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喫茶月影の幸せひと皿  作者: 内間飛来
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第9話 ほっこり落ち着くお茶セット

 チリンという音がして、店主は作業の手を止め顔を上げた。すると扉が押し開けられ、若い男性が店に入ってきた。男性に向かって笑顔を向けた店主は、思わず「いらっしゃいませ」の言葉を途中で飲み込んだ。

 男性は固まったまま動かなくなってしまった店主を見て苦笑いを浮かべた。店主はみるみる瞳を潤ませて頬を上気させると、両手で口元を覆い隠して驚嘆した。

「佐々倉輝臣さんが、どうしてここに!?」

 乙女の顔で感動に打ち震える店主に、男性――輝臣は愛想よく笑うとペコリと小さく頭を下げた。すると、珍しく騒がしい店主を怪訝に思った常連たちがカウンター付近に集まってきた。そのうちの一人の壮年の女性――八塚は「あっ」と声を上げると、輝臣を手のひらで指し示した。

「応援戦士ガンバレンのガンバレッド?」

「頑張る君を阻む悪を、天に代わって成敗す! 輝く君の応援隊長、ガンバ~レ~ッドッ!!」

 輝臣は嫌がる素振りを見せず、むしろノリノリで大見得を切り名乗りを上げた。常連たちが感心したようにやんややんやとざわめきながら拍手を送る中、八塚がぽかんとした顔で首をひねった。

「やっぱり、ガンバレッドで合ってたんだねえ。でも、あれ? ガンバレッドはたしか、赤星一矢っていう名前じゃあなかったかい?」

「はい、そうです。赤星一矢です。ガンバレッド・赤星一矢役の佐々倉輝臣です。佐々倉のほうが僕の本名なんです」

「えっ、本名なんですか? てっきり芸名だと思ってました。素敵な本名ですねえ!」

 照れくさそうに頭をかく輝臣に、店主がキャアキャアと黄色い声を上げた。

 ぞろぞろと席へと帰っていく常連たちのあとを歩きながら、輝臣は「相席でもいいですか?」と尋ねられ八塚の座っていた席へと案内された。

「ご相席ありがとうございます。今日は珍しく、随分と混んでいまして」

「いえ、大丈夫です。それにしても、まさか僕のことを知っていてくださるとは思いませんでしたよ」

「今をときめく朝ドラ俳優さんですもの、よおく存じておりますよ! 涙なしには見ることができなくて、いつもハンカチが手放せないんです!」

 店主の力のこもった熱弁に、輝臣は嬉しそうにへにゃりと頬を緩めた。八塚はニッカと快活に笑うと、飲みかけの紅茶に手をかけながら言った。

「あたしはドラマはあまり詳しくはないんだけれど、去年かな? あたしんところに来る親子連れのお子さんが、よくガンバレンの人形を持っているのを見たものだから」

「てことは、お仕事、保育士か何かなんですか?」

「うーん、まあ、似たような感じ? ――本物のほうが、顔立ちがよくて素敵だねえ」

「あっは、本当に嬉しいなあ。ありがとうございます」

 輝臣は始終ニコニコとしていた。店主にはそれが、何の不満もなさそうな、満ち足りた笑顔であるように見えた。実際、輝臣からは幸せそうな雰囲気がここそこからにじみ出ていた。だが、不思議と何かが物足りないような気もした。

 店主は不思議そうに首をひねると、輝臣に尋ねた。

「ご来店の理由、差し支えなければお伺いしてもよろしいでしょうか? 店主自らこう言うのもなんなんですけれど、このお店、ワケありのお客様ばかりいらっしゃるんです。輝臣さんは、全然そういう感じには見えないのですが……」

「あー……ですよね。ネットの書き込み、結構切羽詰った感じのが多かったですもんね。僕も別に、そこまでワケありってわけではないし」

 出されたグラスに口をつけていた輝臣は、水を飲まずにグラスをテーブルに戻した。そして苦笑いを浮かべると、「あの、プライベートだし、もうちょいフランクにしゃべってもいい?」と言って頬をかいた。もともと親しみやすい雰囲気がお茶の間でウケていた輝臣だが、どうやら本来はもっとくだけた人柄らしい。

 もちろん、と店主が頷くと、輝臣は礼を述べ、仕切り直しというかのようにニコッと笑みを浮かべた。

「ここには、ネットの書き込みを見て来たんだよ。〈神レベルにヤバい絶品スイーツが食える〉って見たもんで。超絶幸せになれるって言われたらさ、ぜってー食いてえじゃん、そんなの。だって、俺、もっと幸せになりてえもん」

 店主が予想していたよりも、輝臣はフランクだった。フランクというよりも、チャラいと言ったほうがしっくりときた。

 そのギャップに驚きながらも、店主は「もっと幸せに」という言葉に違和感を覚えた。それについて尋ねると、輝臣は困ったというかのように心なしか眉根を寄せた。

「もちろん、今もすげえ幸せなんだけどさ。何つったらいいの? ほんの少しだけ、心のすみっこに隙間があるみたいな? ふとした瞬間に、何でか気が落ち込んでしょんぼりしてくるんだよ。――で、気がついたら『幸せになる方法』をネット検索してた」

「無意識にそんな検索をするだなんて、実は結構重症なんじゃあないのかい……」

 ケラケラと笑いながら話す輝臣に、八塚は半ば呆れながらも心配した。店主も「まさか、そんな。信じられない」という感じで口をあんぐりと開けていた。輝臣はにこやかに笑いながら「そうかなあ?」と首をひねると、温かみのある笑みをたたえ落ち着いた調子で言った。

「俺ね、人を喜ばせるのが大好きなの」


 輝臣の周りには常に人が集っていた。みんなの笑顔を見ると自分も心の中がほっこりと温かくなることに気がついた輝臣は、自らムードメーカーを買って出ていた。いつも考えていたことは「どうしたらみんなが笑顔になってくれるか。心から喜んでくれるか」だったし、そのために周りにいる人たちのことをよく観察もしていた。なので、輝臣は誰からも〈明るく楽しくて、気が利くいい子〉と思われていたし、輝臣自身もそのように思っていた。

 輝臣に転機が訪れたのは、高校生のころだった。たくさんの友達とカラオケやファミリーレストランに行ったりして〈みんなの盛り上げ役〉として楽しい毎日を送っていたある日、女友達のひとりがある雑誌を持ってやってきた。彼女が見せてきたそのページには〈モデル募集〉と書いてあった。

「ねえねえ、これ、輝臣くん受けなよ! 輝臣くん、めっちゃカッコいいし、絶対受かるよ!」

「えー、そうかなあ? でも、もしゲイノージンになんてなったら、今みたいにみんなと楽しく過ごせないじゃん。それじゃあみんな悲しむっしょ」

「でもさあ、今よりももっとたくさんの人が輝臣くんを見て喜ぶと思うよ! キラキラとした輝臣くんを見るの、あたしも嬉しいし。てか、実はもう応募したんだよね。これ、他薦もオッケーだったからさ」

 驚きはしたものの、輝臣が女友達に怒りを覚えることはなかった。むしろ、過剰なほど高く評価してもらえているんだと感じて、ありがたいやら申し訳ないやらだった。「自分のような明るいだけが取り柄のおちゃらけ男が、国民的男性モデルのコンテストなんて受かろうはずもない」と思っていたので、まさか二次審査に進んだという通知が届いたときには夢でも見ているのかと思ったという。

 あれよあれよという間に審査を通過し、輝臣はコンテストで受賞した。腰が抜けるほど驚いたが、人を喜ばせる才能があると評価されての受賞だったのが輝臣には嬉しくてたまらなかった。また、これからはもっと、今まで以上にたくさんの笑顔が見られると思うと俄然やる気が沸いた。

 いくつかモデルの仕事をこなしたあと、輝臣は俳優のオーディションの話をいただいた。さらにもっと多くの人の笑顔に触れることができると思うと、ワクワクして仕方がなかった。

「僕のモットーは、人を笑顔にすることです。そんな僕以外に応援戦士が務まるとは思えません。全力で、みんなの笑顔を守ります! 守らせてください!」

 希望と自信の光に溢れる瞳で力強くそう語る輝臣は、見事レッドのポジションを獲得した。


「イベントとか行くとさ、お子様がめっちゃキラキラした目でこっちを見ながら一生懸命手を振ってくれんの。お母さんがたも超笑顔でさ。それがすげえ嬉しくて、幸せだなって思う瞬間でもあったの。ガンバレンが終わって、朝ドラ出演の話をもらって、CMなんかもバンバン声かけてもらえてさ。順風満帆ってのはこういうのを言うんだろうなって思ったよ。もちろん両親や友達は喜んでくれたし、ばあちゃんなんかは『いつも見てる朝のドラマにテルちゃんが出るだなんて』って驚いてくれてさ。――だけど、なんつーか、燃え尽き症候群っていうの? それに似た感じで。まだ駆け出したばっかだっつーのに、何となくガス欠になっちゃって。俺、今、すっげえ幸せなはずなのにさ。何かが足りてないんだよね。これって(はた)からしたら贅沢な悩みかもしんねーけどさ、その〈足りない何か〉が実は一番大切なものな気がして」

「贅沢ってことはないですよ。本当にその通りだからこそ、そう思うんでしょうから。きっとその〈足りない何か〉が輝臣さんにとって一番大切なものなんでしょう」

 そのように店主が返すと、輝臣は嬉しそうに笑った。仲のいい友人の何人かに相談をしたら口を揃えて「贅沢だ」としか言われなかったそうで、理解を示してくれたのは店主が初めてなのだという。

 八塚は片手をあごに添えて腕を組むと、考え込むようにうーんと唸った。

「それさあ、あんたさあ、キャパオーバーってやつなんじゃあないかい? 走る速度を間違えたんだよ。それか、手広くやりすぎて疲れちまったとかさ」

「あー……そうなのかなあ? 俺、自分で思ってたよりも頑張りすぎてたのかなあ? じゃあ、ちょっとでも落ち着いたら、〈足りない何か〉が見えてきたりするかなあ?」

 輝臣も、思案顔を浮かべて腕を組んで唸った。店主はひらめいたとばかりにポンと手を打つと、輝臣に向かってニッコリと微笑んだ。

「じゃあ、試しにほっこり落ち着いてみましょうか。――お客様、少々お待ちくださいませね」

 そう言って優雅にお辞儀をすると、店主はひょこひょことカウンターへと去っていった。

 戻ってきた店主が運んできたものを目にして、輝臣は目をパチクリとさせた。

「わぁお、すげえな。神レベルって、こういう……? 激渋いんですけど。お茶に羊羹とか、マジで神レベルの渋さだわ。ていうか、純喫茶でこういうのが出てくるとは思わなかった」

「お年を召したお客様ですと、こういうものを好まれる方もいらっしゃいますからね。なので、意外とこういうメニューも取り揃えているんですよ」

 へえ、と相づちを打ちながら、輝臣は黒文字――木でできた和菓子用のふた(また)フォーク――を手にとった。そして「いただきます」と言いながら丁寧にひと口分を切り分けると、美しい手つきで羊羹を口に運んだ。作り手に敬意を払っているかのような、見ているこちらが笑顔になれるような所作だった。

 輝臣は顔をくしゃくしゃにすると、満足げに何度も頷いた。

「うん、マジ神! うっま! 超うまい!」

「よかった、お気に召したようで何よりです。最近ではあんこが苦手な若い方が増えていると聞いたことがあったので、少し心配だったんです」

 店主が苦笑いを浮かべると、輝臣は興奮気味に頬を上気させた。

「俺ね、あんこ大好物なの。夏にばあちゃんちに遊びに行くとさ、お彼岸用にっておはぎを大量に作っててさ。それが超絶うまいんだ! 半殺しのやつだから、小豆の皮が歯に挟まるのが難点なんだけど。――この羊羹は逆に、すっごく丁寧に()されてて口当たりが超いいな。甘さも控えめだし、めっちゃ食いやすい!」

 店主が嬉しそうに微笑むと、八塚も釣られて目を細めた。幸せそうに黒文字を握りしめる輝臣を眺めながら両手を組んで頬杖をつくと、八塚は輝臣に笑顔で言った

「お茶もすごく美味しいよ。飲んでごらん」

 促されるまま、輝臣は湯呑を手に取りひと口飲んだ。ホウと息をついて全身からだるんと力を抜くと、うっとりとした表情でポツリと呟いた。

「あ、何これ、すっげえ癒やされる……。梅昆布茶か、久々に飲んだわ……。出汁のような風味が鼻から抜けるたびに、心がほっこり楽になっていくっていうか。梅の酸味も、じんわりくるな……」

「もちろん羊羹もですけれど、その梅昆布茶は特製なんですよ。まず、使われている梅は仙人がひとつひとつ丁寧に育てたもので――」

「仙人って言ったら、普通は桃じゃね?」

 きょとんとした顔を浮かべてそう言う輝臣に、店主はさらなる説明をしようとした。しかしすぐさま輝臣は「でも、そっか」と言って店主の言葉を遮った。そしてお茶に視線を落とすと、にこにこと笑顔を浮かべた。

「桃だけじゃなくて梅や桜も植えたらさ、花の咲く時期が若干ズレてるから、春の間中ずっと花見が楽しめるもんな。そう考えたら、梅だって植わっててもおかしくねえよな。――あれ? そもそも桃源郷って、季節あったっけ?」

「輝臣さんは、少しも疑わないんですねえ。材料のお話をすると、大抵の人が訝しがるんですよ」

 店主はそう言うと遠慮がちに笑った。輝臣は不思議そうに首を傾げると、目をしばたかせながら口を開いた。

「何で? マスターさんがそう言うなら、本当にそうなんだろ? 俺がそう思うなら、本当にその通りなのと同じようにさ。それに、ここは〈幸せになれるって噂の、不思議な喫茶店〉なんだし。そう考えたら、何でもあり得るだろ」

 やはり、輝臣は素直で素敵な青年だった。輝臣の気持ちの良さに、店主も八塚も改めてほっこりとした気分になった。

 輝臣は嬉しそうに羊羹を食べ、梅昆布茶を飲んだ。お茶を飲むたびに至福の息を漏らしていた輝臣は、ふと湯呑をテーブルに置くと天井を仰いだ。

「あー……ばあちゃんに会いてえなあ……。梅昆布茶もさあ、よくばあちゃんちで飲んだんだよ。縁側で、休憩のために農作業から帰ってきたばあちゃんとボーッと空を眺めながらさ」

「大丈夫かい? ハンカチ、いるかい?」

 優しく声をかけた八塚に、輝臣は震える声で「大丈夫」と答えた。いつの間にか、輝臣ははらはらと涙をこぼしていたのだ。

「あっれ、おかしいな……。何だこれ、とまらねえ……」

 輝臣はズッと鼻を鳴らすと、そのまま静かに泣き続けた。


 久しぶりにゆっくりと時間が流れているのを感じることができた気がする。――そう言って感謝しながら、輝臣は帰っていった。それから半年後、輝臣が朝のドラマのクランクアップを迎えたという情報とともに、しばらく芸能活動を休業するというニュースが世間を賑わせた。休業の理由は「忙しく走り回っていたので、家族や友達と過ごす時間を持ちたい」ということだった。そこからさらに半年後、輝臣は芸能界引退を表明した。偶然テレビでその報道を目にした店主は、驚きのあまり思わずお茶を吹いた。

 輝臣が芸能界を引退して一年経った、ある日。チリンという扉の開く音がして顔を上げた店主が目にしたのは、小麦色に肌が焼けた輝臣の姿だった。輝臣は二年前よりも少しだけガタイがよくなっていて、とても元気そうだった。

「マスターさん、久しぶり! これ、どこかに置きたいんだけど大丈夫?」

 輝臣は大きな段ボールを掲げるように少しだけ持ち上げた。店主はカウンターの上に新聞紙を敷くと、そこに置くよう促した。

 店の奥のほうであんみつを食べていた八塚は輝臣に気がつくと、ニコニコと笑顔を浮かべて席を立った。

「あら、久しぶりだねえ。少し見ないうちに、すっかり逞しくなっちゃって」

「ね、びっくりしましたよ。引退表明なさったときも、お茶を吹くくらい驚きました。だって、人を笑顔にするのが大好きな自分にとって、芸能界は天職だくらいのことを仰っていたのに……」

「ははは、たしかに。でも、これが全然後悔していないんだなあ」

 輝臣は胸を張ると、照れくさそうに鼻の頭を人差し指でかいた。そして、おもむろに段ボールを開けた。中に入っていたのは、たくさんの野菜と保存容器だった。

「これね、ばあちゃんちの畑を手伝って俺が作ったの。こっちの容器には、ばあちゃん手作りの味噌が入ってるんだ。味噌汁にしても美味いけど、そのままきゅうりにつけて食べても美味いよ」

「あら、ちょうどきゅうりも入っているね」

「じゃあ、さっそくいただいてみましょうか」

 店主は箱からきゅうりを二本取り出すと、ふたりに背を向けた。軽く洗ってヘタを切り落とし、くるくるとこすり合わせたあとに塩を振ったまな板の上でゴロゴロと転がす。すると爽やかな香りが漂って、店主の顔から思わず笑みがこぼれ出た。

 再び水でさっと洗い流したきゅうりを持って店主が戻ってくると、八塚が保存容器の蓋を開けて待っていた。店主は八塚にきゅうりを渡して容器を受け取ると、器に味噌を少しだけ盛った。ふたりはきゅうりと味噌を手にすると、いただきますの挨拶をして、まずはそのままのきゅうりにかぶりついた。

「うーん、シャッキシャキ! どれ、味噌のお味は……? ――うん、すごくいいねえ! いくらでも食べ進められるよ。美味しいねえ!」

 目じりを下げて喜ぶ八塚に同意するように、店主ももくもくと食べながら何度も頷いた。輝臣はふたりの笑顔を見てガッツポーズをすると、嬉しそうに口を開いた。

「俺ね、この店のおかげで何が足りてないかに気づけたんだ。――あのね、俺に足りなかったのはね、ゆったりとした時間だったの。あのとき、保育士さんが『走る速度を間違えたんだろ』って教えてくれたじゃん? まさにその通りだったんだ」

 喫茶月影で久々にゆったりとした時間を過ごしたあと、輝臣は「人の笑顔を見て嬉しいと思う自分の気持ちが、昔よりも心の深い部分から湧き上がってきていない」ということに気がついたそうだ。気持ちに余裕ができたからこそ、それに気づくことができたという。

 どうしてなのかと考えてみたところ、あまりにも忙しく、そしてあまりにも人の笑顔と出会い続けることで、相手の喜びが自分の心の浅い部分までにしか刺さってこられなくなっているのではないかと思い至ったそうだ。たくさんの喜びが得られるのは素晴らしいことではあるが、その都度その全てを深く受け止めてしまっては、それはそれで受け止めきれなくなり疲れてしまう。連続して幾度も幸せな気持ちが押し寄せるのは幸福なことだが、必ずしもよいことではないということだ。だから、心が防御本能を働かせて、そのようになってしまったのだろう。

 せっかく人と触れ合い、その笑顔に喜びを見出したいのに、幸せを噛みしめる余裕がないのであれば意味がない。――そう思った輝臣は、一度立ち止まってみることにした。そして家族や友達とゆったりとした時間を過ごし、祖母の家に遊びに行って農作業を手伝っているうちに、再び「人の笑顔を見るのは嬉しい」と心から思えるようになった。しかし、芸能人としてもう一度頑張ろうとは思えなかった。自分には忙しく飛び回って数多の人々を笑顔にするよりも、じっくりと向き合って目の前の誰かを笑顔にするほうが性に合っていると感じたからだ。つまり、八塚の言った通り、手広くやりすぎたのである。

「農家も目まぐるしいほど忙しいけどさ、でも、野菜と向き合っているときはゆっくりとした時間が流れている気がするよ。モデルや俳優と比べたら。それに、家族や友達と過ごす時間も作ることができるしさ。――ゆっくりゆったりとした時間があって初めて、心に余裕があって初めて、相手と一緒に俺も心から幸せだと笑えるんだって気づいたから。だから、芸能界はやめたんだ」

「でもさ、目の前の誰かを笑顔にするほうが性に合ってると言うけれどさ、あんたはあんたが思っている以上に、たくさんの人を笑顔にしているよ」

 きゅうりを食べ終えて至福の息を漏らした八塚は、ニッカと笑ってそう言った。輝臣が不思議そうに首を傾げると、店主が頷いて笑った。

「そうですね。農家さんだって芸能人に負けないくらい、数え切れないほど多くの人を笑顔にできますよ。だって、こんなに美味しいお野菜をいただいたら、誰だって幸せな気持ちになっちゃいますもの」

「だな! そうだな!」

 輝臣は弾けるように笑った。今度こそ、何かが足りないということはない、満ち足りた笑顔だった。

 レジスターがチンと音を立てた直後、店の扉が開いて男の子がひとり入ってきた。

「えっ、うそ、ガンバレッド!?」

 男の子は目を丸くして輝臣を見つめた。輝臣は快くそれに応じ、大見得を切り名乗りを上げた。

「うわ、本物だ! 本物のガンバレッドだ!」

「ははっ、坊主、こんな時間にどうしたんだ? 塾帰りか? 輝く君の未来は、この俺が守ってやるぜ! だから安心して、勉学に励め。そして、たくさん野菜を食うんだぞ」

 輝臣は男の子の頭をグリグリと撫でた。男の子が大きく頷くと、輝臣も満足げに頷き返した。

 店主と八塚に感謝すると、輝臣は颯爽と店をあとにした。――輝臣は、今も昔と変わらず、誰かにとってのヒーローだった。

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