異譚9 大大大大大大大好き
結局、子供達が眠るまでアリスは上狼塚家に留まる事になった。
帰ろうとすると虹空と或叶が泣きそうになりながらアリスを見るので、帰るに帰れなかったのだ。
ようやっと下の子供達が寝静まった頃、アリスは上狼塚家を後にする事にした。
「御馳走するつもりが奢って貰って……申し訳ないッス……」
玄関で靴を履いているアリスに、瑠奈莉愛が申し訳なさそうに言う。
確かに、御馳走されると言われて半ば無理矢理連れて来られた上に、お金を払ったのはアリスだけれど、瑠奈莉愛にはアリスにお金を払わせる気はなく、またそれに味をしめた様子も無い。
何度もアリスに奢ってもらおうとするなら問題だけれど、瑠奈莉愛がそんな事をするような子ではない事はなんとなく分かっている。
それに、彼女の家庭事情を考えればそこを責める気にはなれなかった。そもそも、責めるつもりなど毛頭無いけれど。
「平気」
立ち上がり、こんこんっと爪先で床を小突いて履き心地を調整する。
しかして、アリスが幾ら平気だと言っても瑠奈莉愛は気にしたように眉尻を下げている。
人を思いやれる良い子なのか、あるいは負い目を感じているのか。
「別に、貴女の事情がどうあれお金は出すつもりだった」
「――っ」
「そもそも、後輩に奢ってもらうつもりは無い。ロデスコは別だけど」
朱里はなんだかんだと言ってアリスに奢らせている。二人で異譚に赴いた帰りにお腹が空いたと言ってファストフード店に寄ったり、近くにメディアで紹介された人気店があれば寄ったりなどやりたい放題だ。二人の時に限らず、四人だろうが五人だろうが連れていく。その全てアリスがお金を払っている。
流石に高級料亭に連れていかれるような事は無いけれど、少しお高めのステーキやらお寿司やらはよく連れていかれる。童話組の誰もアリスを財布扱いしないけれど、ロデスコだけはする。
『可愛い後輩に奢るんだからアンタも嬉しいでしょ』
と、憎らしい笑みを浮かべた朱里を今でも憶えている。なので、機会があれば朱里にお金を払わせようと思っている。後輩は後輩だけど同い年なので気にもならない。
それはさておき、朱里以外に奢ってもらうつもりは無い。ましてや、家庭が困窮している瑠奈莉愛に奢ってもらおうとは考えてはいないし、例え瑠奈莉愛が普通の家庭だったとしてもそれは変わらない。
「それに、料理は作って貰った。それだけで十分」
言いながら、チェシャ猫を抱き上げる。
「それじゃあ。今日はありがとう」
「あ、こちらこそッス! あの、お気を付けてッス!」
「誰に言ってるの」
踵を返し、アリスは上狼塚家を後にする。
「……」
が、引き戸を開く前にアリスの足が止まる。
瑠奈莉愛が止まったアリスを不審に思っていると、アリスは振り返る事無く瑠奈莉愛に言う。
「家族は、大事?」
「は、はいッス! 自分の宝物ッス!」
誇らしげな、愛おしげな声音で返す瑠奈莉愛。
「そう」
短く返すと、今度こそアリスは上狼塚家を後にする。
どうにか考えないようにしていたけれど、やはり頭の中は美奈に占領されてしまっていた。
美奈の母にはお世話になった。最後の最後まで、お世話になったのだ。
助けられなかった事も事実であり、見殺しにしてしまった事もまた事実でもある。そも、アリスはあの異譚で殆どの人間を助ける事が出来なかった。自分と数人の命を引き換えに、十万人もの人間を見殺しにしたのだ。
だから、誰に責められたって仕方が無い。アリスを責めるのは正しいのだ。
彼女の気持ちが分かるとは言わない。アリスに記憶は無く、両親が居るのか居ないのかも分からないのだから。だから、彼女程の心の痛みは持っていない。
けれどもやはり悲しかったのは事実であり、喪失感があったのもまた事実だ。美奈の喪失感に比べれば小さなものだろうけれど。
母が死んで、アリスを恨む。それほどまでに、美奈は母を愛していたのだろう。
「……」
少し考え、アリスはポケットから携帯端末を取り出し、沙友里に電話を掛ける。
「道下さん。夜分にごめんなさい。お願いしたい事があって……」
〇 〇 〇
春花が帰宅しベッドで眠りこけている中、小さな影が春花に忍び寄る。
「……」
小さな影は春花の顔をじっと眺める。
「キヒヒ。何してるんだい?」
「ぴっ!?」
小さな影の背後に、いつの間にか立っていたチェシャ猫が声をかければ、小さな影は驚いたように身を震わせる。
「キヒヒ。静かにおし。アリスが起きてしまうからね」
「……な、なら驚かせないでよ……」
チェシャ猫の言葉に不満そうに返す小さな影。
「キヒヒ」
「キヒヒじゃないし……」
「キヒヒ。そんな事より、何をしに来たんだい? 今日は呼んでないだろう?」
「あ、アリスが心配だから来たんだよ。な、なんか、思い悩んでる様子だったから……いつもの、あるかと思って……」
「キヒヒ。今日は穏やかなもんさ。ヴォルフのお陰だね」
言いながら、チェシャ猫は春花の顔の横で丸くなる。
「……わ、わたしに言ってくれれば、わたしがどうにかしたのに……!」
物凄く不満そうに声を荒げる小さな影。そこそこ大きな声だけれど、春花が起きる様子は微塵も無い。
「キヒヒ。猫だって、アリスが何に悩んでいるのか知らないんだ。今回は、ヴォルフのお陰でアリスも考えがまとまったみたいだから、結果オーライと猫は考えるね」
「つ、使えない猫だね……!」
「キヒヒ。頼りにならない仲間よりはマシさ」
バチバチと静かに睨み合う両者。
しかし、睨み合っても仕方ないと思ったのか、小さな影がチェシャ猫に問う。
「そ、それで、アリスは何するつもりなの?」
「キヒヒ。それを教える義理は無いね。アリスにだって探られたくない事だろうからね」
「な、なんでよ! 教えてくれたって良いでしょ!」
「キヒヒ。駄目だよ。アリスに口止めされてるからね」
「け、けちぃ! 利用する時だけ利用する外道猫!」
「褒め言葉だね。キヒヒ」
笑いながら、チェシャ猫は起こしていた頭を下ろして眠りに入る体勢をとる。
「キヒヒ。さ、帰った帰った。君の仕事はもう終わったろう、サンベリーナ」
「ば、ちょ、名前呼ばないでよ! 眠らせてるけど耳に入った言葉を憶えてる可能性だってあるんだから!」
チェシャ猫に名前を呼ばれ、小さな影――サンベリーナは慌てたように声を上げる。
そう。サンベリーナは春花がアリスだという事を知っている。上層部しか知らない真実を、サンベリーナは知っているのだ。
病的なまでにアリスを愛するサンベリーナはアリスの家を知りたいと思った。知ればアリスの事をいつでも護れるし、もし仮に病気になってもいつだって看病に行ける。この小さな身体であればバレずにアリスに回復魔法をかける事だって出来るし、眠っているアリスを見守る事だって出来る。
そう考え、サンベリーナはアリスを尾行した。アリスにしか入る事の出来ない対策軍本部に在るセーフルームまで行き、アリスの代わりに出て来た春花を見て目を白黒させながらもアリスの事を待ち続け、春花以外の誰も出てこずに数時間待機してからようやく気付いた。
春花こそアリスなのだと。
そこから春花を尾行し、春花の家を知ったという事だ。
最初は混乱したけれど、アリスを好きな気持ちに変わりはなかった。正体を知った今も、その気持ちに変わりはない。むしろ、アリスと結婚できる可能性まで浮上したのだ。より親密になれば、もしかしたらアリスの方から正体を明かしてくれるかもしれないし、そこからお付き合いをして結婚をして子供を作って幸せな家庭を築いて二人で一緒のお墓に入る事が出来るかもしれない。
幻滅なんてしない。むしろ、より強くアリスを好きになったと言っても過言ではない。
春花もアリスも大好きである。愛しているのである。深く知りたいくらいに、喜びも悩みも怒りも何もかも共有したいくらいに大大大大大大大好きなのである。
しかし、サンベリーナの想いを知られてはいけない。春花は人を遠ざけようとする傾向がある。ぐいぐいと迫っても嫌がられるだけだ。ゆっくり、慎重に、段々親密になっていけば良い。
他にアリスを狙っている者も居るけれど、そんなのは関係無い。それに、童話の誰も知らないアリスの秘密を知り、人知れず春花の家に入り浸る事が出来るのはサンベリーナだけだ。春花を真の意味で理解しているのは自分だけなのだ。それは大きなアドバンテージになる。
その優越感を浸りながら春花の布団でお昼寝していたある日、爆睡をしてしまっていたところを――
『キヒヒ。汚いドブネズミだね。キヒヒ』
――三日月のように笑うチェシャ猫に齧られた。そこから、サンベリーナとチェシャ猫の奇妙な関係が始まったのだ。
 




