異譚42 喪失
短めです
異譚を覆う暗幕が晴れる。
アリスは肩で息をしながら、燃え盛るクレーターの中に立つ。
衣装は既にいつもの空色のエプロンドレスに戻っており、手にしていた黒薔薇の致命剣も放たれた一撃と共に砕け散ってしまった。
体力も魔力も無い。そして、あれだけ湧いていた気力ですらも、異譚の終焉と共に何処かへ消えてしまった。
今あるのは、喪失感。
アリスはその場に膝をつく。そこで魔力も全てからっけつになり、変身が解ける。
黒色のセーラー服を身に纏った春花は、膝をついたまま周りを見渡す。
何も無い。全て燃えてしまった。生き残ったのは、たったの数人程だろう。
誰かの命も、誰かの思い出も、誰かの生活も、誰かの友人も、誰かの家族も、全て、全て奪われた。
それでも、春花の心に陰りは無い。春花の心に影を差すのは、たった一つ。黒奈の死だけだ。
自然と涙が溢れる。
胸が痛くて苦しい。一緒に戦っていれば護れたかもしれない。黒薔薇の致命剣で倒せたのだ。二人で力を合わせて倒せない道理が無い。
二人で戦っていれば、一番最初の攻撃も防げたし、止めも刺せたのだ。
そこに自分が居れば、黒奈は死なずに済んだのだ。
春花は声を上げて泣く。
黒奈を助けたかった。もっと一緒に居たかった。色々と教えて欲しかった。もっと、大好きになりたかった。
もう黒奈と一緒に何かをする事は出来ない。料理も、映画鑑賞も、運動も、笑う事も、もうできない。
それが、心が痛いほどに悲しい。
声が枯れるまで、喉が痛むまで、疲れ果てるまで、春花は泣いた。
多くが死に、多くが壊れ、多くが失われた哀しみの中、一人の英雄が生まれた。
生ける炎は通常であれば形に囚われる事が無い。無形であるがゆえに、何処を切り取られようとも直ぐに形を元に戻す事が出来る。それが例え、半分に両断されたとしてもだ。
だが、黒薔薇の致命剣に両断された身体は両断されたまま戻らない。
無数の黒薔薇。それこそ、幾万幾億の黒薔薇の刃が、炎の身体を蝕んでいく。炎に焼かれるはずの花びらは燃え朽ちる事無く炎を吸収する。
それだけでも驚嘆に値すると言うのに、たったの一撃で疑似神核を破壊された。これでは、最早継戦は不可能だ。
完全なる敗北。たかが人間の小娘に、生ける炎が負けたのだ。
黒薔薇に炎を奪われる。最後の悪足掻きも出来ない程に。
炎が散っていく。
熱を失って、その勢いを衰えさせる。
悔いなどは特にないけれど、今後の人類を思うと少しだけ哀れに思う。
なにせ、こんな酷い世界で生きていかなければいけないのだから。
此処で終われば楽だったものを、とは思うけれど、それは神たる自身の思考であり、人間である者達の思考では無い。
アレの思惑通りに事が進むのは癪だけれど、今の自分は退場せざるを得ない。
なんにせよ、人類史が始まった時から連綿と続く戦いだ。つまり、もう何千年も続いている戦いの歴史。それは地獄の日々と言っても過言ではない。
どちらを選ぶかは彼等の自由。負けた方は潔く退散するとしよう。
生ける炎は霧散する。
ただ存在しただけで破壊の限りを尽くした化物は、ようやくこの世界から姿を消したのだった。
――いいや、ただ退場なんて許さないさ。お前は気に食わないからね。負けたからには罰則をくれてやる――
何かが、薄く笑った。
直後、地球より二十七億光年も先にある恒星に存在する本体の神核が砕かれる。
たったの一撃で恒星と共に神核を砕かれた。今まで感じた事の無い衝撃に混乱する暇も無い。
――やっぱり良いなぁ、この剣は。お前だって一撃だ――
何をされたのか、何が起こったのかが分からない。
ただ、自身を退場させたあの一撃と酷似している事だけは理解できた。
――難点は、正当な使用者でなければ一撃で壊れるところか。まぁ、それもデメリットにならない程に素晴らしい――
下手人なぞ見なくとも分かる。感じなくとも分かる。神殺しをしでかせる奴はそうそう居ない。それが例え、同じ神であってもだ。
――たった一振りしかない貴重品だが、お前を殺せるなら喜んで手放すさ。なぁ、クトゥグア――
嗤う嗤う嗤う。赤い服の女は今や死にゆく炎となった旧支配者を嘲笑う。
――ではさらばだ、我が仇敵。二度と面を見られないと思うと……まぁそう残念でも無い――
赤い服の女は嗤うだけ嗤って姿を消した。
きっと赤い服の女はいつでも自身を殺せた。いや、それどころか、他の神ですら殺せたはずだ。それほどの一撃だった。恐らく、アレを殺したのも同じ一撃。
自身を殺したのは、ただ単に明確に敵対していたからだ。
クトゥグアは意識を沈める。
最早なるようにしかならない。一瞬の死か、長い地獄か。どちらが良かったかなど、火を見るよりも明らかだ。
この後の人類を憂いて、クトゥグアは永い眠りについた。




