異譚12 ラッキースケベ
朱里の家にお世話になってから、早くも一週間が経過した。
曲がりなりにも女子である朱里との同居。少しは緊張なりトラブルなりに見舞われると思っていたけれど、そんな事はまったく無かった。
朝早くに起きて三人分の朝食とお弁当を作り、学校が終わればお夕飯を作ってから対策軍へと向かう。週に二回程、菓子谷家へお邪魔して家事をこなすので、その時は朱美のお夕飯を作る時間が短くなってしまうので、少し簡素な料理になってしまう。
それでも、レシピ本を見て勉強したり、作り置き出来るタイプの副菜を用意しておいたりと、料理のレパートリーを増やしてはいるので彩りに欠ける事は無い。
朱里にはそこまでしなくても良いと言われているけれど、気になってしまうのだから仕方が無い。それに、料理を作るのは苦ではない。朱里からすれば手間暇をかけていると思われるかもしれないけれど、春花にすれば半分趣味のようなものだ。特に苦に思った事は無い。
だが、問題が全く無い訳ではない。
「お早うございます。朝御飯です」
「ただいま戻りました。これ、お夕飯です」
基本、朱美との会話は春花が朝と夕方にこの二言を言って終わってしまう。朱美からのレスポンスは無く、いつもぺこりと頭を下げるだけなのだ。
朱美がふさぎ込んでいる理由さえ分かれば春花も何とか出来るのだろうけれど、朱美からそんな話をする事も無く、朱里の方も何も話すつもりは無いのか、あからさまに朱美の話題を避けている節がある。
ヴルトゥーム戦の時に、ちらっと朱里の過去の話は聞いている。朱里のお父さんが亡くなって、その後に朱美が宗教にハマり、朱里が酷い目に遭いそうになった。簡単にだけれど、そう説明はされた。
その時の事が尾を引いていて、今のような関係になってしまっているのだろうとは思うけれど、それは春花の憶測にしか過ぎないので確定事項ではない。
「どうしたら良いかなぁ……」
お風呂の中、湯船につかりながらぽつりと呟く春花。
アリスが呟くと、乳白色の湯舟からぶくぶくと泡が噴き上がり、湯船の中からずぶ濡れになったチェシャ猫が姿を現す。
「キヒヒ。浮かない顔だね、アリス」
長い毛は濡れてぺったり張り付いているけれど、チェシャ猫は気にした様子も無く三角座りをしている春花の膝の上に登る。
「……いつから居たの?」
「キヒヒ。ずっと居たよ」
チェシャ猫の言う通り、春花が湯船につかった直後からチェシャ猫はお風呂場に姿を現していた。物思いにふけっていた春花は目の前にチェシャ猫が居たのに一切気付いた様子は無かった。
チェシャ猫は普通の猫ではないので水やお湯を怖がることは無いけれど、積極的にお風呂に入る事も無い。ちょっと驚いたけれど、珍しくお風呂に入って来たなぁと思う春花。
濡れてほっそりしたシルエットを見せるチェシャ猫だけれど、そのまんまるお目々と三日月型のにんまりしたお口は健在である。
「キヒヒ。それで、どうしたのかな?」
「朱美さんの事。このままで良いのかなって」
「キヒヒ。そうだねぇ。こればっかりは、難しい問題だよ。何せ、他人の家庭の事情だからね。猫らが首を突っ込める範疇なんて高が知れてるさ」
言って、チェシャ猫は春花の膝から降りてぷかぷかと湯船に浮かぶ。湯船にもやぁっとチェシャ猫の長い毛が広がる。
「キヒヒ。ヴォルフやヘンゼルとグレーテルの時のようにはいかないさ。あの時は、成り行きもあったけど、それ以上に三人には助けて欲しいって気持ちがあった。だから、彼女達の時はアリスが介入する余地があったんだよ」
じたばたと前足と後ろ足を動かしながら、湯船の中をすいすいと泳ぐ。
「じゃあ、東雲さんは?」
「キヒヒ。さぁね? 猫には何とも言えないさ」
「じゃあ、僕にも分からないよ……」
人の感情の機微に疎い春花では気付けない事の方が多い。その点、チェシャ猫は人の機微に敏い。そのチェシャ猫が何とも言えないと言うのであれば、春花に朱里の心情を察する事が出来るはずも無い。
「キヒヒ。アリスは少し考えた方が良いね。相手の言葉や態度だけが、相手の気持ちを慮る材料じゃないんだからね」
「……うん」
チェシャ猫に真っ当な事を言われて、しょんぼりと肩を落とす春花。
「キヒヒ。例え猫が分かっていたとしても、それは猫の口からは言えない事さ。また聞きで自分の気持ちが伝わってしまうなんて、味気無いにもほどがあるからね」
言って、バスタブの縁に登ると、ぶるるるるっと身を震わせて長い毛が吸ったお湯を周囲にまき散らす。不思議な事に、たったそれだけでチェシャ猫の毛はいつものふわふわな手触りに戻っていた。
「キヒヒ。アリス。気になるなら、聞いてみれば良い。ロデスコだって、聞かれて嫌ならはっきり言うさ」
そう言い残し、チェシャ猫はぱっとお風呂場から姿を消した。
「はぁ……」
溜息を吐いてから、春花は湯船から上がる。
「聞けって言われても……」
身体に付いた水気をある程度拭いた後、脱衣所に出て身体や髪を乾いたバスタオルで拭いて行く。
「聞かれたくない事だってあるだろうし……」
ぶつくさと独り言を言いながら、身体を拭き終わった春花は下着を履く。
その瞬間、不意に脱衣所の扉が開かれる。
「あ」
脱衣所の扉を開いた張本人――朱里は、扉を開けた瞬間に己の失態を覚ったような声を漏らした。
数秒、二人の視線が交錯する。
「あわっ」
事態を理解した途端に、春花は恥ずかしそうにバスタオルで身体を隠す。
下着を履いていたとはいえ、それ以外は何も身に付けていない。人並みの羞恥心は持ち合わせているので、流石に恥ずかしくなってしまう。
「いや、逆ぅ……って、違う違う違う」
そんな春花の反応を見て、本来であれば起こりうる立場が逆である事を口に出した後、そんな事言ってる場合ではないと素早く扉を閉める。
「ごめん。ノック忘れてた……」
「あ、うん……大丈夫。僕の方こそ、声かけてから入れば良かったね」
「……ルール追加ね。お風呂に入る時は声掛ける」
「うん、分かった」
「出たら教えて。それまで部屋にいるから」
「うん」
ずっと扉の前で待っているのも春花としてはやりにくいだろうと思い、朱里は一旦部屋に戻る事にする。
「あっ」
しかし、直ぐに脱衣所の扉が少しだけ開き、上気した頬の春花が扉から顔を覗かせる。
「……突然だけど、何か相談とかあったら言ってね? 僕、力になるから」
「はぁ? 急に何よ」
先程チェシャ猫が言っていた事を実践しようと思い、思い切って声を掛けてしまったけれど、確かに朱里の言う通り急に脈絡の無い事を言い出してしまっただけになってしまった。
加えて言うのであれば、恥ずかしさを誤魔化すために出て来た言葉でもある。出て来た言葉が本心である事には変わりないけれど。
「いや、お世話になってるから、なんかあったら、力になるよって……」
しどろもどろになる春花だったけれど、朱里は一つ息を吐いてから特に何も思っていないような表情で返す。
「はいはい。なんかあったら言うわよ。それよりも、早く服着て髪乾かしなさい。風邪引くわよ」
扉からは顔だけではなく、タオルで隠れていない肩も見えてしまっているので、春花が服を着ていない事は丸分かりなのである。
「あ、うん……」
朱里に言われ、春花は頷きながら脱衣所に引っ込む。
「……だから、逆だっつうの……なんでアタシがラッキースケベする方になってんのよ……」
どうにも、シチュエーションで負けた気がする朱里は、ぶつくさ言いながら自室へと引っ込んで行った。
「……相談、ね……出来れば苦労しないわよ……」
ぽつりと残した言葉。その言葉を聞いていたのは、ずっと陰で様子を窺っていたチェシャ猫だけであった。




