10 唐突な誘拐
強い風にスカートが持ち上がる。視界に入ったスカートに我に返り慌てて押さえたリンは、いい加減に家へ帰ろうと踵を返しかけ……気付いた。
「……?」
遠くから、妙な音が聞こえてくる。
「……動物?」
地響きのような音が、徐々に近付いている。畑を荒らす動物なら、レオの父親に頼んで今のうちに狩りの道具を出してもらおうと考えて──リンは、瞬いた。
(……何か、変?)
リン目掛けて一目散に近寄ってくる影は、森に時折出没する獣とも、畑を荒らす獣とも似ていない。四足の獣にしては大きいけれど、どんな獣だろうと考えて、リンは瞬いた。
(……まさかね?)
まさか、いや、いくらなんでもそれはないだろう。なんか、こう、明らかに獣っぽくないというか、シルエットがかなり身近な感じだけれども。どう見ても、スカートをつまんだ女性ダッシュしているシルエットだけども。
そんなまさか、こんな馬もかくやという猛烈な勢いで、人間が走れるはずが──
「捕まえましたわー!!」
「きゃあっ!?」
半ば現実逃避していたリンは、上品な、それでいてやけに活き活きとした声と共にがくんっと身体が浮く感触に現実に引き戻された。思わず悲鳴を上げたが、驚くのはまだ早いらしい。
目眩がするほどの早さで、視界が流れていく。遠くから「リンちゃん!?」とおじさんの声が聞こえたような気もしたが、あっという間に遠ざかって掻き消えた。
「えっ、なに、なんなの!?」
「もう! レオ様も隅に置けませんわ! こんな可愛らしい素材……いえ、お嬢さんが故郷で待っていらっしゃるなんて! レオ様も飾ると化けますし、一緒に並べればさぞかし純朴な青少年の恋模様がこれ以上無く演出出来ますのに!!」
「なんて!?」
物凄い早口でまくし立てる声は、耳元で鳴り響く風の音で殆ど掻き消されてしまった。リンが思わず声を張り上げたのは、「素材」「演出」という空恐ろしい単語が辛うじて聞こえたからだ。怪しげな儀式かなにかだろうか。
「本当に素晴らしいですわ! このまま離ればなれだなんて楽しくありませんもの、聖女様もきっと協力してくださりますわー!」
「だからなんなの、ねえ!」
リンを抱え上げたまま高らかに何事かをまくし立てたまま、女性は物凄い勢いで走り続けている。何を言っているのかも気になるが、それより自分は一体どこへ連れて行かれようとしているのだろうか。
慌てて首を巡らせたが、周囲の景色は恐ろしい勢いで流れていて、今どこにいるのかさっぱり分からない。
もういっそ気絶してしまおうか、とリンが割と本気で思い始めた時、聞き覚えのある慌てふためいた声が遠くから聞こえる。
「ちょ、フェリシア! 急に馬車から飛び降りて何してんだよ!?」
「フェリシアさん、いきなり暴走しないで一声掛けてとあれほど言ったじゃない!」
レオだ、と顔を上げたリンは、土煙を立てて駆け寄ってくる人影二つを目に入れた。やけにきんきらな鎧と、白一色のローブには非常に見覚えがある……というか、普通にレオと聖女様だ。
ずざーっ、きゆっと、人間のブレーキにはあるまじき音が聞こえたと思うと、リンの目がようやく景色を映し出す。案の定、隣街へ向かう街道であり、織物を売るリンもよく使う道だった。そしてリンの記憶が正しければ、丸1日歩いたくらいの距離が稼がれている。
「フェリシア、一体今度は何──ってリン!?」
「リンって……まあ、フェリ!」
目を丸くして仰天するレオの横で、聖女様が大きく息を呑んだ。リンを凝視したまま、わなわなと震えている。
(だよね、うん、私おかしくない)
あまりにもごく当たり前のように攫われてしまったせいで感覚が狂いかけていたが、リンが混乱しているのは無理も無いことだと思う。問答無用で誘拐され、しかも移動手段が馬より早い猛ダッシュ。ちょっと意味が分からない。
だからこそリンは、聖女様が次の瞬間、リンを抱える女性に雷を落とすのに備えて身構え──
「でかしたわ、フェリ!!」
「おーほほほほ!」
──雷が落ちるどころか、思いっきり舞い上がった。
リンは硬直した。未だにお姫様抱っこされたままのリンを挟んで、女性陣がなんか盛り上がっている。
「レオ様があまりにもヘタレ過ぎてひっぱたいて説得するつもりだったけれど、手間が省けたわ! ありがとう!」
「こちらこそ感謝しておりますわ、アナスタシア様! アナスタシア様が声をかけてくれなければ、わたくし、このお嬢さんの魅力に気付かずスルーしてしまうところでしたもの! わたくしとしたことが、迂闊でしたわー!」
「よーし、ここまで来れば話は早いわね! 馬車に戻るわよ!」
「勿論ですわ!」
物凄いテンポでまくし立て合い、2人は意気揚々と──リンを抱っこしたまま──馬車へと駆け出した。相変わらず馬もかくやの速度に、リンは小さく悲鳴を上げる。
「ひぃっ」
「まあ、可愛らしいですわ! 少々辛抱くださいませ、直ぐに着きますから!」
「あ、あの、落ちる──」
「ご安心くださいませ! わたくし、お気に入りのお嬢さんをうっかり手を滑らせて落とすほど迂闊ではございませんわ!」
朗らかに言い切り、フェリシアと呼ばれた女性は速度を上げる。そうなるともう風の音でまともに会話は出来ないわ振り落とされそうで怖いわで、リンはフェリシアにしがみつくことしか出来なかった。
ようやくリンが地面を踏みしめるまで、フェリシアの言う通りさして時間がかからなかった。へなへなと腰が抜けたリンに、フェリシアが覗き込む。紅色の瞳が、心配そうに翳っていた。
「大丈夫ですか? 馬車までお連れしましょうか?」
「い、いえ、歩けます……」
またお姫様抱っこされては敵わない。生まれて初めての経験だったが、相当恥ずかしかった。