異譚40 百メートル
異譚の傷痕が残る都市は何も日本だけにある訳では無い。
世界各国に異譚の傷痕は有り、まだ復興が終わっていない国も多々ある。
中国もまた異譚の傷痕を抱えた国の一つであり、復興が追い付いていない国の一つでもある。
かつて起こった大規模な異譚により、街は壊滅。何とか異譚支配者を倒したは良いものの、残ったのは瓦礫と死体の山。
政府は街の復興を行ったものの、完全に復興をするには長い年月を必要とした。
その街で生まれ育ち、異譚によって故郷を瓦礫の山にされた凛風は、復興までの間親戚の家に寝泊まりし、仮設住宅が建てられた頃に故郷へと戻った。
家も、思い出も、全てが瓦礫の下。幸いなことに家族は全員無事だった。それだけが、唯一の救いだった。
仮設住宅での生活は窮屈だった。
雨風をしのげ、家族で過ごせる場所としては本当にありがたかったけれど、仮設住宅が家だと言う認識は持てなかった。持ちたくなかった。そこは仮宿であって、凛風が慣れ親しんだ我が家では無いのだから。
父親は何とか仕事を見付け家族を食べさせるために必死に働いた。
母親は復興の手助けをすべく、朝からボランティアに参加した。一日でも、一時間でも、一秒でも早く、自分達の街を取り戻したかったのだ。
それは自分のためでもあり、子供達のためでもあった。
凛風には妹が居た。二人は学校に通っていたけれど、通っていた学校も瓦礫の一部と化してしまった。
仮設校舎が建てられ、お世辞にも良いとは言えない設備で、前よりも少なくなった人数で、凛風達は授業を受けた。
友達に会えるのは嬉しかった。もう二度と会えない友達が居るのは寂しかった。
でも、最初は上手く笑えなかった。笑って良いのかが分からなかった。
家に帰れば両親は疲れ切った顔をして、とても笑顔を浮かべる余裕なんて無かった。
ご飯だって以前よりも質素になった。以前よりもお金が必要で、切り詰めて生活をしていかなければいけなかった。
笑う余裕は無かった。泣いてる暇は無かった。
ただ、日々を生きるのに精一杯だった。
何をするにも我慢が先に来て、不自由を不自由だと感じなくなるくらいに我慢をして、そうやって毎日を生きるしか無かった。
段々と余裕が出て来ても、その余裕を贅沢だと思うようになってしまって、ただひたすらに我慢をした。
きっとその生活だけを見続けられたのであれば楽だったのだろう。
自分達や被害者だけを見ていられたのなら、心はもっと楽だったのだろう。
だがそうでは無かった。
仮設住宅からたった百メートル離れた場所。そこは、異譚の被害も無く、瓦礫の山も無く、何事も無かったかのように日常が続いていた。
玄関を開ければ、嫌でもそれが目に入る。
普通の暮らし。普通の街並み。歓楽の声。人々の笑顔。自分達とは違う、本当の家。
たった百メートルしか離れていない。それだけなのに、天と地ほどの差があるように思えた。
自分達にも当たり前に続くはずだった日常を毎日目にするのがたまらなく嫌だった。
復興は続いている。けれど、まだ普通の暮らしには遠い。
まだ我慢を強いられる。我慢をしている間にも、異譚はまたどこかで現れる。
死んだ方がましだなんて思った事は無い。でも生きるのがこんなに苦しいだなんて思ってもいなかった。こんなに大変だなんて思ってもいなかった。
ただ普通に暮らしたいだけなのに、ただ普通に笑いたいだけなのに、それすら難しくなるだなんて思ってもいなかった。
たった百メートルしか離れていないのに、この間まで在ったはずの日常がこんなにも遠いなんて思っていなかった。
少し歩けば届くのに、その日常は凛風のモノじゃない。
瓦礫の中にはまだ死体が埋まっている。
瓦礫の中にはまだ思い出が埋まっている。
瓦礫の中には在ったはずの日常が埋まっている。
毎日心が挫けそうになった。
今更行く当てなんてないから、凛風達は此処で頑張るしか無かった。
頑張って頑張って頑張って、我慢して我慢して我慢して、ようやく瓦礫の撤去が進んで、ようやく街並みを取り戻して、ようやく日常に戻れると思った。
そうして、二度目の異譚が街を襲った。
「……………………………………え?」
気付けば病院のベッドの上だった。
どんな異譚だったか、どんな目に遭ったのか、凛風はあまり憶えていない。
ただ一つ分かった事があるとすれば、凛風は全てを失ったという事だけだった。
家も、両親も、妹も失った。
残ったのは己の身一つ。それ以外の全てを、異譚は破壊していった。
我慢して我慢して我慢して我慢して我慢して我慢して――――そうして凛風は全てを失ったのだ。
そこから凛風が向かうべき道は一つだけになった。それ以外の道を選ぶ気は毛頭無かった。
凛風は魔法少女になった。
大義も正義も無い。怨恨と憎悪のみが、凛風を突き動かす原動力だった。
ただ異譚を狩り、ただ異譚を終わらせる。
誰のためでも無い。自分のために異譚を蹂躙する。
その果てに死んだとしても、一つでも異譚を終わらせられるのであれば本望だった。
あの日羨んだ百メートル先の日常なんてどうでも良い。
凛風はいつだって自分のために異譚と戦う。責任とか、役目とか、どうだって良い。
ただムカつくから、異譚を終わらせる。
「別に、良いと思う。戦う理由は人それぞれだから。異譚さえ終わらせられるなら、私はなんだって良い」
ある時、異国の少女にそう言われた。
珍しく身の上話をしたら、異国の少女は説教をするでも説得をするでもなく、ただ悠然と頷くだけだった。
日本の英雄。異譚侵度Sを終わらせた魔法少女。
「そのついでで誰かが助かるなら、誰も貴女を恨まない。でも……」
少女は真っ直ぐと凛風を見ながら、しっかりとした言葉を紡ぐ。
「……貴女は百メートル先の日常が欲しく無いの?」
素直な少女の言葉に、どきりと心臓が大きく跳ねた。
たった少しの間で核心を突かれた気がした。
凛風が口を閉ざせば、その少女はそれ以上何も言う事は無かった。
それでも、その言葉は凛風の中にずっと残っていた。
思い返せば、少し前からずっと不自由しない日常を送っていた。過ごしやすい家があって、ちゃんとした設備の学校に通えて、ちゃんと毎日ご飯を食べる事が出来る。何も我慢しなくて良い生活を送っていたはずなのに、ずっと我慢をしながら生きていた。
服も、小物も、何もかも、必要以上に買わなかった。
あの日の生活を、あの日々を、無意識の内に送っていたのだ。もうずっと、恨み羨んだ日常の中で暮らしていたのに。
憎しみを忘れないように、家族を忘れないように、ずっとあの日々を続けていたのだ。
……違う。忘れたくなかったのは、そんな苦しい日常の中でも笑い合う事の出来た家族や友人の存在だ。最初は上手く笑えなかった。それでも、前に進んでいく内に笑う事が出来た。笑い合う事が出来た。
確かに羨ましかった。ちょっと違ったら自分達も普通の日常を送れるはずだったのだから。
それでも、凛風は多くを望まなかった。家族さえ、友人さえいれば、我慢の日々の向こうに今以上に、誰よりも何処よりも良い未来が待ち受けていると信じていたからだ。
凛風が本当に欲しかったのは、皆で進んだ未来だったのだ。
「……っ」
気付けば涙を流していた。
止めどなく涙が溢れる。
少女が立ち上がり、どこかへ行くのが分かる。きっと気を遣わせてくれたのだろう。
そんな気遣いも当時は分からず、凛風はただ泣き続けた。
自分の戦う理由がもう何も無い事、自分の戦う道にもう何も無い事、もう自分には何も残っていない事。その全てが痛く、苦しかったから。
「はぁっ!? 泣かせた!? なにしてんのアンタ!?」
「な、何もしてない……なんか、泣いちゃって……」
「キヒヒ。アリスはお馬鹿だから、きっと心無い事を言っちゃったんだね」
バタバタと複数の足音が聞こえて来た。
「凛風姐姐、大丈夫ですか!? 何処か痛いのですか!? それとも、この日本猿に何か言われたのですか!?」
「泣いてる子って可愛いよね。凛風、写真撮って良い? え、駄目? そう……残念」
中国チームの少女達も集まって来る。
殆ど身を捨てるような戦い方しかしない自分に付いて来てくれる、優しい少女達。
周囲がわちゃわちゃする中、凛風はただ涙を流すしか無かった。




