5 知らない人
「勇者様、かっこよかったな!」
「すごくかっこよかった! ぴかぴかしてた!」
勇者の凱旋パレードが終わり、子ども達が興奮気味に言い合いながら駆け抜けていく。無邪気に喜ぶ彼らの言葉に、ぴかぴかしているのは装備だ、とリンは内心で吐き捨てた。興奮気味に語り合うちいさな子ども達に罪は無い。彼らが生まれた時には、勇者は既に勇者だったのだから。
勇者は今、リンが生まれ育った村に滞在している。魔王なき今、復興へと向かう人々を励ますために、勇者はこれまで回ってきた各地を順繰りに訪問しているのだ。
魔王を斃した後も、人類の希望で在り続ける勇者に、人々は心から賛頌した。彼の心は、まさしく聖人。力だけでなく心までも素晴らしい御方だと。
そんな声を聞く度に、リンは手に持つものを投げ捨てたくなる。
けれど今リンが持つ食べ物も、少し前まで収穫することも叶わなかった。大地は汚され、木々は腐り落ち、作物は全て枯れた。食糧はほんの限られたものしか無くて、だからとても高くて。裕福な貴族の買い占めもあり、人々はいつも飢餓の苦しみと、餓死の恐怖と戦っていた。
けれど、勇者が訪れて、魔物を斃して。浄化の魔法で大地を元通りにしてくれた。だからリンのような両親もいない村人でも、こうして食べ物を買い、この後の食事にありつける。
リンが今生きているのは、勇者のお陰。──それでも。
きゃあっ、と黄色い声が上がる。リンが顔を上げると、リンより年下の女の子達が、視線を1点に集中させていた。視線の先など確認しなくても分かる。勇者が、こちらへ向かっているのだろう。
「格好いい」
「素敵」
「隣にいるのは、教会の聖女様?」
「きっとそうよ。あの美しい金の御髪に白い衣装は聖女様の証だもん」
「2人が恋仲って本当かなあ」
「私はこの国の王女様と結婚するって聞いたよ」
熱に浮かされた声で語り合う少女達。勇者は21歳。まさに結婚適齢期であり、誰がかの勇者の横に立つのかと様々な憶測が飛び交っている。中でも有力なのが、今も上がった教会の聖女と、この国の王女。奇跡の力で病を怪我を癒し、王家にだけ継がれる魔法で魔物を圧倒する2人は、勇者の旅の仲間だ。
そのうち、聖女様を今日は連れ歩いているらしい。素敵だの、似合いのお二人だのと好き勝手言う彼女達の声に背を向けて、リンは足早にその場を去った。
***
結局、リンの元にレオからの知らせは、1度も届かなかった。
レオの両親の元には1年に1度だけ、手紙が届いていたけれど、時候の挨拶やら、元気だよ、の一言だけ。自分が今どこで何をしているのか、レオは1度も語らない。
けれど、リンは知っている。だって、みんなが噂をするから。
巨大なドラゴンを倒した。魔物の大群を、たった数人で全て屠った。病が流行った街で、数日でみなが元気に働けるようになった。
おとぎ話のような、そんな奇跡の物語を、勇者様の活躍を、側に寄りそう「姫」の話を、誰もが興奮気味に語って。
悪戯好きのクソガキがどうしているかなんて、誰も知ろうともしない。無事を祈りながらも1人になったリンの生活を支えてくれるレオの両親に、崇めるような言葉ばかりがかけられて。
幼い頃からレオを知るはずの村人までもが、まるで神様を崇めるように勇者を褒め称えるから。
リンはいつしか、勇者が嫌いになっていった。
***
井戸水を桶でくみ出し、水場に移動する。持ってきた衣類を桶に入れて、水で優しく押し洗いする。
ふんだんに綺麗な水を扱えることすら、つい半年前まで厳しくて。泥水で洗うしかなくて、お気に入りの服を駄目にしたと嘆く女性は少なくなかった。
今は、水を沸騰させなくても飲めるし、洗い物や身体を流すのに水を使っても咎められない。そんな当たり前の1つ1つが、勇者のもたらしてくれたもので。
「……ふん」
鼻を鳴らして、リンは衣服を桶から取り出した。緩く絞って、籠に畳んだ状態で重ねて入れる。後は家に戻って洗濯物を干すだけだ。籠を背負って歩き出そうとしたリンは、ざわりと空気が揺れるのを感じて、顔を上げる。
勇者が、そこにいた。
「……」
「……」
いつも連れている王女も巫女もいない。隣にいるのは、勇者が勇者になった初期、剣を教えたという男か。赤銅色の肌をした男は、勇者の半歩後ろに下がって、まるで従者のようだ。見ているだけでリンは気分が悪くなった。
「……」
本当なら、ここは勇者様に感謝の言葉を捧げて、叩頭すべき場面だろう。全ての人々が、喜んでそうするように。
けれど今、リンは濡れて重い洗濯物を背負っているのだ。叩頭なんてすれば、背中がびしょ濡れになってしまう。そこまでして勇者に跪くなんて冗談じゃない。
それでも一応軽く頭を下げて、リンはふいと横を向いて歩き出した。見知らぬ他人と擦れ違った時そのままの対応をするリンの背中に、勇者が声をかける。
「リン。おれだよ」
誰かが息を呑むのが聞こえた。勇者が、神にも等しい存在が、みすぼらしい村娘に声をかけたことに、そんなに驚くか。リンはうんざりした気分で足を止め、振り返った。
「誰」
勇者が言葉を失う。周囲がにわかに色めき立った。
「この……っ」
「誰に向かって!」
「やめて」
リンに向きそうになった敵意は、勇者の一言で霧散した。まるで洗脳だな、と冷めた感想を抱きながら、リンは構わず続ける。
「私は、勇者なんか知らないわ」
「っ、リン……」
「私、勇者が嫌いなの」
金の鎧を、輝く聖剣を、煌びやかな服を眺めながらそう言って、リンは今度こそ顔を前に戻して歩き出した。
「私の知り合いに、勇者なんていないわ。そんな姿で、私の前に立たないで頂戴」
そう吐き捨てて、リンはその場を去った。洗濯物の水気が、背中に染み込んで冷たい。