異譚18 無様
「――っ」
突如脳裏に焼き付くように映し出される知らない誰かの記憶。
それは一瞬の事。けれど、一瞬で脳裏に焼き、理解する事が出来た。
「……」
狂気に満ちた、けれど、ほんの一握りの優しさを含む目。
誰の記憶かなど分かり切っている事だ。
しかして、だからこそ分からない事が在る。
これまでの異譚にて、異譚支配者の記憶が流れ込む事など一度たりとも無かった。加えて言えば、その可能性は示唆されてきたけれど、明示された事は一度も無い可能性――異譚支配者が元々人間であるという可能性を今まさに提示されたのだ。
そんな事で剣は鈍らない。戦う意志も削がれない。けれど、一瞬の困惑がある。
アリスの行動が一瞬止まる。
異譚支配者のアリスを見る目に力が籠る。
「……ごふっ……」
「アリス!?」
突如、アリスが口から大量の血を吐く。
身体の中から痛みが走り、手足が痺れる。
力が入らない。身体中が絶え間なく痛みを訴える。
吐いた血が地面を溶かし、目に染みる程の煙を出す。
「あ、アリスぅ!!」
たまらず、サンベリーナがアリスの方に跳ぼうとするけれど、アリスが手で制す。
「……ヴォルフから離れるな!!」
荒々しいアリスの口調。いつも冷静沈着なアリスからは珍しい声に、その場に居た全員が理解する。
英雄が、それほどまでに追い詰められている。
「~~~~ッ!! 撤退するわよ!!」
一瞬、悔しがりながらも、ロデスコが撤退を決断する。
「スノーホワイト、殿は任せるわ!! 道はアタシが作る!! ヴォルフはアリスを運んで!! サンベリーナはアリスの回復に集中!! リソースは全部回復に割きなさい!!」
ロデスコの指示を聞いた面々は即座に行動を開始する。
ヴォルフは慌てた様子でアリスを横抱きにし、サンベリーナは泣きながらアリスの上に乗って回復魔法をかける。
ロデスコが邪魔をする敵を蹴散らしながら、スノーホワイトが背後に巨大な氷の壁を生成して追手が来れないように時間を稼ぐ。
アリスは歯を食いしばりながら、薄れそうになる意識を何とか留める。
異譚で意識を失う事は死と同義である。そんな愚を犯したくは無い。
けれども、重い目蓋に抗えない。大量の失血がアリスから気力を奪い、継続する激痛がアリスの意識を断続的に刈り取っていく。
「……っ!!」
死ぬのは怖くない。死んだところで後悔など無い。
大勢死なせた。大勢助けられなかった。大勢殺した。次が自分の番となってもそれを受け入れる覚悟で戦ってきた。
けれど、彼女達を死なせるのは違う。巻き添えにはしたくない。
例え自分が死んだとしても、安全圏まで逃げられる時間を稼ぐ。
「トランプの兵隊……!!」
アリスは最後の力を振り絞る。
一行の背後に、ぽんぽんっと薄っぺらいトランプの兵隊が現れる。
スペード、クローバー、ダイヤ、ハートの『A』から『XIII』までが整列する。
彼等はアリスから一定の魔力を貰い稼働する。一定の魔力を受け取った後はアリスの魔法から切り離されるので、魔力が切れるまでは自律的に動く。そのため、アリスの魔法の射程圏外だろうと勝手に戦ってくれる。
これで、時間くらいは稼げるはずだ。
最後の仕事を終え、アリスは力尽きる。
意識が暗転し、暗黒に飲み込まれる。
誰かが何かを言っているような気がするけれど、その言葉の意味も最早理解できなかった。
暗闇。暗い暗い、何も無い空間。
上も下も分からなくて、右も左も分からない。
自分が誰なのかも分からなくて、泥の中を沈むように意識が重い。
「無様」
誰かの声が聞こえてくる。
「無様、無様、無様。よくもまあ、何度も無様を晒せるものだ」
奥の窺えない黒の面紗で顔を隠した、時代錯誤な赤のドレスに身を包んだ女がアリスを見下しながら、馬鹿にしたように、吐き捨てるように、嘲笑うように言う。
「ええ、君。君は誰のおかげで生きていると思っているんだ。私だ。そうだ、私だろう?」
はぁと、一つ深い溜息。
「だからね、君。これ以上無様を晒さないでくれたまえ。誰かの記憶が流れて来たからなんだと言うんだい。そんなもの、蹂躙するのだから知っても知らなくても変わらないだろう? 結果、君達は異譚を終わらせる他無いのだから」
赤い女の手がアリスの顔を掴む。絡めとるように、這わせるように。
「さぁ、起きたまえ。世界が英雄を待ってる」
「アリスぅ!!」
「ぶっ……」
びたーんっと顔に衝撃が走り、驚いて目を覚ます。
顔、というよりも鼻に痛みが走り、鼻の上に違和感を覚える。
「やっと起きたわね、寝坊助」
柱に背を預けていたロデスコが呆れたようにアリスを見る。
「呆れたものね。身体の中ずたずただったのに生きてるだなんて」
ロデスコの言葉を聞いて、アリスは自身の状況を思い出す。
異譚支配者の記憶と思しきものが流れてきて、一瞬の困惑の隙を突かれて何らかの攻撃を受けて重傷を負った。
「あわぁ……」
鼻に張り付いたままのサンベリーナを引き剥がしながら、アリスは起き上がる。
「状況は?」
「アンタがぶっ倒れてから五時間経過。花と星も核と戦闘をしてるみたいだけど、成果は上がって無いわね」
「そう」
「因みに、異譚はあんまり広がってないみたいね。外部から観測してみたら、殆ど変化無かったみたいよ」
「そう」
「……アンタ、それ以外に言う事無い訳?」
淡々としているアリスに、心底呆れた様子で問いかけるロデスコ。
一度死にかけたにも関わらず、アリスの反応はあまりにも淡白だ。
それに、アリスはまだ誰に対しても何も言っていない。それが、ロデスコには腹立たしい。
「……迷惑をかけた。申し訳無い」
ぺこりと、アリスは頭を下げる。
ロデスコは苛立った様子でアリスの元へ近付き、アリスの柔らかなほっぺをむんずと摘まんで顔を上げさせる。
「その前にありがとうでしょうが!! サンベリーナが居なかったら、アンタ死んでたんだからね!!」
「お、お礼なんて良いよぅ。わ、わたしは、アリスが生きてくれるだけでもう充分だよぅ」
言いながら、サンベリーナはアリスの手を抜けてロデスコが掴んでいない反対側のほっぺにペタリと張り付く。
「良くないっての!! 何かしてもらったらありがとうって言うのが当たり前でしょうが!! 英雄様はそんな当たり前のことも出来ない訳!?」
「あ、あひあほう……」
「なんて言ってるか分かんないわよ!!」
「そ、それはロデスコのせいだと思うなぁ……」
ロデスコがほっぺを引っ張るものだから、アリスが満足に喋れていない。
ロデスコはアリスのほっぺを乱暴に離すと、足音荒く柱の根元に座り込む。
アリスは引っ張られた頬をさすった後、サンベリーナを引き剥がして自身の掌の上に乗せる。
ちょこんとアリスの掌の上に座るサンベリーナにアリスは申し訳なさそうな顔をする。
「ありがとう、サンベリーナ。迷惑かけて、ごめんなさい……」
「い、いいいいいいいいいんだようアリスぅ!! わ、わたし、アリスの役に立ててとっても嬉しいから!!」
アリスに真正面からお礼を言われ、興奮した様子で手をバタバタ振るサンベリーナ。
「ロデスコも、ありがとう」
「ふんっ」
面白くなさそうに鼻を鳴らすロデスコ。
「アリス!!」
席を外していたのか、姿が見えなかったスノーホワイトが目を覚ましたアリスを見て、勢いよく抱き着く。
「……苦しい」
「良かった……良かったぁ……っ」
涙を流しながら、アリスの無事を喜ぶスノーホワイト。
「よ、良かったッス、アリスさん……!!」
ヴォルフも涙目になりながらアリスの無事を喜ぶ。
「皆、ごめん……」
心配かけさせてしまった事は、素直に申し訳無いと思うアリス。
けれども、心のどこかで助かった自分に対して言いようの無い嫌悪感があった。いや、言葉にしないだけで、言いようなど幾らでもあるだろう。
また、自分は生き残ってしまった。それが、酷く申し訳無く感じてしまう。