異譚2 先輩と後輩
その知らせが届いたのは突然の事だった。
『先輩に大事なお話があります。今週の土曜にお時間いただけませんか?』
携帯端末に届いた簡素なメッセージ。
数少ないメッセージのやり取りをする相手であり、自身の大切な後輩でもある相手。
気心知れた仲であり、敬語を使いはするけれどこんなに堅苦しい文を送って来るような事は今までになかった。
少し考え、分かったとだけ返信した。
そうして件の土曜日になり、後輩の指定した時間に指定された場所へと向かった。
「此処に来るのも久し振りね」
懐かしむようにその建物を見上げる。
異譚対策軍本部。この世に発生する異譚に対抗するために組織された軍。日本だけでは無く全世界が連盟となっている、世界一大規模な組織である。
「お久しぶりです、先輩」
対策軍を見上げていると、不意に声を掛けられる。
見やれば、そこにはパンツスーツに身を包んだ一人の女性が立っていた。
「久し振り、沙友里。元気そうね」
「先輩こそ。お変わりないようで何よりです」
パンツスーツの女性こそ彼女の後輩であり、異譚対策軍の童話組担当官――道下沙友里である。
「それ厭味? 私達の事よく知ってるくせに」
意地の悪い笑みを浮かべて言えば、沙友里は困ったように笑う。
「健康そうって意味ですよ。昔はずっと青白い顔してましたからね」
「まぁ、これでも二児の母ですからね。ちゃんとご飯作って自分もしっかり食べてるから、昔よりは血色も良くなったと思うよ」
「雪女は卒業ですね」
「ちょっと、止めてよ~。ぼこぼこにしちゃうぞー?」
高校時代の渾名を言われ、拳を握り締めて見せつける。
彼女の反応からして、良い意味での渾名では無い事は確かだろう。
「ふふっ、相変わらずですね。先輩の鉄拳が健在で何よりです」
「ちょっ、今はやって無いからね?! 人聞きの悪い事言わないでくれる~?」
怒ったように腰に手を当てる。
怒ったようにと言うように本当に怒っている訳では無い。気心知れた仲なのだ。いつもの掛け合いというやつである。
「それじゃあ、中へどうぞ。会議室を押さえてるのでそこで話をしましょう」
「はーい。会議室まで押さえるなんて……そんなに大事な話?」
「ええ。かなり」
「残念。可愛い後輩とお茶でも飲みたかったのになぁ」
「お茶はまた後で行きましょう。良い所知ってるんですよ、私」
「じゃ、その時にね」
軽くお喋りをしながら、二人は対策軍内へと入る。
「わぁ……変わって無いなぁ」
懐かしの対策軍を眺める。
まじまじと眺めながらも、会議室へ向かう脚に迷いは無い。何せ、長年在籍していた場所だ。造りや場所が変わっていないのであれば迷う事は無い。
会議室に入り、二人は対面に座る。
「さてさて。対策軍本部で話さなくちゃいけない大切な事っていうのは、いったい何かな~?」
早速本題を切り出せば、沙友里は非常に言いづらそうな表情を浮かべる。
「……まず、前提を話します。先輩は、例え一ヶ月でも魔法少女に復帰出来ますか?」
「……それはどういう意味かな? 私に復帰しろって事?」
「まぁ、そうなります。ただ、復帰して欲しい理由は話せません。先輩が復帰出来るのであれば、お話しできるのですが……」
「なるほど。私が条件を呑まないと先に進めない話って訳ね。それほど機密性が高いんだ?」
「はい」
「うーん……」
考えるように腕を組み、小首を傾げる。
流石に、内容も聞かずに復帰出来るだなんて言えない。魔法少女は殉職率が非常に高い。今は家庭もある。自分が死んで家族を遺す事を考えると、おいそれと頷く事は出来ない。
それに、自身の夫との約束も在る。反故にするには大きすぎる約束だ。
「キヒヒ。沙友里。アリスがお腹空いたってさ」
「「――っ」」
突如、第三者の居ないはずの会議室に二人以外の声が響く。
二人は驚いたように声の方を見やれば、そこには一匹の猫が居た。
しかし、ただの猫ではない。体格や灰色の縞模様のふさふさの毛並みを見れば普通の猫のようにも見えるけれど、一点だけ猫というにはあまりにも異質な特徴がある。
それは大きく裂けた三日月の様な口である。こんなに大きな口を持つ猫は世界中どこを探したってこの猫しか居ないだろう。
突然の乱入者に驚くけれど、沙友里はその猫を見れば安堵したように息を吐く。
「……チェシャ猫か。驚かさないでくれ。それに、今は会議中だ。あの子に付いていてくれと言っただろう?」
チェシャ猫と呼ばれた猫は、特徴的な笑い声を漏らして言葉を返す。
「キヒヒ。でもね、沙友里。アリスがお腹空いたって言ったんだ。お腹ぺこぺこなのは、可哀想だろう?」
「分かった。カフェに配達を依頼しておく。あの子と一緒に待っていてくれ」
「キヒヒ。分かったよ」
一つ頷いた次の瞬間、チェシャ猫の姿はもうそこには無かった。
「――っ?! 何、今の……」
「はぁ……まったく、話がつくまで出て来るなと言ったのに……」
「いや、だから何今の?! 猫が喋ってたけど? ていうか、あれ猫なの?」
「一応、猫ではあるみたいです……本人曰く、ですけど」
だが、ただの猫では無いのは確かだろう。何せ、喋るのだから。
「……先輩。これを言うと、先輩は私を卑怯な人間だと思うでしょうけど……それでも、言います。私は今回の件、先輩だからこそ声を掛けさせていただきました」
突如現れたチェシャ猫に困惑している間に、沙友里は至極真面目な表情で話を元に戻した。
「どういう事かな?」
「あの子は、私が出会った時の先輩と同じ目をしているんです。何にも期待しない、誰にも興味が無い、そんな目をしているんです」
「――っ」
沙友里の言葉に思わず息を呑む。
忘れらない。忘れもしない。自分の中の黒い過去。世界の全てが敵で、生きる意味を見出す事の出来なかった日々の事。ただ死ぬ事を願っていた、荒んだ日々の事。
「あの子に会えば、きっと先輩は頷いてくれる。そういう打算もあって、先輩を頼ったんです……。あの子の痛みを分かる人を、私は先輩しか知らなくて……」
「……その言い方でおおよそどんな事情かは察せたけど……わざわざ信頼に足る私を頼る訳だから、もっともっと特殊な事情って事で良いのかな?」
「はい……」
「ふむ……」
悩むように腕を組む。
暫く考えてみたけれど、やはり、夫との約束がある以上、答えは変わらない。
「悪いけど、話の全貌が見えない以上頷けないかな。家族もいるし、もう魔法少女にならないって約束もしちゃったしね」
「そう、ですよね……」
魔法少女は殉職率も高ければ離職率も高い。そして、現場に復帰する者も極稀である。
死と隣り合わせの職場に戻りたいだなんて思う者はそういない。
「キヒヒ。御取込み中のところごめんね」
「「――っ」」
いつの間にやら再登場していたチェシャ猫に、二人はびくりと身を震わす。
驚く二人を気にした様子も無く、チェシャ猫は続ける。
「キヒヒ。アリスが吐いちゃった」
「――っ。またか……! すみません、先輩。ちょっと席を外します!」
「あ、ちょっと!」
チェシャ猫の言葉を聞いた沙友里はすぐさま席を立って走りだす。
何が何だか分からないけれど、立ち上がって沙友里の後を追う事にした。
そこで、運命の出会いを果たす事になるのを彼女はまだ知らない。その出会いが彼女にとって吉では無く、凶である事もまだ知るよしもない事だ。




