異譚34 血の繋がった誰か
激重
当社比
「永源尊師の教えを護れば、異譚に襲われる事はありません。もし仮に異譚に巻き込まれても、必ず異譚から無事に生き残る事が出来ますよ」
部屋の隅。お人形で遊びながらそんな話を、なんともなしに聞いていた。
子供の時分ではあったけれど、その話が胡散臭いものである事は十分に理解できていた。
幼い頃から異譚についてある程度は教えられている。異譚の全容がまだなんにも知れていない事。異譚が危ないと言う事。異譚に絶対はないと言う事。
そして、異譚から自分達を護ってくれる存在は魔法少女である事。
少女が遊んでいるお人形も実際の魔法少女を模したものだった。
だから、誰もが知っている。異譚と戦えるのは魔法少女だけであるという事を。
「まぁ、そうなんですか?」
喜色の混じった声音。その声を聞いた時、何故か分からないけれど今まで通りに生きていけないという事を理解した。
父は幼い頃に異譚に巻き込まれて死んだ。それから、母が女手一つで育ててくれた。
母は自身の無い人間だった。自分というものを持っておらず、自分の価値を他人に求めてしまうような人間だった。
こうあれば他人が喜んでくれる。こうすれば誰かに褒めて貰える。こうなれば誰かの役に立てる。
誰かを気にして生きて、誰かのためにしか生きられない人だった。
それでも、必死に母親として生きてくれていたのは分かっている。分かっているのだ。
「お布施が足りませんね……これでは永源尊師の恩恵を受けられませんよ? 良いですか? 永源尊師が信徒を守護するには、心身ともに多大なるエネルギーを必要とします。そのためには多大な資金が――」
信徒の話を母親が落ち込みながら真剣に聞いている。
少女は部屋の隅で膝を抱えながらその光景を白けた目で見る。
――贅を凝らしてはいけませんよ。必要最低限の質素な生活が望ましいです。
そう言われて、家の中の趣向品は全て売り払われた。そのお金は勿論お布施として払われた。
――付き合う人は選ばないといけません。徳の低い者と付き合うと、永源尊師の守護が薄れますからね。
そう言われて、友人との接触を断ち切った。そうして、母親の頼るべき相手は必然的に限られた。
――この家は風水的にも悪いです。今すぐ、此処に引っ越すように。
そう言われて、信徒の用意した場所に引っ越した。そこは信徒達の集合住宅だった。
変な宗教に入信しているからか、学校での居場所を無くした。
いじめこそ無かったものの、それでも遠巻きに見られるだけの生活は辛かった。
段々、家に居るのが嫌になった。集合住宅を家だとも思いたくなかった。気持ち悪い、自分の無い人間が住む蟲の巣だ。
集合住宅には門限があった。門限のぎりぎりまで外で時間を潰した。
家に帰っても楽しい事など何一つない。
必要最低限の物しか置かれていない家。それでも母親はにこにこと笑みを浮かべて楽しそうにお喋りをする。けれど、楽しそうに話すのは思い出話ばかり。それはそうだ。母親の繋がりは最早宗教しか残されていない。
テレビも無い。その他の情報端末も無い。新聞だって此処には届かない。
母親の中にある話題は過去にしかない。たまに別の事を話したと思えば、宗教の事ばかり。信徒に褒められたとか、そんなくだらない事ばかりだ。
段々と、ソレを母親だとは思わなくなっていった。
誰かに縋って、誰かに幸せを見出して。そうして誰かでしか自分を見出せない馬鹿な女。
そんな者と話をしていても楽しい事など一つも無い。
馬鹿な女と生活に意味を見出せない日々の中、唐突に馬鹿な女から一つのお願いをされた。
「永源尊師様が貴女にお会いしたいそうよ。良かったわね。私達の献身が認められたのよ」
心底嬉しそうに笑みを浮かべる母親。
「貴女に永源尊師様が加護をお与えになってくださるそうよ。さぁ、行ってきなさい」
加護なんてどうでも良かった。母親の言う事だってどうでも良かった。
ただ、加護なんて無かったと。騙されていただけなのだと分かれば、この馬鹿で愚鈍な女も馬鹿げた生活を止めてくれると思った。
だから行った。黒塗りの高級車に乗り込み、永源尊師なる詐欺師が居る場所へと向かった。
大きな施設。部屋に通されれば、そこには一人の男が居た。
簡素な衣服に身を包み、優しそうな顔をしたふくよかな体系をした男。
「よく来たね。さぁ、こっちへ」
無言で男の元へ行こうとして、違和感に気付く。
男の座っている場所は大きな布で覆われている平たい台のようなものだった。それが椅子では無い事は一目で分かるけれど、それが何であるかは分からなかった。
嫌な予感が少女の中に広がる。
けれど、少女には日々の苛立ちと鬱憤の方が大きかった。
「加護なんて嘘でしょ。そんなものが在るなら、皆異譚で困ってない」
少女がそう言えば、男は一瞬きょとんとした顔を浮かべた後、おかしそうに笑った。
その笑いが少女の癪に障る。
「何がおかしいの?!」
「当り前の事を言うんだね、君は。加護なんてあるはずないだろう? ちゃんと勉強してれば分かる事だよ」
立ち上がり、男はいやらしい笑みを浮かべながら少女に近付いてくる。
「でもね、そんな簡単な事に見向きもしないで誰かの意見を聞こうとする人間が多いんだ。どうしてか分かるかい?」
疑問を投げかける男。けれど、答えなど求めていなかったのだろう。
少女の答えを聞く前に、男はニヤニヤといやらしい笑みで語る。
「それはね、その人間が誰かに従っている方が楽だからさ。誰かに言われて実行して、失敗したらその誰かのせいだ。自分のせいにしなくて済むからね。取り返しのつかない大きな失敗や、自分ではどうしようもない事件に巻き込まれた人間はその良い例だよ」
男は少女の肩にぽんっと手を置く。
「自分の無い人間が、私のように悪い人間に騙される。そして、その馬鹿の子供が痛い目を見るんだ。こんな風にね」
「きゃっ!?」
強く引っ張られ、男が座っていた台に倒される。倒れて、それがなんだかようやく理解した。
艶やかなシルクのシーツ。柔らかなマット。そこは寝台だった。それを理解すれば、自分がこの後どういう目にあうのか、幼い少女にも理解できた。
この時、少女はまだ十二歳。けれど、学校でそういう授業を受けたので知っている。
「馬鹿な大人は私の信徒だ。だから、君の言葉を聞きやしないだろう。例え聞いても、私と繋がれた事を喜ぶだろう。そういう馬鹿ばかりなのだからね」
男は少女に覆い被さる。
必死に抵抗するも、男の強い力を振り解く事が出来ない。
「憶えておいた方が良い。自分の無い馬鹿は食い物にされる。そして、周りを不幸にするんだ。君みたいにね」
男の顔が少女に近付く。
もう無理だと感じ、抗うのを止めた。
もう抵抗されないと思ったのだろう。男の力が弱まった。
「――っ」
今しかない。今を逃せば、もう逃げられない。
直感的にそう理解した少女は、男の股間を強く蹴り上げた。
「ぅぐっ……!?」
くぐもった声を上げて男は蹲る。
少女は必至に男を蹴り付けた。頭を蹴り、股間を蹴り、腹を蹴り。もう二度と追ってこられないように、何度も、何度も、何度も蹴り付けた。
男がだらしなく泣きながら股間を抑えるのを見て、もう大丈夫だと悟った。
しかし、この場には居られない。
少女は部屋を抜け出し、必死になって施設からも抜け出した。
車で来た道を、少女は足を止める事無く走った。
足が痛くなるまで。もう走れないと思うまで。ずっと、ずっと、必死に脚を動かした。疲れ果てて足が上がらなくなって、些細な段差でも躓いて盛大に転んでしまった。
膝も、顔も、腕も、盛大に打ち付けて血だらけだ。身体が痛い。走り過ぎて身体が痛い。
最早歩いているのと変わらない程の速度になっても、それでも少女は走った。
襲われそうになった事実が在れば、母親だってきっと目を覚ましてくれるはずだ。前みたいな生活に戻れるはずだ。
疲れ果てて、ようやく帰って来た少女。
息を整えて、ようやく元の生活に戻れると、期待を胸に少女は玄関の扉を開く。
「あぁ、お帰りなさい。加護はどうだった?」
「………………………………………………え?」
帰って来た少女を見て、母親の第一声がそれだった。
身体も、服も、何もかもぼろぼろで、これでもかと血を流しているのに。
分かってる。きっと洗脳されているのだ。だから正常な判断が出来ない。分かってる。分かってる。分かってる。分かってる分かってる分かってる分かってる――
「……え?」
気付いたら、母親の頬を叩いていた。
容赦無く。気遣い無く。遠慮無く。
驚いたように目を見開く母親の目が少女を見る。まるで、信じられないようなものを見たような、そんな目。
「…………ッ!!」
ぎりりと奥歯を食いしばり、少女は拳を握って母親の顔を殴った。
「うっ……な、なんで……? どうしたの……?」
涙を流しながら、娘の行動に怯える母親。
ダメだった。一度手を上げてしまえば、もう止まる事が出来なかった。
何度も、何度も、何度も、何度も手を上げた。
蹲る母親の背中を蹴り、頭を踏み付け、腹を蹴った。
泣きながら母親に暴力を振るう少女。
「アンタがッ……こんな事ッ、するからッ!! 馬鹿みたいに、何かに、縋って!! こんなくだらない、クソみたいな場所に住んでッ!! 頭の無いクソ女だから!! アタシがこんな風になってんでしょ!!」
今までの怒りが爆発した。
ずっと、ずっと我慢していた怒りが、今日を持って解き放たれた。
「自分だけで生きられないなら、子供なんて産むんじゃないわよ!! 誰かに縋るしか出来ない馬鹿女が、子育てなんて出来るわけないって、分かってんでしょ!! ふざけんな!! ふざけんなぁぁぁ!!」
泣きながら叫ぶ少女。
やがてよろよろと力無くその場に座り込み、蹲る母親の上に覆いかぶさるようにして抱きしめる。
「ぅ……ぅぅ……っ。なんで、なんで普通に生きてくれなかったのよ……っ!! 誰かが必要なら、アタシだけで充分じゃない……っ!!」
何も無い簡素な部屋で、親子は声を上げて涙を流す。
けれど、涙の種類は違う。母親は恐怖による涙であり、娘は悲哀による涙だ。
交わる事の無い感情だ。そんな親子の行く末など、想像するまでも無い事だ。
親子が入信していた宗教は、永源尊師が性被害を訴えられた事により解散した。必然的に、信徒の集合住宅も解散された。
二人は安くて狭く、おんぼろな家に引っ越した。
多少貧乏でも、夢にまで見た普通の生活。これこそ、少女の望んだ生活。
けれど、母親は少女を恐れるようになり、まともに会話もしてくれなくなった。
少女も、あの日を境に母親を完全に親だと思えなくなった。
知らない誰かと同居しているような感覚。
冷え切った家庭の中、少女は中学生になった。
中学生になっても、小学校からの持ち上がりなので少女を取り巻く環境は変わらない。
誰とも関わらない生活。そんな生活を一年して、中学二年生に上がってから少しして、過去最大最悪の異譚が発生した。
そこで生まれた英雄のインタビューを見た。
自分の事を自分で決めて、自分の責任を自分で負って、自分のやるべき事を明確化して、自分をしっかり持って戦うと言った彼女を見て、久し振りに心が震えた。
こう生きたい。こう在りたい。誰にも依存しないで、誰にも縋らないで、自分の持っているモノだけで生きる。強い人間に自分も成りたいと思った。
その日、少女は確かに、英雄に憧れたのだ。




