第3話「人義」
「それで、どうしたの?」
「え?」
「私の後をわざわざ付いてきて何が言いたかったの?」
彼女の問いに息を呑む。言いたいことは特に無かった。けれども、俺の足は彼女を追い掛け、口は考えるよりも先に声を発していたのだ。
改めて、そう訊かれると、自らが何をしようとしていたか皆目見当も付かない。しかし――
「凄いな、と思ったんです」
「凄い?」
「俺は心の中で思うだけで出来なかったから」
「席を譲るだけでしょ」
「はい。でも、もしも俺と同時に立ちあがった人がいたら? もしも断られたら? そう考えると行動に移せなくて……」
「で?」
「え?」
「だから、それでどうして私に声を掛けたの? 別に声を掛けるくらい大したことじゃないじゃない」
「でも……お姉さんは俺に声を掛けてまでお婆さんの為に……」
「別に私は誰かの為にやったわけじゃないから」
彼女の言葉に目を瞠る。腕を組む姿を見据えていれば、居心地悪そうに耳に髪を掛ける仕草をしていた。
「何もしないで何かあったら困るって思っただけ」
「それってやっぱり……」
「私のしてることは偽善なの」
凛とした声が静寂の街に木霊する。
「私が勝手にやってるだけ。それ以上でも、それ以下でもない」
「……じゃあ、どうして俺を選んだんですか?」
「君が何度も腰を浮かしてたから。でも文句を言われたら、それでもいいと思ってたの。言い返してやろうと思って」
嗜虐的に彼女の唇が歪む。ふわりと戦いだ黒髪を押さえる様は艶やかだ。
「あの空間に腹が立ったのよ。正論は私だから誰にも文句は言わせない」
何も言えなかった。それは彼女を美しいと思ったからかもしれないし、歪んだ正義感に背筋が粟立ったからかもしれない。それでも、この時、俺は確かに己の価値観が捻じ曲がる音を聞いた。
「少なくとも次からは君もやるんじゃない? 偽善でもね。
ごめん、人と約束があるの。これで失礼するね。でも君が優しい子で良かった。席を譲ってくれてありがとう」
彼女はそう言って優しく微笑むと行ってしまった。傾く夕日の向こうに高いヒールを携えた彼女がいる。風に靡く黒髪。ふわりと漂う甘い香水の薫り。歪んだ正義を翳したヒロインは、そうして俺の前から姿を消した。