異譚10 元いじめられっ子
二日目。
黒奈は春花を連れて早朝の訓練室に来ていた。
早朝の訓練室は利用者が少ない。けれど、念には念を入れて早朝の一時間を貸し切りにしている。本来であれば貸し切りには出来ないけれど、春花の訓練のために特別に許可が下りたのだ。
まぁ、許可が下りるのは利用者が圧倒的に少ない時間帯のみだけれど。
「うん、可愛い!!」
訓練室の中で、黒奈は元気良く春花に言う。
春花は可愛い猫がプリントされたジャージを着ており、長く艶やかな髪はポニーテールに結われている。
「キヒヒ。そうだね。とびっきり可愛いよ、アリス」
春花の肩に乗って春花を褒めるチェシャ猫。
二人に褒められて春花はどう反応して良いのか分からずに困ったように視線を泳がせている。
因みに、髪を結ったのは黒奈である。
昨日買ったお高めのブラシで髪を梳かし、これまた可愛い猫の飾りの付いた髪留めで髪を結った。
本当に男の子とは思えない程に可愛い。長い前髪に隠れた瞳が、髪の隙間からちらりとこちらを窺う姿はとても庇護欲をそそり、直ぐにでもなでなでしてあげたくなってしまう。
けれども、春花を愛でている場合ではない。時間は有限。春花を可愛がりたい気持ちを抑えて、黒奈は腰に手を当てて訓練の内容を説明する。
「さて、今日はとりあえず春花ちゃんが何処まで出来るのかを試します」
「……はい」
「それじゃあ、訓練開始! おー!」
「キヒヒ。おー」
「あ、ぅ……」
戸惑いながらも、黒奈の指導の下で訓練が開始される。
しかして、やる事は学校の体力測定と変わらない。中学生の身体能力など高が知れているのだ。ましてや、春花の身体は不健康そのもの。栄養失調と言っても差し支えない程である。
これは、春花に無理をさせないための訓練のボーダーを見極めるための測定だ。
様々な機具を使い、春花の身体能力を計測する。
握力、筋力、跳躍力、持久力等々。
全ての測定を終えた頃には、丁度貸し切りの時間である一時間が経過していた。
「はい、お疲れ様。いっぱい運動して汗かいたでしょ? シャワー浴びて着替えよっか」
「は、はい……」
へとへとになった春花はゆっくりと頷く。
春花を連れて訓練室を出て、春花の寝泊まりしている部屋へと向かう。
部屋に付いた春花は着替えを持ってシャワー室へと入っていく。
春花がシャワーを浴び終わるまで、黒奈はベッドに座って数値を見る。
「キヒヒ。アリスはどうだった?」
「予想通りではあるけど、平均よりずっと下ね」
「キヒヒ。アリス、運動神経は良いけど、フィジカルは普通の中学生以下だからね」
「まぁ、あの身体じゃしょうがないわ。いっぱいご飯食べて、もりもり身体を作っていかないとね」
「キヒヒ。アリスは小食さ。そんなに直ぐ食べる量は増やせないよ」
「徐々に徐々に、よ。そんなに直ぐいっぱい食べれるなんて思って無いわ」
食べる事にも忌避感があるだろう。そんな子に無理矢理食べさせるなんて事は絶対にしない。
「キヒヒ。それはそうと、今日の訓練は終わりかい?」
「午前中は勉強。午後に魔法を使ってもらうわ。春花ちゃんも中学生だからね。勉強はしないと」
「キヒヒ。アリスが学校に行けるとは思わないけどね」
「私も、無理に行けとは言わないけどね。学校にあんまり良い思い出無いし」
「キヒヒ。そうなのかい?」
「ええ。こう見えて私、いじめられっ子だったんだから。学校に行きたくない子の気持ちは分かるわよ」
黒奈にとって、学校とは楽しい思い出の方が少ない場所だ。
それでも、学校には通い続けた。不登校になったら負けたような気がしたからだ。
それに、目には目を歯には歯を、いじめには仕返しをの精神で戦っていた。
人を傷付ける事もあったし、物を壊す時もあった。やられたらやり返していたから、双方ともにエスカレートしていった。
けれど、黒奈は諦めるつもりは無かった。
向こうにとってはただの嫌がらせでも、黒奈にとっては毎日が戦いだった。
それほど、苦しい毎日だった。
いじめっ子といじめられっ子には明確な考え方の差がある。こちらがどれだけ頑張って抵抗しても、その考え方の差を埋める事は出来ず、むしろなんでそれくらいで怒るんだとムキになっていくのだ。
むきになっていくにつれて、最初はただの嫌がらせが悪意のある攻撃に変わっていく。
まぁ、黒奈からしたら最初からずっと攻撃されていたのだけれど。
「あいつらってね、自分が悪い事してると思って無いのよ。ちょっと悪戯するだけ。ちょっと仲間外れにするだけ。ちょっと笑ってやるだけ。自分のしでかしてる事をちょっとって言葉だけで正当化してるのよ。本当に馬鹿よね」
「キヒヒ。そうだね。ただ、もっと言うなら、人を傷付ける事に段々慣れていってるのさ、アイツ等は」
「あら、話の分かる猫ちゃんだこと」
「キヒヒ。猫は人に寄り添える猫さ」
「ふふっ。じゃあ、貴方が春花ちゃんの傍にいるなら安心ね」
「キヒヒ。安心してくれて構わないよ。猫は、案内人兼癒し枠さ」
キヒヒと笑うチェシャ猫の頭を撫でながら、黒奈は話を続ける。
「……ずっと続けてると、人を傷付ける事に慣れてっちゃうのよね。段々と傷付ける事が当たり前になってきて、段々と相手が傷付くだろうと判断するボーダーラインが下がっていくの。だから、段々エスカレートする」
それは、相手が反発すればするほど、より過激になり、加速度も通常より早くなる。
「で、大体そういう奴らって群れるじゃない? 皆でやってるから責任は分散。分散された責任感ほど意味をなさないモノは無いわ。自分で背負ってるつもりなんて無いんだもの」
だからこそ軽い気持ちでいじめを行う。
自分達と意見の違う相手にちょっとした嫌がらせをしようと考える。浅はかにも、そう考えてしまうのだ。
黒奈は一つ瞑目した後、気分を入れ替えるように溜息を吐く。
「ごめんなさい。つまらない話しちゃったわね。安心して、あの子の前ではこんな話しないから」
「キヒヒ。そうしてくれると助かるよ。でも、溜め込むものでもないさ。猫で良かったら、いつでも話し相手になるよ」
「ふふっ。ありがとう、チェシャ猫」
二人の話が終わったところで、春花がシャワー室から出てくる。
タオルで拭いただけの髪は濡れており、水が滴っていた。
「春花ちゃん。ドライヤーとタオル持って来て。私が乾かしてあげるから」
「あ……はい……」
言われた通り、春花はタオルとドライヤーを持って黒奈の元にやって来る。
「さ、座って座って」
春花をベッドに座らせ、黒奈は春花の後ろに回り込む。
ドライヤーのコンセントを差し、春花の髪の毛を乾かす。
後ろから見た春花の姿は、見た目以上に小さく見えた。
この小さな身体に、どれだけの苦痛を与えられて来たのだろうか。記憶を無くしても、身体が憶えている程の苦痛を、黒奈は想像が出来ない。
きっと、反骨精神の塊だった黒奈とは違ったのだろう。なすがままにいじめられ、癒えない傷を与えられ続けたのだろう。
「大丈夫よ、春花ちゃん。春花ちゃんをいじめるような奴が居たら、この私がぶっとばしてやるんだから」
黒奈の言葉はドライヤーの音にかき消される。
それは、春花に聞かせるには少しだけ黒い感情を含んでいた。だから、ドライヤーの音に紛れさせた。
けれど、チェシャ猫だけはその言葉を聞き届けていた。それでも何も言わなかったのは、チェシャ猫も黒奈の気持ちを理解できるからだ。
黒奈は優しく春花の髪を乾かす。傷付いた心を癒すように、優しく、優しく。




