異譚20 呑気な奏者
ヴァイオリンを弾くのが好きだった。演奏が上手くなるのも好きだったし、両親に褒められるのも嬉しかった。
勉強を頑張った。良い点数を取ればやっぱり両親が褒めてくれた。
運動も頑張った。運動をする自分の姿を見て、同級生が褒めてくれた。
自分よりも上がいる事は分かっている。勉強も運動も、大好きなヴァイオリンも、決して自分は一番では無かった。
けど、それでも良かった。
頑張れば頑張るだけ、自分の身になっていくのが楽しかったから。
毎日が楽しかった。だから、妹の変化に気付く事が出来なかった。
最初は些細な変化だった。妹の表情が少し暗い気がした。
「どうかしたの?」
「なにが?」
「顔色悪いから、調子悪いのかなって思って」
「……ううん、平気。ありがとう、お姉ちゃん」
首を横に振り、柔らかく笑みを浮かべる妹。
この時に、もっと深く聞いていればよかったのだ。
平気と言われて、納得してしまった。深く考えなかった。
ただ呑気にヴァイオリンを弾いていた。
段々、段々、妹の様子は暗くなっていった。
「大丈夫? 何かあったの?」
優しくそう聞けば、いつも柔らかな笑みを浮かべて妹は同じ言葉を返した。
「平気。大丈夫だよ、お姉ちゃん」
真琴はその言葉を信じた。だって、まさか自分の妹がいじめにあっているだなんて思わなかったのだ。
ある日、いつもより暗い雰囲気で帰って来た妹は、ただいまの挨拶もそこそこに自分の部屋へと行ってしまった。
真琴も部屋で課題を終わらせたりしていたし、母はお夕飯の準備をしていた。父は仕事が忙しくまだ帰宅していなかった。
それぞれがそれぞれの事をしていたのだ。
母にお夕飯が出来たと言われ一階に降りるも、妹は一向に部屋から降りてこなかった。
真琴は妹を呼びに妹の部屋へと行った。
妹の部屋へと行けば、妹はベッドの上で眠っていた。起こそうと身体をゆすったけれど、妹は一向に起きる気配はなかった。
そこで違和感に気付いた。妹の顔はまるで体調が悪いかのように青白くなっていた。
恐る恐る妹の額に手を当てれば、妹の体温は驚くほどに低かった。
慌てて妹の首に手を当ててみたけれど、脈は感じとれなかった。
慌てて母親に言い、救急車を呼んだ。
けれど、既に遅かった。
発見時には既に手遅れだったのだ。
夾竹桃という植物がある。毒性が高く、解毒剤も存在しない。
妹はその夾竹桃を摂取して死んだのだ。解毒剤も存在しない植物を摂取すると言う事は、助かるつもりが無かったという事だ。
妹が亡くなった後、妹の日記を見つけた。
日記には自分がいじめられている事。
学校で仲間外れにされている事。
嫌がらせをされている事。
教師に相談しても何もしてくれない事。
そして、妹が亡くなったその日、その教師に犯されたという事。
妹の身に起きた内容の全てがそこに書かれていた。最後に記されたページの文字は水に濡れたように滲んでいた。それが涙の跡だと分からない程、真琴は愚鈍では無かった。
けれど、妹がいじめられている事に気付かない愚図で間抜けな姉だ。
呑気にへらへら笑みを浮かべて、妹がいじめられている時ですら呑気にヴァイオリンを弾いていた。
当時、真琴は中学三年生で、妹は中学二年生だった。同じ中学に通っていながら、同じ家に住んでいながら、同じ時間を共有していながら、真琴は一切気付く事は無かったのだ。
妹の日記には真琴や家族を責めるような言葉は書かれていなかった。それどころか、誰を責めるような言葉も書かれていなかったのだ。
自分の悪かったところは書いているけれど、相手を悪し様に言うような言葉は書かれていない。けれど、それが妹の本心では無い事は分かっている。最後のページに染みた涙の跡がその証左だ。
妹が死んでしまって、悲しみに暮れながらも学校に通った。
妹の日記を読んでも、自分が何をするべきか分からなかった。いじめを告発するというのも考えた。けれど、本人はもう既に死んでいるし、証拠は妹の日記だけだ。映像や音声などは残っていない。
加えて言えば、真琴の通う学校は小中高一貫の御嬢様学校。機織家は元の家柄こそ名の知れた家系だけれど、真琴の父は四男であり、加えて無理を通して一般庶民であった母と結婚しているので、後ろ盾は無いに等しい。
対して、妹をいじめていた相手は大企業の御令嬢である。いじめの決定的な証拠も無しに糾弾すれば、破滅をするのは機織家の方だ。
家族の事を考えるならば、悔しいけれどこれ以上事を荒立てるわけにはいかない。そう、父には言われた。
父の言い分に全て納得出来た訳では無い。けれど、家族の今後の事を考えた結果である事は良く分かった。
分かった、けれど……。
心の中にしこりは残り続ける。だって、いじめられていたのだ。他人に傷付けられ続けた末に自ら死を選んだのだ。
大切な、大切な家族だった。
笑って、泣いて、時には喧嘩をして、そうやって一緒に育ってきたのだ。
妹は、学校の奴らに殺されたのだ。
そう思うと、どうしても納得出来なかった。
けれど、真琴にはどうする事も出来ないのもまた事実。
妹の葬儀が終わり、また学校に通うようになっても、真琴の心はささくれ立っていた。
そんなおり、真琴は妹の日記に書かれていた女子生徒と廊下でばったり出会ってしまった。
いつかは出会うと分かっていた。真琴の通う学校は広いけれど、全校集会や学食や部活、登下校等、多くの場面で出逢う可能性はあった。
覚悟はしていた。それに、きっと向こうだって被害者に興味は無いだろうと思っていた。
ただ知らぬ存ぜぬで通り過ぎれば良い。
けれど、そうはならなかった。
真琴とすれ違う瞬間、彼女の言ったのだ。
「ご愁傷様です」
嗤いながら、心底から馬鹿にしながら、そう言ったのだ。
その言葉を聞いた直後、真琴はその少女の肩を掴んでいた。
少女は驚いたように声を上げ真琴を見るけれど、直ぐに馬鹿にしたような笑みを浮かべる。
「なんですか? 気安く触らないでください」
「……いじめたの?」
「はぁ?」
「……私の妹を、いじめたの?」
真琴がそう言えば、少女は嗤いながら答える。
「失礼な事言わないでくださいます? 私、誰かをいじめた事なんて一度もございません」
言って、肩を掴む真琴の手を払いのける。
「それとも、何か証拠でもあるんですか?」
「それは……」
「ええ? 証拠も無いんですか? 証拠も無しに私を疑ったんですか? 酷いです。傷付きましたぁ」
わざとらしく悲しそうな表情を浮かべる少女。
しかし、やはり直ぐに馬鹿にしたような笑みを浮かべる。
「貴女の妹が勝手に死んだだけでしょう? はぁ……死んでまで私に迷惑かけるとか……本当にろくでもない人ですね、貴女の妹は」
「ろくでもない……?」
我知らず、拳に力が入る。
「まぁ、死んで良かったんじゃ無いですか? 生きてても何の役にも立たない子だったんですし。ああ、でも一つ役には立ちましたね」
嗤いながら言って、少女は真琴の耳元で囁く。
「娼婦の真似事は上手だったみたいですね。先生、大変悦んでらっしゃいましたよ?」
その言葉を聞いて、真琴の頭は真っ白になった。
真琴は少女の髪を掴み、鼻頭に勢いよく自身の頭を叩き付ける。
真琴が暴力を振るった直後、周囲から悲鳴が上がる。
鼻を強烈に打ち付けられた少女は鼻血を垂らしながら、涙を流して真琴を見た。
その目は、先程の余裕綽々さからは考えられないくらいに、恐怖に満ちていた。
「な、何するのよ……っ!!」
怯えた目をしながらも、気丈に真琴を睨みつける。
真琴は怯える少女を気に掛ける事も無く、容赦無く少女の顔面に拳を打ち付ける。
何度も、何度も、何度も、拳を打ち付ける。
こんな、こんな弱くて馬鹿な女に自分の妹が殺されたのだと思うと、悔しくて涙が出てくる。
正気に戻った周囲の者が教師を呼んでくるまで、真琴は泣きながら何度も何度も拳を振り上げては打ち付けた。
こんな事をしても妹が帰ってこないと分かっていても、止められなかった。




