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喫茶月影の幸せひと皿  作者: 内間飛来
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第4話 安らぎ与えるセントジョーンズワート

 カラン、と扉の開くとともにのっそりと入ってきたのは、小汚く、うだつの上がらなそうな男だった。男は顎の辺りを掻き、あくびをしながら空席についた。店主が戸惑いながら水の入ったコップを持っていくと、男は店主を見上げてぼんやりと言った。

「あー……、店員さん? 悪いんだけど、少し寝かせてくれねえかな……」

「おいおい、ここは喫茶店だよ。寝るなら家に帰ってからにしな」

 勝ち気な釣り眼の常連客の女性――八塚が店主に代わって男を注意した。男はムッとした表情で見据えてくる八塚と同じような表情をわずかに浮かべると、一転して情けなく眉を八の字に下げた。

「頼むよ。頼むから、寝かせてほしいんだ。少しでいいから……!」

「何か訳ありなようですね。いかがなさったんですか?」

 店主はお冷をテーブルに置きながら、心配そうに男の顔を覗き込んだ。男はゆらりと揺れる生成り色の三つ編みと、その先にある可愛らしい瞳に少しばかり頬を染めると、デレデレと相好を崩しながら両肘ついて頬杖をした。

「お姉さん、聞いてくださいよー。俺ね、実はこう見えて、ちょっと名の知れた画家なんですよ」

「へえ、あんた、画家なのかい。見かけによらないねえ」

 八塚が感心するように目を丸くしたが、男はオバサン(・・・・)には興味がないようで、八塚を表情もなくちらりと一瞥すると再び店主に向き直ってデレッと笑った。それに対して八塚が少し立腹したが、男は気にすることなく話を続けた。

「でね、ボロいアパートをアトリエとして借りて作業してるんだが。つい先日、真上に若い夫婦が越してきてね」

 言いながら、男の顔がみるみる強張っていった。話によると、彼が安眠できない原因は、その若い夫婦にあるという。

 上に越してきた夫婦は、ご丁寧に菓子折りを持って「ご迷惑をおかけすると思いますが」と引っ越しの挨拶にやってきたそうだ。そのときは「今どきしっかりとした若者だなあ」と感心しながら、菓子折りを受け取ったという。それが思い違いであったと男が気づいたのは、それから間もなくのことだった。

「アパートはすごく利便がいい立地に立っていてね。それだのにボロだから家賃が安いってんで、おかげで夢追い人ばかりが住んでいるよ。音大を卒業して歌手を目指してるだかっていう姉ちゃんと俳優の兄ちゃんのカップルとか、普段サラリーマンしながら休みの日になると大きな公園でパフォーマンスしてるっていうパントマイマーのおっちゃんとか。上に越してきた夫婦が何してるってのは聞いたことはないが、どうやら小劇団の団員さんらしい」

「あら、劇団の団員さんなら規律とかもあるでしょうから、しっかりとなさっていそうですのに」

「そう思うだろう? それがなあ……」

 店主が不思議そうに目を瞬かせると、男は大きくため息をついた。

 男はアパートに住んでいるわけではなく、あくまで作業の間だけそこで寝泊まりしているのだそうだ。今でこそ有名になって大きな家に住むことができるようになった彼にももちろん無名の下積み時代というものがあり、その初心を忘れるべからずということで、金のない学生時代に住居兼作業場としていたこの部屋をそのままアトリエとして借り続けているのだとか。そして彼は、真上に若い夫婦がちょうど越してきたあたりから作品制作のためにアトリエに泊まり込んでいた。しかし――

「真上がうるさすぎて、作業どころじゃねえんだわ! 部屋ん中で大道具作ってるみたいで、真夜中だってのに、金槌でも床に落としてるんじゃねえかっていう感じの音がドッゴンドッゴン聞こえてくるし! 朝方になってようやく静かになったかと思えば、今度はドリルの音がドルッドルいうわけよ! ただ音がうるさいだけならまだ耐えられるが、何ていうか、空気もうるさい(・・・・)んだ。音の凄まじさが、空間をも揺るがすんだよ。そんな状態が、昼夜問わず!」

 これが音楽ならまだ許せるし耐えられるのだが、耳障りなただの騒音なのだからたまったものではない。それに、件の夫婦は挨拶の際に「ご迷惑をおかけするかも」と断わりを入れてきたが、だからといって夜中や早朝に騒音を立てていいということにはならない。しかも、管理会社を通じてたびたび注意をしてもらいはしたものの、収まる気配は一向にないそうだ。

 この騒音については、他の住人からも苦情が出ているそうだ。特に音楽関係に携わっている住人は賃貸契約時に取り決められてた演奏可能時間をしっかりと守っていることもあり、「うちは決められた時間以降は、ちゃんと音を出さないようにしているのに」と不満をあらわにしているという。

「バンドマンや音大出のお姉ちゃんも、この件に関して腹立ててたね。しかもお姉ちゃんなんか、最近ちょいと体を壊して寝込んでるみたいでさ。死んだ魚のような目をして『早く練習できる体に戻したいのに、これじゃあ治るもんも治らない』ってぼやいてたよ」

「それは早く管理会社さんに解決していただきたいところですねえ……。でも、お客様はそのアパートとは別のところにご自宅がおありなんでしょう?」

「それなら、問題が解決するまで自宅で作業すればいいじゃないさ。ねえ?」

 首を傾げる店主と八塚に、男は難色を示した。彼は〈作品制作中は一人で集中したいタチ〉だそうで、そのため一度制作に取り掛かるとアトリエにこもりっきりとなり寝食もそこで一人きりで行うのだとか。

「なのに、そのアトリエが集中もクソもねえ環境になっちまって。仮眠もとれねえから、悪循環極まりないし。おかげで思うような作品作りができねえし。めしを差し入れに来てくれたカミさんにはきつくあたっちまうし。そんなだから、家に帰ってカミさんと顔を合わせるってのもしづらいし。でも刻一刻と、個展のための新作の完成期限は近づいてくるし。これじゃあ埒が明かねえと思って、満月が綺麗だったのもあって、気分転換にアテもなく電車に乗って適当に降りて、フラフラと行き当たりばったりで歩いてたら、ちょうどこの喫茶店にたどり着いたってわけさ。……雰囲気も落ち着いているし、何故だか清廉とした空気が漂ってる気がするし、飾られているアンティークも素晴らしいし。この気持ちのいい空間で寝落ちできたら、心身ともにスッキリすると思うんだ。だから、無理を承知で頼む。少しだけでいいから、ここで寝かせてくれねえかな」

 情けない表情で力なく懇願してくる男に、店主はにこりと微笑んだ。そして、ポンと軽く手を打ち鳴らした。

「では、とっておきのお茶をお入れしましょう。きっと、ただ眠るだけよりも効果的に安らげると思いますよ」

 お茶? と男が声を上げるよりも早く、店主は踵を返してカウンターへと戻っていった。


 店主がお茶の用意をしている最中、男と八塚は何か話しているようだった。八塚に苦手意識を持っているのか、男は最初、八塚に対して引き気味だった。しかしお茶を持って店主が戻ってくるころには、二人はすっかり打ち解けていた。

「ねえ、マスター。聞いてよ。このお客さん、あたしに冷たい態度とってたの、雰囲気がお母さんに似てたからだってさ!」

「ちょっ、言うなよ! 八塚ちゃん!」

「お母さんもあたしみたいに勝ち気だそうでね、事あるごとに叱られてた田舎っぺ時代を思い出すから萎縮しちゃってたんだってさ! 天下の富岡康司(やすじ)画伯とあろうものがさあ!」

「もう、勘弁してったら。八塚ちゃん!」

「えっ、お母さん? 八塚ちゃん? 画伯? どういうことですか? ていうか、打ち解ける速度、光のごとしですね……」

 店主は半ば呆れながら、男――富岡の眼前にティーカップを置くとうやうやしくお茶を注いだ。ポットから絹のリボンのように流れ落ちるお茶の色はうっすらとした黄色で、湯気と一緒にりんごのような甘酸っぱい香りがほんのりと立ち上った。その香りをスウと吸い込んだ瞬間、富岡はほんの少しだけ寛いだ表情を見せた。

「落ち着く香りだなあ……。お姉さん、これは何ティーだい?」

「これはですね、セントジョーンズワートです」

「ああ、聞いたことがあるな。たしか、留学中に住んでたアパルトマンの隣の部屋のやつが作品制作に行き詰まって気を病んで、薬としてこれを処方されてたような……」

 富岡は苦い表情を浮かべながら、カップの中でゆらゆらと動く黄色の温かな水面に視線を落とした。店主は、お茶菓子を勧めながら苦笑した。

「ごく普通に、リラックスしたいときにも飲まれるお茶ですから。それに、うちのお茶は特別製(・・・)です。是非お試しくださいな」

 はあ、という不承不承と言いたげな生返事をしながら、富岡はカップに手をかけた。優しさのある甘やかな香りが鼻をくすぐり、それだけでじんわりと胸の内が温かくなるようだった。心なしかほっこりとして目尻を下げた富岡は、ようやくカップを口につけた。そしてとうとう、安らぎの笑顔を見せた。

「カモミールみたいな味がするんだなあ。それよか、少し控えめな味だがさ。心がほぐされていくようだよ」

「お口に合うようで、よかったです」

「あー……こりゃあたしかに、とても安らげるわ。いい夢も見られそうだな……」

 嬉しそうに笑う店主にそう返すと、富岡はひとくち、またひとくちとお茶を口に運んだ。そして、ゆらゆらと昇っていく湯気をぼんやりと眺めながら、ホウと深く息をついた。次第に、彼の目はとろんとまどろんでいった。

 もうじきカップの中が空になるというあたりで、彼はポットからお茶を注いだ。まだほのかに湯気が立つそれをうとうとと眺めていると、彼はその湯気がふわふわと広がっていって自分の周りを満たしたような錯覚に囚われた。湯気の向こうから細くしなやかな腕が伸びいでて、まるで優しく抱擁を求めるように広がり――

「うへへへへへへへ……。よしのさぁん……」

 そう呟きながらだらしなく笑う富岡に、店主も八塚も眉をひそめた。

「よしのさんって、奥様ですよね? 大丈夫ですよね?」

「もしも奥さんじゃなかったら、今度、はっ倒しとくわ」

「ていうか、言ってはアレですが、この小汚くてうだつが上がらなそうで、だらしないのが、天下の画伯? そもそも、画伯って?」

「マスター、意外と辛辣だね……。――この人さ、最近名が知れるようになってきた画家さんでさ。今度うちの近くの美術館で個展が開かれるんだよ。それであたしも名前だけ知っていたんだけど……。まさか月影で出会うたあねえ……」

「そうなんですか……。まあ、いい夢見て安らいでくれていらっしゃるみたいですし、いいんじゃないですかね……」

 不思議なお茶の湯気に魅せられて今なおだらしなくデレデレとしている〈天下の画伯様〉に、店主と八塚は呆れ返って嘆息した。


 後日、かっちりとしたスーツに身を包み、髪も小綺麗に整えた富岡が店にやってきた。その見違えたさまに、店主は目を丸くして驚いた。

 彼は小脇に抱えていた包みを店主に渡しながら、恥ずかしそうに笑った。

「いやあ、その節はご迷惑をおかけした。でも、おかげでカミさんにも謝ることができたし」

「よしのさんですか?」

「お姉さん、うちのカミさんと知り合いだったの!?」

 出し抜けに店主からなされた質問に、富岡は驚嘆した。店主は苦笑いを浮かべて返答をごまかしつつ、いつぞやのもやもやが綺麗に晴れてくれたことに胸をなでおろした。

 富岡は気を取り直すと、再び話しだした。

「管理会社がきちんと動いてくれて、あのあと結局、真上の夫婦は引っ越していったよ。ここで飲んだお茶のおかげもあって相当気分もスッキリできたし、おかげさまで個展も無事に終えることができた。お詫びになるかは分からねえが、作品をひとつ差し上げようかと思って。店のアンティークたちには劣るかもしれないが、よかったら飾ってやってくれないかな」

「そんな、お気になさらないでよかったのに。……それにしても、見違えました。今日はちゃんと、画伯に見えますね!」

「お姉さん、辛辣だなあ……。――今日は先の個展に出してた作品を引き取りに行った帰りなんだが、俺だってさすがに、美術館にあんな格好はしていかれないよ。スーツ(これ)はいわゆる営業用ってやつさ」

 おどけるように肩をすくめる富岡に、店主はクスクスと笑い返した。そして包みを開けてみてもいいかと尋ねて了承がとれると、さっそく中身を取り出した。――中から出てきたのは、少し小さめのキャンバスだった。それも、ちょうど店の壁に飾るのにいいサイズだ。

 描かれていたのは蓮の花だった。力強い筆使いが生命力を感じさせ、鮮やかかつ多様性に富む色使いが神秘性を匂わせていた。思わず、店主はしんみりと肩の力を抜いた。

「ああ、もしかして、俺の絵は趣味ではなかったかな……」

 富岡は申し訳なさそうに頭を欠いた。店主は慌ててそれを否定すると、優しく微笑んで言った。

「何だか、懐かしいなと思ったんです。知っておいでですか? この喫茶店のある場所には昔、蓮の花が美しい沼があったんですよ。その風景に、似ているなと思いまして。――ていうか、この絵、個展で公開なさってはいませんでしたよね?」

「個展、行ってくれたの!? 何だよ、あのとき言ってくれたら、招待状出したのに! そういやあ、八塚ちゃんも来てくれたんだよ。ちょうど、うちの母ちゃんが田舎から出てきてくれてたんだけど、めちゃめちゃ意気投合してさあ。ふたりして『美術館ではお静かに』って注意されてたよ。――ちなみにこの絵は、この店をあとにしてから、インスピレーションがバンバン湧いてさ。個展用の新作とは別に描いたやつなんだ」

 気に入ってくれたようで良かった、と笑いながら、富岡はレジスターの音に見送られるように店を後にした。


 なお余談だが、一部のネットユーザーの間で「富岡康司の個展に行ったら宝くじが当たった」だの「長年不妊に悩まされていたのに、妊娠することができた」だの「あの個展には神がおわした」だのという、とても怪しい噂が飛び交ったという。

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