を持った事は無いし、自分と同じ赤毛を朱里は受け継いでいた。朱里は、紛れも無く自分の子供なのだ。
子育てに四苦八苦しながらも、自分に笑みを浮かべてくれる朱里に確かな愛情を抱いていた。
家族三人。大変な事も多く、慎ましやかではあったけれど、幸せに暮らしていた。
けれど、それも長くは続かなかった。
異譚で夫が亡くなり、朱美と朱里は二人っきりになってしまった。
そうなれば、自分がどうするべきかなんて分からなかった。何せ、自分の事をいつも夫に決めて貰っていたのだ。急に自分で考えるだなんて出来るはずも無い。
頑張って今まで通り生活をしようとしたけれど、貯金を切り崩して生活するのには限界があった。このままでは生きていけない。朱美は働く必要があった。
だが、恥ずかしい話、朱美は働いた経験が浅い。バイトは直ぐに辞める事なったし、卒業と同時に結婚をして専業主婦をしていたのでろくに働いた事が無い。
どうすれば良いか分からない。そんな風に途方に暮れていたある日、とある人物が自宅を訪ねて来た。
訊ねて来たのは、高校の頃の先輩。朱美に憐れみを持って優しくしてくれた人達の中の一人。
「永源尊師の教えを護れば、異譚に襲われる事はありません。もし仮に異譚に巻き込まれたとしても、必ず異譚から無事に生き残る事が出来ますよ」
丁寧な言葉と優しい笑みで、先輩は朱美にそう言った。
少し考えれば、タイミングが良すぎる事くらい分かったはずだ。異譚で夫を失った朱美の心の傷を利用しようと擦り寄って来たと分かるはずだ。
「まぁ、そうなんですか?」
だが、朱美には分からなかった。それ以上に、朱美は頼るべき存在を見付けたと歓喜までしてしまっていた。
そこからの転落模様など多く語る必要は最早無いだろう。
永源尊師の教えを護る為に様々な事をした。そうすれば、異譚で死ななくて済む。そうすれば、朱里を護ってあげられる。そうすれば、またちゃんと生きていける。
本気でそう思っていた朱美は盲目的だった。それこそ、自分以外が見えなくなるくらいに。
ある日、朱里が永源尊師の加護を受けられると知らされた。その言葉を聞いた時、飛び跳ねる程に嬉しかった。
だって、朱里を護ってくれると言うのだから。母親として喜ばない事は無い。
笑顔で朱里を送り出し、朱里が加護を授かって帰って来るのを今か今かと待ちわびていた。
そうして日が落ちた頃、朱里が扉を開けて帰って来た。
「あぁ、お帰りなさい。加護はどうだった?」
笑顔で、朱美は朱里にそう訊ねた。
だが、返って来た言葉ではなく、容赦の無い平手打ちだった。
「……え?」
何が起こったのか、一瞬分からなかったけれど、じわりじわりと頬が熱を持ち痛みを訴えてきて、初めて自分が朱里に平手打ちをされたのだと理解した。
どうして自分を叩くのか分からなかった。疑問の眼差しで朱里を見た。
その直後、何度も、何度も、何度も、朱里は朱美に手を上げた。
「うっ……な、なんで……? どうしたの……?」
痛みに呻きながら問いかけるも、朱里からの答えは暴力以外には無かった。
分からない。分からない分からない分からない。朱里が怒っている理由が分からない。自分が暴力にさらされている理由が分からない。一目見れば何があったのか分かるだろう朱里の様子も、朱美には何一つとして分からない。
涙を流しながら蹲り、痛みに耐える事しか出来ない。
朱里が何かを言っているけれど、何も聞こえない。何も聞きたくない。
何を間違えたのか分からない。どうしてこうなってしまったのか分からない。なんで自分が何も分からないのかも分からない。
今はただ、愛していたはずの朱里が怖かった。




