異譚2 挨拶
「荷解き終わったら教えてね。同居人を紹介しないといけないからさ」
そう言い残し、朱里は部屋から出て行く。
荷解きと言っても、春花の荷物はかなり少ない。
布団は予備の物を朱里が用意してくれたし、特段テーブルなどが必要な訳ではない。服もクローゼットがあるのでそこに入れていれば良い。
因みに、元々持っていた布団や箪笥等は業者に処分して貰った。プライベートルームに一時避難しようと思っていたので、大きな荷物は邪魔になると思い処分した。それに、プライベートルームには代替品があるので、持ち出す必要が無かったと言うのもある。
ともあれ、春花の荷物は少ない。
用意してくれたテーブルに端末を置き、お気に入りの猫のマグカップを置き、服をクローゼットに仕舞って終了。勉強道具は鞄に入っているので全てなので部屋の隅に置いている。
「キヒヒ。終わったかい?」
布団の上で丸まりながら春花を見ていたチェシャ猫が訊ねれば、春花はこくりと頷く。
「キヒヒ。そうかい。それならロデスコの部屋に行こうか」
「うん」
春花はチェシャ猫を抱き上げ、部屋を出る。
最初に案内された朱里の部屋の扉をこんこんこんっとノックすれば、直ぐに扉が開かれる。
「終わった?」
「うん」
「そ。なら入って」
そう言って、自分の部屋に入るように促す朱里。
「お邪魔します」
朱里の部屋に入り、即座にチェシャ猫がぐりんっと首を回して朱里のデスクを見やる。明らかに可動可能域を超える首の動きに、思わずびくっと驚く春花。
「どういう事だい、ロデスコ?」
「それを含めて説明するわ。とりあえず座って」
朱里はデスクの前のチェアに座り、春花は少し離れた位置のクッションの上に座る。
「じゃ、アンタも挨拶なさい」
朱里がそう言えば、デスクの上に置かれた観葉植物が動き出す。観葉植物は閉じていた蕾を開き、その正体を露わにする。
『お久しぶりです、アリス。ようこそ、我が家へ』
観葉植物改め、ヴルトゥーム。かつて敵対した相手の思わぬ登場に、春花は一気に警戒心を上げる。
「待った。説明するから聞いて」
腰を浮かせかけた春花を冷静に制止する朱里。
朱里にそう言われ、春花は渋々と言った様子で腰を落とす。
「どういう事なの……?」
「なんか、アタシ達に倒される直前に種子を飛ばしたらしいわ。神性とか、前みたいな力は一切無いみたいだし、情報通らしいからウチで居候させてやってるって訳」
『紹介に預かった通りです。今はただの美し過ぎるだけの観葉植物です。危険は無いので見逃してください』
「……そうは言っても……」
「キヒヒ。そうだね。神性を無くしているのは事実みたいだけど、だからと言って見逃すのもね」
ギラリと剥き出しの牙が妖しく光る。
「そもそも、どうして東雲さんはヴルトゥームの事を報告しなかったの?」
「コイツもそれなりに情報を持ってたわ。害が無いから、情報源として確保しておきたかったのよ。報告したら、コイツがどうなるかなんて火を見るよりも明らかだろうしね」
「まぁ、あれだけの被害を出してたからね……」
ヴルトゥームを対策軍に引き渡して、道徳的な対応をされるかどうかは分からない。
「キヒヒ。なら、どうして猫達にばらしたんだい? アリスはともかく、猫が対策軍にリークするとは思わなかったのかい?」
「そんな事してもメリット無いでしょ。色んな事が起こってるんだから、確かな情報を持ってるコイツが居てくれた方がこっちとしてはメリットになるでしょ? それが分からないアンタじゃないと思うけど?」
「キヒヒ。確かにねぇ……」
チェシャ猫の情報はアリスの気付きと共に更新される。更新されていない情報をヴルトゥームが持っているのであれば、それは大きなアドバンテージになる。
「アタシだけで抱えても良かったんだけど、コイツから貰った情報をアタシが発信するのは明らかに不自然でしょ? チェシャ猫が居ないアタシが、どうしてそんな事知ってんだって、話になる訳だし」
「キヒヒ。となると、猫という協力者が居た方が情報を発信しやすい、って事だね。猫が情報を発信したところで、それは今まで通りの事だからね」
「そーいう事。アンタの住むところが無くなったって聞いて、丁度良いから棲み処の提供と、コイツの事を共有しようって思ったのよね。コイツもアンタに共有する事には了承してくれたし」
『出来ればこっそりと余生を過ごして居たかったのですが、管理者にも私の存在がバレてしまいましたので。こうなれば、一番勝率の高い方法を取るしかありません』
「キヒヒ。そうかい。まぁ、それに関しては遅かれ早かれだとは思うけどね」
色々納得したのか、チェシャ猫は特にこれと言った反論は無いようで、落ち着きを取り戻したように春花の膝の上で丸まっている。
「……実害は、無いんだよね?」
「ええ。ちょっと小うるさいのが増えたってくらいね」
「そう……」
実害も無く、チェシャ猫も危険ではないと判断している。であれば、問題は無いのだろう。かと言って、まるっきり心を開くと言うのも無理な話ではあるけれど。
『私も貴方も居候の身です。居候同士、仲良くしましょう』
「……うん。よろしく」
朱里が納得をしているのであれば、波風を立てる必要はない。
ヴルトゥームの言葉に、春花も好意的に頷く。
「さて! これで同居人の紹介はお終い……とは、ならないのよね……」
目に見えてテンションを下げる朱里。
「……でもまぁ、同居する以上は顔合わせもしなくちゃいけないわよね」
言って、重たそうに腰を上げる朱里。
「付いて来て。挨拶しに行くから」
ヴルトゥームを紹介する時よりも明らかに嫌そうな表情を浮かべている朱里。
チェシャ猫は挨拶をするつもりが無いのか、朱里の座っていたチェアに移動してそこで丸くなる。
春花は立ち上がり、朱里の後に続く。
朱里の部屋から一番遠く離れた部屋。その部屋の前で止まると、朱里は一つ深く息を吐いてから扉をノックする。
「ねぇ、話があるから出て来てくれる?」
ノックの後にそう声を掛ければ、暫くしてゆっくりと部屋の扉が開かれる。
部屋から出て来たのは、三十代くらいの女性。朱里のように整ったプロポーションと整った顔立ち。勝ち気な目をしている朱里とは違い、自信無さげに目尻は下がっている。
髪はぼさぼさで着ている服もよれよれ。身嗜みに気を遣っている朱里とはまるで正反対の恰好だ。
視線は常に下を向いており、自分を護るかのように背中を丸めている。
「……なに?」
ぼそりと女性が問えば、朱里はぴくっと眉を動かした後、自身を落ち着けるように一つ息を吐いてから答える。
「コイツ、有栖川春花。こんななりだけど一応男。家が住めない状態になったから、ウチで暫く預かる事になったから」
「…………そうなの」
ちらりと、女性は春花の方を見やる。
春花と視線が合うと、女性は慌てて視線を下げる。
「……挨拶ぐらいしてよね」
ぼそっと朱里が愚痴を零せば、びくっと女性は身を震わせる。
そんな女性の様子に更に苛立ったように眉間に皺を寄せる朱里だったけれど、これ以上何を言っても無駄なのは理解しているので、女性の態度を気にせず春花に女性を紹介する。
「東雲朱美。アタシの母親」
多分そうなんだろうなとは思っていたものの、二人の空気に割って入れなかったので口にはしなかった。間違えていても困らせてしまうし。
「有栖川春花です。少しの間、お世話になります」
春花がぺこりとお辞儀をすれば、女性――朱美も小さくお辞儀をした。
「じゃ、そういう事だから。行くわよ」
「あ、うん……」
挨拶を済ませれば、それ以上用は無いとばかりにさっさと朱美の前から離れる朱里。
もう一度朱美にぺこりとお辞儀をしてから、春花は朱里の後を追った。
二人の背中を見送った後、ゆっくりと朱美は部屋の扉を閉じる。そしてその場に座り込み、震える身体を抱き抱えながら、深く深く息を吐いた。
そのまま、ぶつぶつと何かを一生懸命に唱える。いつまでも、いつまでも、朱美は何かを唱え続けた。




