異譚33 絶望と恐怖
落ちて行くロデスコを追おうとするけれど、それを阻むように灰色の蜘蛛達が邪魔をする。
「邪魔……ッ!!」
アリスは致命の極光を放つも、一撃で死を招く致命の極光に臆する事無く蜘蛛達はアリスの行く手を阻む。
「あ、アリス!! アトラク=ナクアは!?」
「――ッ!!」
サンベリーナの言葉に、アリスは逡巡する。
ロデスコを助けるか、アトラク=ナクアを倒すか。
蜘蛛達に阻まれ、どちらも容易ではない。両方は無理だ。どちらかを選ばなければいけない。
「今は……ッ!!」
「キヒヒ。アリス、緊急事態だ」
そのまま奈落へロデスコを追おうとしたアリスの元に、何処からともなくチェシャ猫が姿を現す。
突然姿を現すチェシャ猫に驚く事も無く、アリスは苛立った様子でチェシャ猫に言葉を返す。
「今はそれどころじゃない!!」
「キヒヒ。それどころだよ。アトラク=ナクアと交戦中だ」
「分かってる!! ロデスコを助けたらすぐ――」
「キヒヒ。此処の事じゃ無いよ。別の地点の魔法少女達が交戦してるのさ」
「――ッ!! どういう事!?」
「キヒヒ。言葉通りの意味さ。此処じゃない巣の予測位置でアトラク=ナクアが確認されたよ。絶賛戦闘中さ」
「そ、そんな! た、確かに此処にアトラク=ナクアが居るんだよ!?」
「キヒヒ。分かってるさ。でも、報告の上がった個体と、此処に居る個体の特徴は一致しているんだ。他の所も戦闘を開始しているからね。間違った報告じゃないのは確かだよ」
一瞬、疑問が頭の中を支配する。だが、直ぐにその疑問を追い払う。
今は何より、ロデスコが最優先だ。
「……今はそんな事はどうでも良い。とにかく、今はロデスコを――」
優先する。そう言おうとした直後、張り巡らされた蜘蛛の糸の魔力が濃くなる。
濃く、鮮明に、魔力と共に内包された生命がうねりを上げ、糸は意志を持ったように蠢き始める。
「キヒヒ。アリス。アトラク=ナクアと戦闘中なのは、何も一ヵ所って訳じゃ無いんだ」
勿体ぶったように言うチェシャ猫。その間も、糸は躍動を続ける。
「七ヵ所。アトラク=ナクアが居ると予想された全ての個所にアトラク=ナクアが確認された」
此処以外の七ヵ所。つまり、八か所全てにアトラク=ナクアが存在しているという事になる。
ヴルトゥームのような同時多発異譚では無い。そもそも、此処は異譚では無い。異譚であれば、同時に同じ個体が居たとてなんら違和感は無い。上位存在の現身であれば何体でも用意できる。
だが、現身の元となる上位存在は一体のはずだ。……いや、違う。ヴルトゥームは自身の故郷となる惑星を追われた種族だ。アトラク=ナクアがヴルトゥームと同じ種族としての生き物であれば、複数体存在していたところで何ら不思議は無い。
「あ、アリス! い、糸の様子がなんか変だよ!」
「分かってる!!」
サンベリーナの報告に、アリスは苛立ったような口調で返す。
「ぴぇっ。ご、ごめんなさぁい……」
常のアリスからは想像も出来ない苛立ち様に、サンベリーナは涙目になってしまう。
そんなサンベリーナの様子にも気付いた様子は無く、アリスは躍動する糸、多勢の蜘蛛の先に居るであろうアトラク=ナクア、落ちて行くロデスコに視線を巡らせる。
何が最善かは分かっている。ロデスコを助けずに、このままアトラク=ナクアを倒すのが最善だ。
張り巡らされた巣の様子は明らかにおかしい。躍動し脈動しているその様子はただの糸では無く生物のように見える。
異常事態の張本人はアトラク=ナクア。であればアトラク=ナクアの撃破が魔法少女としての責務だ。
それでも、それでも――
「キヒヒ。安心をし。ロデスコはまだ生きてる」
「――ッ!! 本当!?」
「キヒヒ。ああ」
自信満々にこくりと頷くチェシャ猫。
「キヒヒ。それに、ロデスコにはあの鍵がある。最悪の場合はその鍵を使うだろうさ」
「……赤い鍵は、異譚支配者になる鍵とは」
「キヒヒ。別物さ。そこは安心して良い」
ただ、まったくのデメリットが無いわけでもない。が、そんな事を今言ったところでアリスに余計な不安を煽るだけだ。
アリスには現状の最善手を撃って貰わなければ困る。
「アリス。この糸の変化が全世界で同時に起こっているとしたら、多分とってもまずい事になる。それは分かるね?」
「そんな事分かってる」
「キヒヒ。なら、今は君がしなければいけない事をしなくちゃね。ロデスコなら大丈夫さ。彼女、こういう逆境にこそ強いだろう?」
「……言われなくても分かってる」
アリスはロデスコを追う事を止め、アトラク=ナクアを見やる。
ロデスコであれば大丈夫なはずだ。数に忙殺され、圧し潰されようとも、ロデスコであれば大丈夫。
根拠がある訳では無い。けれど、今はそう信じる他無い。
この巣が完成した暁に、何がどうなるのかが分からない。分かっているのは世界の終焉という事だけ。
今ロデスコを助け出せたとしても、世界が終わってしまっては意味が無い。
「大丈夫。ロデスコなら、大丈夫……」
そう自分に言い聞かせ、アリスはアトラク=ナクアへ向かう。
ロデスコがちゃんと戻って来て、この世界で明日を迎えられるために。
蜘蛛に覆われたロデスコは、奈落へ落ちる。
糸に当たり、跳ねて、不規則に軌道を変えて落ちて行く。
その様子を、一人の青年が見守る。
魔法使いのような長いローブ。革張りの大きな本を持ち、左目に片眼鏡を掛けた青年――魔導士エイボンは、何も言わず、何の感情も見せず、落ちて行くロデスコをただ見守る。
手助けはしない。今はまだ、それは出来ない。
ロデスコはこの局面を自力で解決する他無い。
エイボンが渡した赤い鍵。あれは一種の賭けだけれど、あれさえ使えばロデスコは助かる可能性が高い。助からず最悪の結末を迎える可能性もあるけれど、少なくとも、何もしないよりはマシである。
「どうして使わない……」
だが、ロデスコからは一向に鍵を使う意志を感じられない。鍵から何となくのロデスコの情報がエイボンに流れて来ているので、ある程度ロデスコの感情を読み取る事が出来る。
今抱いているロデスコの感情、それは絶望と恐怖の二つだけ。
あれだけ気丈に振舞っていたロデスコが、あれだけ自分の力に自信を持っていたロデスコが、あれだけの実力を持ったロデスコが、ただの有象無象に集られただけで絶望と恐怖を抱いている。
その理由を、エイボンは知らない。そこまでの情報は流れてこない。
だからこそ、尚更おかしい。
そこまでの絶望と恐怖を抱いてなお、ロデスコは鍵を使わないのだから。
「なんだ? 君はいったい、何を考えているんだ……?」
ロデスコの潜在能力に目を付け、ずっと観察して来た。幼少のみぎりから現在に至るまで、ずっと。鍵に相応しい人間になれるかどうか、ずっと。あの予見を得てから、人類最後の希望として、ずっと見守って来た。
ロデスコの強い部分も弱い部分も知っている。そんなロデスコが、窮地に陥らなければ鍵を使わないであろう事もしっかりと理解した上で彼女に鍵を託したのだ。
「このままでは死ぬ。その恐怖を抱いてなお、君は鍵を使わないのか? いや、君のプライドはそこまで高くは無いはずだ。いや違うか。君はプライドを捨てられる人間だ。そうだろう?」
自分のプライドは大事だ。けれど、必要な時にはそのプライドを捨て、最善手を取れる人間。それがロデスコだ。
「君が今一番大事にしているモノは分かってる。それは自分じゃない。有栖川春花だろう?」
その大事な存在を置いてきてしまっている。その事実からロデスコは目を背けていないはずだ。
「鍵を使う条件は整ってる。なのに何故、君は鍵を使わないんだ?」
エイボンの問いに、ロデスコから言葉は返らない。
エイボンはロデスコの微かな感情を感じとるだけだった。




