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燕の巣

作者: 吉田 昌司


 花びらが散り去り、桜の木が勢いよく葉を芽吹かせんとする頃、『チュビチュビチュルル』と大きなさえずりを出しながら雄の燕が軒先をかすめるように飛ぶ季節がやってきた。つがいの雌も後からやってきて、納屋の様子を伺っている。

「きぬ、水瓶に水を汲んできておくれ」

「ちょっと待って、今手が離せないの」

きぬは、納屋に入ろうとする燕のつがいの様子を裏庭の木の陰からそうっと伺っていた。

「何をやってんだい?夕餉の支度を急がないとおとっつあんがもう直ぐ帰ってくるよ」

「はい、はい、分かってますよ」

きぬは、讃岐国多度郡の大百姓の娘で、今年十八になる。二つ違いと六つ違いの弟が二人いる。そろそろ嫁にという話も近所の世話役が持って来るが聞く耳を持たない。

「帰ったぞ。ああ、疲れた。飯の支度はできてるか?」

浅黒い顔をしたきぬの父親である嘉平が下働きの若い男達を連れて帰ってきた。

「あんた、お帰り。もうちょっと待ってておくれ。ほんのちょっとの間だから」

母親が台所から声をかけた。てんてこ舞いで少し苛立った高い声であった。

「何だい、飯はまだか。この刻限には帰ってくるのは分かっているはずだ。若い衆らも腹を空かせているんだ。段取りが悪すぎるぞ」

父親は、着物の埃を払いながら、腹立たしい口調で女房に文句を言った。

「ごめんなさい。きぬがちっとも手伝わないものだから」

その頃、きぬは、納屋の入り口の鴨居にできかけた燕の巣を覗き込んでいた。泥と枯れ草でできた巣は、去年までのつがいとは別の燕らしく、新しい巣を作り始めていた。

「ぼちぼち田んぼのサヤエンドウを収穫し、土作りをしないとな。京極の殿様もお台所事情が良くないと見えて、米以外の年貢も厳しくお取立てになる。わしら総代を任された百姓らが小作の者達にも檄を飛ばさんとな」

「おとっつあん、殿様は何に大金を使こうているのじゃ。わし等の営みは、働いても働いても楽になることはなく、苦しくなるばかりじゃ」

惣領の甚助が父親の嘉平にボヤキながら尋ねた。

「そうさなあ。何に金を使われておるんだろうのう。先年、ペルリが黒船で来て以来、日本は騒がしゅうなった。尊王だ、攘夷だと諸藩や志士どもが動きを活発にしておる」

囲炉裏を囲んだ座布団に腰を降ろしながら嘉平は甚助を諭すように呟いた。

「そんなことは俺にも分かる。そうかと言って殿様が軍備を新式に整えているというようなことも聞いたことが無い」

「待て、待て。そんなことは、お武家様が考えることじゃ。わし等は、精を出して田畑を耕せばよい。余計な考えは無用じゃ」

嘉平は、甚助の思いも分かるような気もしたが、いらぬ考えは百姓には無用だという思いのほうが上回っていた。

 幕末の最中、京極藩のような小さな藩は、世の中の動きから完全に取り残されていた。藩首脳部は、情報収集はするものの、藩政改革を行うだけの資金力が無かった。

 この年の師走の慌しい頃、世話役からまたもやきぬの縁談話が舞い込んできた。相手は隣村の弥平という若い百姓で、きぬより三つ年上だった。世話役が嘉平ときぬに良縁であることを丁寧に説明した。

「話だけでは決められません。私は、弥平さんという方にお会いしとうございます。燕がつがいを見つけるように・・・」

きぬは、周りの者が思いもかけないような言葉を口にした。

「何を戯けたことを言うのじゃ。この釣書をよく読んだのか?大百姓の惣領息子じゃ、きっと安気に、幸せに暮らせる。いつまでもこの家に居って気ままに過ごさせる訳にはいかん。覚悟を決めて佳き女房になるのじゃ」

嘉平は、語気を強めてきぬに言い聞かせた。世話役には話を進めてくれと頼み込んだ。

 きぬは、釣書だけで生涯の伴侶を決めるのには納得できなかった。隣村まで一里も無い。きぬは、弥平を一目みたいと思いを強くし、隣村に向かって出かけていった。弥平の家は、多度津の港からお大師様、金比羅様への参詣街道の直ぐ近くにあった。立派な門構えの大きな屋敷だった。ふと見ると母屋の西側に大きな納屋があった。きぬは挨拶もせずに門を潜って納屋に向かった。きぬが思った通り納屋の扉の上には燕の巣が並んでいた。子供の頃に聞いた『燕が巣作りをする家は、幸せで安全な家である』という言い伝えを思い出した。きぬは、これで弥平に会うまでもない、この家の人ならば悪い人ではないと思った。急いで家に帰り嘉平に見てきた事を伝え、縁談を納得したことはっきりとした口調で言った。

「なんと相手方の家を覗いてきたというのか。お前の考えることはさっぱり分からん」

嘉平は、きぬの突拍子もない行動に呆れた。

「燕の巣が並んでいるのは我が家と同じでした。私は、この家が、家族が大好きです。そんな幸せな家に嫁ぐのが子供の頃からの夢でした。おとっつあん、長い間お世話になりました。私は、弥平さんと夫婦になります」

きぬは、はっきりとした口調で自らを言い聞かせるように嘉平と母親に告げた。

「おい、おい、その挨拶はまだ先のことだ。でも、安心したよ。お前が納得してくれて、幸せになれよ」

嘉平は、きぬの気持ちが少し分かるような気がした。娘が嫁に行くことを決断した安堵感が嘉平の心を和ませた。反面、可愛い娘の顔をこうして毎日見られるのも後僅かかかと思うと寂しさに堪えきれずにいる自分がいた。

 こうして世話役同士で話が進められ、結納の儀が滞りなく執り行われ、婚礼の準備が進められた。四月に婚儀と相なった。

 桜の花と桃の花が交じり合って咲き乱れる頃、きぬは弥平の元へ嫁いで行った。祝言は弥平の家の座敷で一晩中盛大に繰り広げられた。気が緩んでついついうたた寝してしまったきぬは、『チュビチュビチュルル』という燕の雄の鳴き声に目を覚ました。どうやら気の早い燕がこの屋敷にやってきたようだ。きぬの嫁入りを歓迎しているかのようだ。きぬは、低く飛ぶ燕を見て「今日は、雨が降るな」と予想した。空は鉛色に曇っていたが、きぬの心はどこまでも澄み切った青空のように晴れ晴れとした気分だった。


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