異譚5 お財布
カフェテリアに着いて、アリスは何をするでもなくソファに座ってぼーっと先程の事を考えていると、唐突にチェシャ猫が目の前のテーブルに現れる。
「キヒヒ。アリス」
「……なに?」
「キヒヒ。アリスは、あの日かい?」
にんまり笑顔で訊ねてくるチェシャ猫。けれど、アリスはチェシャ猫が何を言いたいのかさっぱり分からない。
「なにが?」
「キヒヒ。女の子の日かい?」
ストレートに訊いてきたチェシャ猫に、アリスは面白くなさそうに顔を顰める。
「……バッカじゃないの」
「キヒヒ。違うのかい?」
「来る訳無いでしょ。私に」
「キヒヒ。それもそうか」
言って、チェシャ猫は姿を消す。
アリスの身体は少女のそれだけれど、身体検査の結果そういう機能は備わっていないという事が判明している。そのため、女の子の日などは来る事が無い。
それは、チェシャ猫も知っているはずだ。
いったい何だったのかと思うけれど、思考は直ぐに美奈の事に向けられる。
が、直ぐにまたチェシャ猫がテーブルの上に現れる。
「今度は何?」
正直、今は他人の相手をしている余裕がアリスには無い。要件があるなら手短にお願いしたいと態度で表せば、チェシャ猫はにんまり笑顔を崩さずに訊ねる。
「キヒヒ。どうしたんだいアリス。元気無いじゃないか」
「チェシャ猫には関係無い」
とは言うけれど、チェシャ猫もあの時アリスと一緒に居たので当事者と言えば当事者だ。
けれど、立ち向かったのはアリスであり、終わらせたのもまたアリスである。
これはアリスと美奈だけの問題だ。他の誰かに助力を得ようなどとは考えてはいない。いや、考えてはいけないのだ。
断固として答えるつもりは無いという姿勢を見せるアリスに、チェシャ猫はキヒヒと笑って頷く。
「頑固だね。キヒヒ」
それだけ言って、チェシャ猫は姿を消す。
これでようやく静かになったと思えば、暫くしてどかどかっと荒い足取りで誰かが上がってくる。
「アリスさん!」
上がって来たのはにぱっと満面の笑みを浮かべている瑠奈莉愛だった。
「なに?」
もうそろそろ一人にしてほしいと思っていたので、アリスの声音は常よりも低く冷たい。
が、そんなアリスの声音に臆する事無く、瑠奈莉愛は笑顔を浮かべたままアリスの前までやってくる。
「アリスさん、この間は御馳走様でしたッス! 妹達も喜んでたッス!」
お礼を言われ、アリスは一瞬なんの事か分からなかったけれど、この間行ったケーキバイキングの事を思い出した。
あの時行ったお店ではお持ち帰りメニューもあり、それを買おうとしていた瑠奈莉愛に朱里が『アリスに言えば買ってくれるわよ。今回は全部アリス持ちなんだから』と言い、勝手に最高級のお持ち帰りメニューを追加されてしまったのだ。
アリスは財布を持っておらず、適当にお札だけをポケットに入れて来たので足りるか心配だったけれど、ギリギリ足りて安堵したのを憶えている。
因みに、ポケットからお金を出したところ、全員がドン引きしていたのは理解できなかった。けれど、珠緒の『おっさんかよ……』の言葉にはちょっとだけ傷付いた。
春花としてお財布などは持っているのだけれど、アリスとしてのお財布などは持ち合わせていない。そもそも、アリスの恰好で買い物をする方が稀であるため、必要に迫られていないから買っていないのだ。
と、余計な事も一緒に思い出したけれど、瑠奈莉愛の言葉には合点が行った。
「別に、気にしなくて良い」
「つきましては、お礼をしたいと思ってるッス!」
「気にしないで」
「今日はこの後の予定は在るッスか?」
「無い。でも気にしないで」
「それは良かったッス! 今日は自分がご馳走するッス!」
「お願い、話を聞いて」
「それじゃあ、今すぐ向かうッス!」
「聞いて……」
まったくもってアリスの話を聞かない瑠奈莉愛に手を引かれる。
こうして、アリスは瑠奈莉愛にお持ち帰りされてしまったという訳である。
お持ち帰りされたアリスは瑠奈莉愛に手を引かれて歩く。
本当であれば振り解いても良かったのだけれど、沙友里から仲良くしなくとも良いけれど優しくはするようにと言いつけられてしまっているので、振り解く事が出来ないでいる。
完全に諦めたアリスはなすがままに瑠奈莉愛に連れ去られている。
「学校でアリスさんに名前を付けて貰ったって言ったら、皆とっても羨ましがってたッス! 餡子ちゃんも、名前を付けて欲しいって言ってたッスよ! アリスさんはドイツ語とかにも詳しいから、良いセンスで付けてくれると推しておいたッス!」
「止めて。すっごく止めて」
別段、ドイツ語に詳しい訳では無い。たまたま知っていたから丁度良いと思っただけだ。ハードルを上げられても困る。
「そういえば、アリスさんは食べられない物は無いッスか?」
「…………茄子」
「じゃあ茄子は使わないッス!」
「キヒヒ。魚介類を使ってくれると嬉しいな。キヒヒ」
いつの間にかアリスの頭に乗っていたチェシャ猫がリクエストをする。
「チェシャ猫さんは、人間の食べ物平気ッスか?」
「キヒヒ。猫はアリスと違って好き嫌いが無いからね」
「……別に食べられる」
食べられない事は無い。けれど、好んで食べたいと思わないだけだ。出されれば文句も言わずに食べる。けれど、出されなかったら自分から食べないだけだ。
「それじゃあ先にスーパーによるッス!」
「キヒヒ。アリス、今日もお財布だね」
チェシャ猫の発言に、瑠奈莉愛はぎょっと目を剥いて慌てて否定をする。
「ち、ちちちち違うッス! そんなつもりで言ったんじゃないッス!」
「別に良い」
お財布だろうが何だろうが、別段気にはしない。
それに、御馳走すると言われたけれど中学生である瑠奈莉愛に奢ってもらおうとは思っていない。先輩として、年上として、最初からお金は出すつもりでいた。
ポケットの中にはいざとなったら使おうと思っていたお金がある。お金を出す事に問題は無い。
「こ、今回は自分がお金を出すッス! この間のお給料も貰ってるんで、お財布の中はいつになく潤ってるッス!」
ふんすふんすと鼻息荒くアリスに言う瑠奈莉愛だけれど、給料で言ったら数字上はアリスの方が貰っている。
「私が異譚に出撃した時の平均報酬、幾らか分かる?」
「え、す、数百万……ッスか?」
「平均で二千万」
「に、二千万ッスか!?」
「異譚の規模によってはもっと上がる。まぁ、上がるのは私だけじゃないけど」
それでも、アリスが魔法少女で一番報酬金が高いのは確かだ。
「お金の心配はしなくて良い」
「で、でも……」
「キヒヒ。大丈夫だよ。アリスはこういう時じゃないとお金の使い道が無いからね。使わせてあげておくれ。キヒヒ」
チェシャ猫の言う通り、アリスは基本的にお金を使わない。節約をしている訳では無いけれど、物を買う事が殆ど無い。
最近で唯一欲しいなと思って買ったのは猫のがらの入ったマグカップだけだ。それだって、子供の御小遣いで買える程度の代物だ。
「でも、それじゃお礼にならないッス……」
しょんぼりと肩を落とす瑠奈莉愛。
「……お金は、誰かのためじゃ無くて自分のために使った方が良い。それが、自分が命を懸けて稼いだお金なら尚更」
魔法少女はいつ死んでもおかしくないくらいに危険な仕事だ。アリスだって、何度も死にかけた。
文字通り、死に物狂いで稼いだお金だ。会って少しの相手よりも、自分のために使った方が後悔が残らない。
「じゃあ、アリスさんも自分のために使ってくださいッス!」
アリスの言葉に、もっともな意見を返す瑠奈莉愛。
そんな瑠奈莉愛の言葉に、珍しくアリスが小さく笑う。けれど、その笑みは自嘲を含んでおり、良い意味で浮かべた笑みではない事は明白であった。
「私もう手遅れだから」
その言葉の意味を瑠奈莉愛は知らない。けれど、少しだけ寂しく思ったのは、きっと気のせいでは無いだろう。




