異譚50 皆のママ
アリスが雲山羊と戦闘を開始し、スノーホワイト達が異譚に突入した少し後、異譚内部でも異常が起き始める。
イェーガー達が異譚の端まで行った時は、木の山羊達は異譚の外に出る事は無かった。
イェーガー達魔法少女にはあずかり知らぬ事ではあるけれど、雲山羊はあえて異譚の外への侵攻を止めていた。異譚の種類にもよるが、異譚の外に異譚生命体を侵攻させる事は不可能ではないし、異譚の外の人間を攫って異譚支配者の供物にする場合もある。
だが、大抵の場合は異譚の内部で完結させようとする動きの方が多い。何せ、異譚内部の方が異譚生命体にとっては有利だからだ。わざわざ有利な土台から降りて戦う理由は無い。知能の無い異譚生命体なら別だけれど。
アリスとの戦闘、魔法少女の増援。もう十分に、異譚に引き付けた。異譚の外に心配事はあるけれど、心配してばかりでは先へは進めない。例え博打でも、今動かなければこのまま消える事になる。そうなれば、ただ意味も無く死ぬ事になる。
そんな事は許されない。子供達を巻き込んで、大勢の命を奪って、また無意味に産み増やした。
そんな自分が何も成し遂げられず、無意味に死ぬ事は許されない。
鍵がもたらしたのは力だけでは無い。誰も知らない知恵。誰も知らない秘密。誰も知らない真実。常人では測り知れない程の知識が頭の中に強制的に流れ込んできた。
知識と知恵は自制と自責を与える。人間の頃には無かった責任感が雲山羊にはあり、それと同時に人間の時には無かった世界への敵対心が芽生えている。
この世界が間違えている事を、雲山羊は知っている。
間違えた世界は最早修正不可能であり、こうなってしまった以上、上書きする他無い。その解決策が間違えていたとしても、もう間違えるしか方法が無い。
だから、覚悟を決めたのだ。世界を敵に回しても、自分と家族を幸せにすると。
どうせもう元には戻れないのだから。やるならば、徹底的に。
アリスと戦闘をしながら、雲山羊は異譚内部に居る子供達に命令を下す。
――侵攻開始――
雲山羊の号令一つで、異譚内部で異常に増殖した木の山羊達は、異譚の外へと向けて進軍する。
異譚の外にも魔法少女は存在する。だが、それ以上の数を準備する事が出来たはずだ。加えて言えば、異譚の外にはただの人間がゴロゴロ居る。人間や他の生き物が居れば、その数だけ増殖可能だ。
『今、異譚の外に子供達を送り込んだわ』
アリスの猛攻を捌きながら、雲山羊は言葉でアリスを揺さぶる。
『異譚の中に居るわたしの子供達は五千以上。その殆どを異譚の外に送り込んだわ。アリスちゃんがわたしに時間を割けば割くほど、外の世界の人間が死んでいく事になるわね』
身体にある大きな口は薄ら笑いを浮かべる。
「そう」
だが、雲山羊の言葉を聞いてもアリスの表情や態度は崩れない。変わらぬ苛烈さで猛攻を仕掛けてくる。
『動揺もしないのね。それとも、アリスちゃんにはやっぱり人の心が無いのかしら? あの巨人の正体が判明した後も、アリスちゃんは何の迷いも無く殺してしまったものね。心は痛まなかった? アリスちゃん、あれだけ優しくしてくれたわよね? 家も直してくれたし、子供達と遊んでもくれた。気に掛けてくれたし、子供達にプレゼントも買ってくれたわよね? 子供達もね、すっごく喜んでいたわ。わたしもすっごく嬉しかった。自分の子供に優しくして貰って嬉しくない母親はいないもの。あなたが優しくしてくれてあの子達は喜んでいたしょう? 憶えてない? あの子達の笑顔が脳裏を過ぎらない?』
畳みかけるように、アリスの心を揺さぶろうと言葉を紡ぐ。
アリスの動揺を誘いたいがための口から出まかせ――という訳でも無い。純然たる本心から来る疑問をアリスにぶつけている。
苛烈に攻撃を仕掛けながら、アリスはその問いに律義に答える。
「……私にだって、心はある。出来る事なら、この異譚ごと無かった事にして、元の生活に戻って欲しいとも思う。でも……それは出来ない事だから」
『そうね。わたしの世界かあなたの世界。どちらかしか残る事が出来ないもの。ねえ、なら共存って言う事にしない? わたしだって人を殺したく無いのよ。ママが人殺しだなんて、子供達も嫌がるでしょう? わたしに大義があったとしても、優しいあの子達の事だから、きっと心を痛めると思うの。だから、ね? アリスちゃんさえ良ければ、一緒に新しい世界で暮らしましょう? 子供達も喜ぶわ。皆、あなたの事が大好きだもの。殺してしまった事は、わたしの方から言い聞かせるわ。だから安心して。一緒に、新しい世界で暮らしましょう?』
優しい声音、優しい言葉でアリスを誘う。
「それは出来ない」
考える間も無く、アリスは即座に雲山羊の誘いを拒む。
『どうして? アリスちゃんだって、戦いたく無いでしょう?』
「戦いたくはない。その気持ちに嘘は無い。でも、私は妥協をしてはいけない。私が貴女の言葉に乗ってしまったら、私が護れなかった人達の死が全部無駄になる。今まで命を懸けて戦ってきた魔法少女達の献身が全部無駄になる。そんな事を、私は許さない」
妥協するには、諦めるには、アリスはあまりに前に進み過ぎた。あまりに多くを背負い過ぎた。
雲山羊が間違えた道を進むしかないように、アリスもまた英雄である道を進むしかない。
「だから、たらればは言わない。幾ら心が痛んでも、私はこの異譚を終わらせる。例え、何度貴方達を殺す事になったとしても」
覚悟の籠ったアリスの声。
その声を聞いた雲山羊は、これ以上心を揺さぶる言葉を吐いたとしても徒労に終わると理解する。
『そうなのね。でもね、わたしも、何度も子供達を殺させる訳にはいかないのよ。それが、わたしがお腹を痛めて産んだ子ともなれば尚更よ』
逃げる雲山羊の姿が変わる。
雲のような身体は凝縮され、乱雑に生えた脚の幾つかは触手となる。
巻いた角の触手は数を増し、人間らしい上半身から生えた腕は悍ましく肥大化する。右手に針、左手に糸。新しく背中から生えた四本の腕は左右に一本ずつ巨大な鋏を持っている。
一回り小さくなった雲山羊。けれど、その威圧感は更に増している。
『わたし……私も、本気で戦うわ。だって私は――』
左手を振るい、糸が鞭のようにしなってアリスに襲い掛かる。
邪魔な木々やアリスの魔法を切断しながら迫る糸を、アリスは巧みな身のこなしで回避する。
避けたアリスの位置を予測していた雲山羊が、巨大な針をアリスに向けて放つ。
両手に持った二本の十剣で防ぐも、その勢いに押されて後方に大きく吹き飛ばされる。
『――皆のママだもの』




