異譚46 雲山羊
ソレは、山羊のような見た目をしていた。だが、一目見てソレが山羊ではない事が分かる程に、ソレの姿は異形だった。
偽物の空に浮かぶ月明りが、ソレを照らしだす。
雲のように掴みどころが無く、けれど確かにそこに存在する肉塊に幾つも浮かび上がる山羊の眼。肉塊の頭らしき部分は山羊を模してはいるけれど、捻じ曲がった角が幾つも生え、その何本かは触手のようにうねっている。
頭から下は人間の女性の上半身が見受けられるが、所々に雲のような肉塊が混じっている。肌は死人のように白く、爪は異様な程に長く、胸は驚く程に豊満。女性的、ある種の母性的な見た目をしているけれど、下半身は雲のような肉塊であるために、最終的にはグロテスクという評価に落ち着く。
雲のような肉塊から伸びる脚は多く、長さが合わないのか、ジタバタとバラバラに地面を踏みしめてバランスを取っている。
だが、更に異様なのは、雲のような肉塊にぱっくり空いている巨大な口だ。黄ばんだ乱杭歯に、口内から止めどなく溢れる粘液。
全体的に、見ているだけで吐き気を催す程に異様な姿をしている。
「呼称、雲山羊で統一な」
言いながら、イェーガーは銃口を異譚支配者――雲山羊に向ける。
恐らくは、この雲山羊がこの異譚を形成する異譚支配者だろう。それほどまでに異様な魔力と、圧倒的なまでの圧迫感。
「雲山羊おーけー!」
真弓が元気良く返事をしながら矢を番えた弓を構える。
他の面々も、即座に戦闘態勢を整える。
ようやく姿を現した異譚支配者に対して全神経を集中させるイェーガー達。
数秒の睨み合いの末、先陣を切ろうとしたイェーガーだったけれど――
「――はぁっ!?」
――突如として両者の間に何者かが飛来する。
急速に地面に着地した乱入者は即座に大剣を振り抜いて極光を放つ。
急襲されたにも関わらず、雲山羊は放たれた極光を回避する。
「……ッ」
極光を避けられる事は想定内。即座に、幾つもの剣を生成して雲山羊が避けた先に射出する。
だが、幾つも射出された剣すらも雲山羊は身軽な動きで回避する。
「ちょっ、何してんだアリス!! そいつはあたし達の獲物だろ!? 巨人はどーした!?」
上空から飛来した乱入者――アリスに向かって声を上げるイェーガー。姿がアリス・エンシェントなので一瞬頭が混乱したけれど、レポートで何度も見たので即座に目の前の少女がアリスだと直ぐに気付く事が出来た。
アリスは先程まで途方も無い巨人と戦闘をしていたはずだ。まさか、途方も無い巨人を放ってこちらに来てしまったのかと思い、先程までアリスが戦闘していた方向を見る。
極光により開けた部分から途方も無い巨人の方を覗く。
そこには、身体中穴だらけにされた途方も無い巨人が立っており、核を破壊されたのかゆっくりと傾く――イェーガー達の方向に。
「ちょいちょーい!? あれこっちに倒れ込んでますけど!?」
まーぴーも見ていたのか、倒れ込む途方も無い巨人を見て声を上げる。
声を上げるまーぴーに対して、アリスは静かな声音で返す。
「あそこからこっちまでは誰もいない。だから大丈夫」
「ウチら居るけど!?」
「今すぐ逃げて。アシェンプテル。彼女達について行って」
「わ、分かったよ~。でも、アリスちゃん一人で大丈夫~?」
アリスの背中に引っ付いていたアシェンプテルは、素直にアリスの背中から離れながらもアリスを案じる。
「大丈夫。イェーガー達は他の敵をお願い」
「いや、いやいや。全員で戦う方が良くない? 相手は異譚支配者だよ?」
そよぷーが至極真っ当な事を言うけれど、アリスは首を振る。
「お願い。こいつは私一人で戦わせて」
「んな勝手な……」
「勝手は承知の上。それでも、お願い」
こちらは振り返らず、雲山羊の相手をし続けるアリス。誰にも邪魔させないと言わんばかりに苛烈に攻撃をし続ける。
言葉は冷静で丁寧。けれど、行動には何故だか分からないが焦りの色が見える。
「お願い」
もう一度、アリスは頼み込むように言葉に出す。
酷く切実な声音に、一同は思わず顔を見合わせる。
「……あんたがそう言うくらいだから、なんか理由があるんでしょ?」
「ある」
「後で話せる事?」
「……分からない」
「……」
話せるかどうか分からない理由。そんな不確かな理由のために、アリス一人で異譚支配者と戦う事を許す。通常であれば、そんな事は許されない。何せ、異譚支配者には一人では勝つ事が出来ないからだ。
だが、アリスのような強者は別だ。その我が儘が許される。それが正しいかどうかは、別の話だけれど。
「行くぞ。別のをやりに行く」
アリスに背を向け、イェーガーはその場から離れる。
「え、ちょっと! 良いの!?」
「此処に居てもあの巨人の死体に潰される。それに、何か考えがあんだろ」
「そうだにぇ~。まゆぴーもさんせ~」
イェーガーに続き、真弓もアリスに背を向ける。
「後で聞けば良いのだよ~。納得出来なかったら、お仕置きだけどにぇ!」
「唯も」
「一も」
「「賛成」」
途方も無い巨人を僅か数分たらずで倒し、急いでこちらまで来たのには何か理由があるのだろう。
アリスだって、イェーガー達の事を信じていない訳では無い。任せるところは任せるし、不安が残るようであればストレートに言葉にする。
そんなアリスが言葉を濁した。であれば、何か特別な理由があるのだろう。
「……分かった分かった。アリスに任せれば良いのだろう。まったく、私達が先に見付けたのに……」
「言いたい事はぎょうさんあるけど……英雄様が相手してくれはるんなら、それもまぁええわな」
不承不承ながら、アリスに任せる事に納得する面々は、イェーガー達を追うようにこの場を離脱する。
「アリスちゃん……本当に大丈夫~?」
「大丈夫。アシェンプテルは皆をお願い」
言いながら、何度目か分からない致命の極光を放つ。
「……分かったわ~。無茶はしないでね~?」
「分かってる」
それだけ言って、アシェンプテルもイェーガーの後を追う。
そんな中、ヴォルフだけはアリスを見続ける。どうしてか、嫌な胸騒ぎがするのだ。
「ヴォルフも、早く行って」
「……分かったッス」
胸騒ぎの正体は分からない。だが、それだけでは此処に留まる理由にはならない。
ヴォルフも急ぎ足でイェーガー達を追う。
全員がこの場を去り、周囲に人気が無くなったのを確認してから、アリスは苛烈に続けていた攻撃を止める。
「……」
雲山羊は攻撃を止めたアリスの方をじっと見つめる。
互いに、視線を合わせる。まるで、何かを探るように。
やがて、雲山羊が諦めたようにぶるるっと大きな口から溜息を吐く。
『そう。その眼。ウジャトの眼って言うらしいわね。……本当に凄い子ね、アリスちゃん』
大きな口から発せられる綺麗な女性の声。
その直後、雲山羊の姿がぐにゃりと歪む。
歪み、たわみ、圧縮され、嫌な音を立てながら、雲山羊は一人の女性の姿に変貌する。
「……やっぱり」
アリスは、アリス・エンシェントから通常形態に移行する。
そうして、二人は対面する。
「お久しぶりね、アリスちゃん」
にっこりと、女性は笑う。
出会った時と同じ顔で、同じ笑みで、同じ温かみで、女性――上狼塚安姫女は、アリスに笑顔を向けた。




