異譚31 地獄絵図
自身の母親を見送った後、白奈達は異譚から一キロ程離れた救護施設まで移動した。
救護施設までは用意されていたバスで移動し、そこで怪我の治療や魔力による侵食症状の治療などを行った。
幸いにして白奈には怪我も侵食症状も無く、空気中に含まれていた酒気による酩酊も発生していなかった。
しかし、人が多く検診の順番が回って来るまでにそれなりに時間が掛かってしまった。
白奈達よりも早く来ていた者は検診を終え、バスが定員になるまでその場で待つ事になっている。
救護施設は仮設であり、そのまま避難民を留めておけるほどの設備は整っていない。
なので、検診が終わった後は対策軍が用意した一時避難施設へとバスで移送される。
救護施設が一キロしか離れていない理由は、異譚の基本的な侵食速度が一時間で最大十メートル程しか無いからだ。小さい異譚であれば、一時間で一メートル程しか進まない事もある。
異譚の広がる速度が遅いので、一キロしか離れていない場所でも安心して検診が出来るのだ。
本来であれば、そこは安全圏なのだ。
そう、本来であれば。
驚愕する間も無く、突如として救護施設を異譚の暗幕が覆う。
暗幕は救護施設の更に向こうまで伸び、一瞬で避難民を地獄へ叩き落とした。
逃げる暇も無く、空から高速で迫る異譚生命体に一人、また一人と攫われる。
そこからは、阿鼻叫喚の地獄絵図だった。
「全員建物の中へ逃げてください! 何処でも良いから建物――」
一人冷静に指示を出していた魔法少女の首が飛ぶ。
背後から迫る異譚生命体に気付かず、鋭い鉤爪で頭部をえぐり取られた。
「なんで……っ、なんでどうして!? こんなに異譚が速く広がる訳――」
混乱して喚く魔法少女が異譚生命体に攫われ、空中で胴体を真っ二つにされる。
「嫌! やだやだやだぁっ!! 止めてぇぇぇぇぇぇぇっ!!」
身体を複数の異譚生命体についばまれ、生きたまま貪り食われる。
常人も魔法少女も関係無い。全員、関係無く、命を貪られる。
この強風の中ではまともに移動も出来ない。
必死だった。何も分からず、何が起きているのかも分からず、白奈は風にあおられる身体を必死に地面につなぎ止めながら、何度も何度も転がりながら、必死に一番近くの建物の中に避難した。
突風に乗った木材が窓を割り、建物の中にも強風が入り込む。
内と外から入り込む風に建物は破壊され、直ぐに吹き曝しになる。
辛うじて屋根の残っているキッチンへと逃げ込み、身体を丸めて隅っこに蹲る。
悲鳴が風に乗って聞こえてくる。
何かが鳴いてる。誰かが泣いてる。耳を塞いでも、嫌でも風に乗って聞こえてくる。
ガタガタと震えながら、白奈はただ脅威が過ぎ去るのを待った。
だが、異譚でただやり過ごす事など出来ない。弱者はただ蹂躙される。それが、異譚だ。
轟音を立てて、白奈の逃げ込んだ家の二階部分の残りが吹き飛ぶ。
天井が完全に吹き抜けになれば、そこには絶望が広がっていた。
「……ぁ……」
見上げた空には、まるで空を埋め尽くさんばかりの黒い点が無数に飛んでいた。
百なんて生易しい数では無い。千、もしくは、それ以上。
びっしりと、何処を見ても、空には怪物が居る。
ああ、もう駄目だ。
直感的に悟った。もう助からない。自分は、此処で死ぬのだ。
風に乗って白奈の顔に何かが当たる。
濡れていて、赤くて、長くて――気持ち悪くて手で拭うように取れば、それは誰かの臓物だった。
臓物の中に入っていた内容物が握った拍子に外へ出る。
「い……やぁ……っ。うぅっ、ぉぇ……っ!!」
慌てて臓物を投げ捨てるも、込み上げる気持ち悪さに耐えられずにその場で嘔吐する。
白奈の吐瀉物は強風に晒されてまき散らされる。
自分にかかったり、どこかへ飛んで行ったり。そして、それがたまたま異譚生命体の元へ飛んでしまったり。
白奈の逃げ込んだ民家は既に吹き曝しだ。壁は無く、天井も無い。
白奈が見つからなかったのは、たまたまだった。
だが、人の匂いを感じ取った異譚生命体は敏感に匂いの元へと意識を向ける。
そこには、ただ泣いて蹲るだけの矮小な少女が居た。
王の命令は全ての人間の殺害。誰一人として、例外は無い。
異譚生命体は即座に白奈へと肉薄する。
異譚生命体の速度を持ってすれば、少女など一瞬の内で殺す事が出来る。
出来る、はずだった。
衝撃と激痛が同時に異譚生命体を襲う。
衝撃と激痛の正体を異譚生命体が理解する前に、異譚生命体はその命を散らす。
いずこから現れた無数の剣が次々に異譚生命体を襲う。
その場に居る全ての異譚生命体を殲滅し終えた無数の剣は一瞬で消失する。
ざりっざりっと瓦礫だらけの地面を歩き、遅れてやって来た魔法少女――アリスは白奈以外の生存者を探す。
「キヒヒ。駄目だね。彼女だけだ」
「そう……」
だが、視線を巡らせるアリスよりも早く、チェシャ猫が白奈以外の生存者がいない事を確認する。
間に合わなかったけれど、ギリギリ間に合ったとも言える。
アリスは周囲を警戒しながらも、泣きながら蹲る白奈の方へと向かう。
「だ、大丈夫……?」
白奈の元へ行って声を掛ければ、白奈はゆっくりと顔を上げる。
一瞬だけ白奈と視線が合ったアリスは、後ろめたさもあって視線を直ぐにそらしてしまう。
白奈はやって来たのがアリスだと分かると、ふらふらと立ち上がりながら握った拳をアリスの胸に叩き付ける。
「……なんで……なんでもっと早く来てくれなかったの……。なんでお母さんじゃ無くて貴女なの……!!」
どん、どん、どん、と白奈はアリスを叩く。
けれど、常人の攻撃など魔法少女に通じる訳が無い。
「お爺ちゃん死んじゃったじゃない……!! 皆死んじゃったじゃない……!! なんで、なんで私の家族を皆奪うの!? 返して……!! 返してよぉっ!! 私の家族を返してぇっ!!」
泣き喚きながら、白奈はずっとアリスを叩く。
白奈も本心では分かっている。アリスが全部悪い訳では無い。今回の事に関して言えば、異譚が全て悪い。
それでも、決壊した心は感情を押し殺す事が出来なかった。
やがてアリスを叩く事も出来ない程に嗚咽を漏らし、アリスの胸に縋るように泣き続ける。
「ごめんなさい……」
アリスはただただなすがままになり、ただただ謝罪をする。
慰める事も、怒る事も出来ない。
この子の家族を奪ったのは自分であり、間に合わなかったのもまた自分なのだ。全部、全部事実だ。
言い訳なんて出来ない。してはいけない。
悪いのは、全部自分なのだから。
「ごめんなさい……」
ただ立ち尽くし、アリスはもう一度謝罪の言葉をこぼす。
けれど、アリスの謝罪は泣いている白奈の耳には届いていなかった。白奈の言葉しか、届いていなかったのだ。




