第一章 敷常智花5
「お嬢さまぁ、ただいまですぅ♪ ……って、あれぇ。もしかしてぇお客さまですかぁ?」
ナースクレアに付き添われ、医師の格好をした長二郎とともに保子莉宅の居間に戻ってみると……なぜか、招いた覚えのない身内がいた。
「なんで智花がここにいるのさ?」と眉根を寄せて訊ねれば……
「ちょーじろーと一緒に来たんだよ」
その会話に、幼女は二人の関係を察し、智花と向き合うように正座した。
「智花ちゃん、初めましてですぅ。私、呉羽クレアと申しましてぇ、お兄さまのぉ……」
と挨拶をしようとした瞬間、智花が幼女の小さな両手をガシッと掴んだ。
「クレアちゃん! 年上の人に向かって『ちゃん』付けじゃなくって、ちゃんと『お姉さん』って付けなきゃダメじゃない」
予期しなかった突然の礼儀作法。五歳年下の智花から、いきなり躾られれば狼狽えるのも無理はない。クレアは叱る智花を前にしながら、実年齢を知る三人に同意を求める。
「私のほうがぁお姉さんなのにぃ、なんでぇこうなるんですかぁ?」
どこからどう見ても幼稚園児にしか見えないクレアでは擁護のしようもなく、保子莉に至っては笑いを懸命に堪えていた。
「いやぁ、良かったのぉクレア。ついでじゃから、智花お姉ちゃんに遊んでもらったらどうじゃ。と、言うことで智花よ。すまぬが、わらわたちはおぬしの兄と大事な話をせねばならぬのでな、クレアを連れて席を外してもらいたいのじゃが。お願いできるかのぉ?」
その年下決定発言に、クレアの口元がわなないた。対照的に智花は疎外されて不満を覚えていたようだが、幼女の手前もあって素直に子守を請け負うことを了承する。
「保子莉お姉さまたちは大事な話があるみたいだから、クレアちゃんはアタシと一緒に遊びましょ」
年上オーラを撒き散らしながら幼女の手を取る智花に、クレアは釈明するタイミングを失ったまま玄関に連れていかれる。
「なにして遊ぶ? かくれんぼ? それとも鬼ごっこ?」
母性本能を発揮して仕切る智花に、幼女は「あうあう」と涙目で訴えるだけだった。
「それじゃあ、ちょっとクレアちゃんと遊んできます」
「頼んだぞ、智花。くれぐれも車には気をつけてのぉ」
居間から顔だけ出す高校生三人に見送られ、幼女は強制的に中学一年生に誘拐されていった。
「どれ、智花もいなくなったことだし、本題に入るとするかのぉ」
保子莉は座り直すと、ちゃぶ台の対面に腰掛けるトオルをしみじみと眺め見た。
「ふむ。見たところ特別、これといって変わったところはなさそうじゃのぉ。それで、どうじゃ。新しい体は? 元はと言えばおぬしの細胞から作り出した蘇生体じゃから、何の問題もないとは思うのじゃが」
トオルの容姿を吟味して納得の表情を見せる保子莉。確かに見た目には何の問題もないだろう。だが一生付き合う体のことだけに、トオルも黙っているわけにはいかなかった。
「それがさぁ、そうでもないんだよ」
「何じゃ? 何か問題でもあるのか? いかせん大事な体じゃ、些細なことでも遠慮なく申せ。そのために高い保険料を払っておるのじゃから、ちゃんと治してもらわんことには損じゃ」
「えーと、肌がチクチクするのはクレアにも言ったんだけどさぁ……それよりもこの体、なんか以前のように動けないんだよ。なんていうのかなぁ……重い感じというか……」
すると長二郎が笑った。
「診療台から派手に転げ落ちてたしな」
「トオルよ、それは本当なのか?」
保子莉は腑に落ちない表情をして首を傾げた。
「おかしいのぉ。バイオ・リリース社からの報告書によると、地球環境の成長過程に合わせて生成したとなっておったし、神経組織や免疫機能はもとより筋組織まで、ほぼオリジナル体じゃと記されておったのじゃがのぉ」
こればかりは本人の感覚の問題だけに、他人には分からないのだろう。トオルが泣き寝入り覚悟で諦め顔をしていると、沈思していた保子莉が言う。
「トオルよ、ちょっとその場に立って、跳ねてみよ」
突然の指示にトオルは眉根を寄せた。
「小銭をポケットに入れる習慣はないんだけど」
「何でおぬしに対してカツアゲなどせにゃならんのじゃ! 体の調子を見るだけなのじゃから、さっさと言われたとおりにせぬか」
トオルは言われるがままに立ち上がると、軽く屈伸してジャンプして見せた。
「ん?」と、揃って訝しげな顔をする保子莉と長二郎。
「どうやら言葉が足りんようじゃったな。そのぉ何じゃ……天井に手を付けるつもりで、思いっ切り跳んでみてはくれまいかのぉ」
「ホントに思いっ切り跳んでいいの?」
「あぁ、天井が突き抜けても構わん」
トオルは言われたとおり、力いっぱい天井目掛けて跳ね上がった。こう見えても体力測定の垂直跳びには、それなりに記録は持っている……はずだったのだが、なぜか見上げる天井に手が届かない。
――この家の天井って、こんなに高かったっけ?
まるで自分の身長が縮んでしまったのではないかと勘違いするくらいに天井が遠かったのだ。
「あはは……前の義体だったら余裕で天井をブチ抜いていたのにね」
背中に変な汗が伝うのを感じていると
「トオルぅ。今、15センチくらいしか跳べてないぜぇ」
「いやいや、もっと跳んでるでしょ?」
むしろカッコ良く跳べているはず。と笑い飛ばしたのだが……
「いや、はっきり言わせてもらえば床からほんの少ししか足が離れておらんかったぞ。しかし、そうなるとこれは笑い事では済まされんのぉ」
そう呟き、今度は長二郎と腕相撲をするように命じる保子莉。もちろん結果は体力の勝る長二郎の圧勝だった。
「俺、強ぇから無理ねえよ。って、言いたいんだけどよ……お前、今、本気出してたぁ?」
「出してたさっ!」
力の差があるのは分かっているものの、こうもナメられたのでは笑ってもいられない。すると今度は保子莉がちゃぶ台に右腕を突き立てた。
「トオルよ、モノは試しじゃ。わらわと一戦交えよ」
続く挑戦者にトオルは嘲笑した。
「男の僕が、女の子相手に負けるわけがないじゃないか」
「ブツクサ言っとらんで、早く腕を出さんかっ!」
もの凄い剣幕で煽られて、渋々、ちゃぶ台に肘を置いた。長二郎が両者の組手の位置決めしている最中、トオルは保子莉の細腕を見てほくそ笑んだ。
――ふん。男の僕が負けるわけないじゃないか
「レディ……ッゴー!」
ダンッ!
「いたっ!」
開始と同時に乙女のような悲鳴を上げてしまった。まさか保子莉相手に瞬殺でねじ伏せられるとは思いもしなかった。
「あはは……。い、今のはちょっと油断しちゃったんだ。だからもう一回っ!」
トオルが頬を引きつらせて笑っていると、保子莉が釘を刺した。
「言っておくがフォームチェンジしておらんわらわの身体能力は地球人の女子と何ら変わらんからな」
「そ、そんなことくらい分かってるよ!」
むしろ男並に力があったほうが言い訳ができたのだが。いずれにしても今度こそ絶対に負けるわけにはいかなかった。
二回目の対決。
これで負ければ男が廃る。と、保子莉を倒すことに集中する。彼女に多少の怪我を負わせるかもしれないが、それもやむを得ないことだった。
――獅子は兎を狩るにも全力を尽くすんだ!
もちろんその意気込みを察した保子莉も全力で応戦することとなるのだが……結果、一回目同様、秒殺の敗北だった。狩る側ではなく狩られてしまった不甲斐ない成績に、トオルは恥をかなぐり捨てて再戦を挑んだ。
「……マジ弱ぇなぁ、トオル」
「…………」
四十戦中四十敗。
きっと赤子の手をひねるとはこのことを言うのだろう。しかも思いっ切り叩き付けてくるものだから、手の甲が真っ赤に腫れ上がってしまった。
――くそぉ……
あまりの悔しさに、丸ちゃぶ台を保子莉の方へと押しやった。……が片足でもって軽く押し返されてしまった。
「ちくしょう! 何で保子莉さんに勝てないのさぁ! どうなっちゃったんだよ、僕の体は?」
痛む手を抱え、ちゃぶ台に突っ伏して嘆いていると、流石の保子莉も困惑していた。
「うーん。たぶんじゃが、脳が以前の義体に慣れてしまったんじゃな。特に力加減においては、おぬしが本気のつもりでも、脳からの神経伝達に体の反応がついてこんのじゃろう」
彼女の曖昧な説明に、トオルは眉根を寄せた。
「つまり僕自身のせいだと?」
「おぬしのせいと言うよりも、義体による脳の影響、つまり癖のようなものじゃ。まぁ一週間ほど、その体で過ごしておれば自然と元に戻るんじゃないかのぉ?」
「何、その根拠のない発言は? もしかして治らないの? このまま普通の女の子よりも弱いままで、僕は生きていかなければならないの?」
成長期の絶頂期にありながら、なぜパワーダウンを虐げられねばならないのか。どうせなら、パワーアップと身長が欲しかった。
「再生体の失敗があるのに、そのような注文をするわけがなかろう。言っておくが、わらわは同じ轍を踏むほど愚かではない」
彼女の言うことは間違ってはいない。間違ってないんだけれど……この非力な身体では釈然としないのだ。
「そんな落ち込むなよ、トオル。そうなったらそうなったで、男の娘として生きていけば、いいじゃんか。時代はそんなお前を喜んで受け入れてくれるだろうぜ」
人生はバラ色とばかりに爽やかな笑顔で励ます長二郎に、トオルは目眩を覚えた。
――この僕に女装でもさせたいのか、この男は?
などと親友を睨みつけていると、不意にバルコニーの大窓が乱暴に開かれ、成人女性が行き倒れるように雪崩れ込んできた。
「……た、ただいまですぅ」
抱えた子供用白衣を放り投げて疲憊するクレアに、三人の視線が集まった。
「おかえり……って、なぜそんなにもボロボロにくたびれておるのじゃ?」
「妹さんとぉ鬼ごっこしてたんですけどぉ、怖い顔してぇ、しつこくぅ追いかけてぇくるんでぇ、裏山の頂上からぁ林を駆け降りてぇ振り切ってきましたですぅよぉ」
白のボディーウェアに包まれた大きな胸をポヨンッと揺らし、床の上で大の字になるクレア。ボサボサに乱れた栗色の髪に小枝や葉が絡み付いているところをみると、獣道を転がり下りて来たに違いない。
「もぉ、あの子ったらぁ、私を完全に子供扱いするんですよぉ! いくら聞かせられない事情があるとは言え、あの子の相手をするのはぁもうイヤですぅ!」
「そうボヤくな。所詮、子供のやることじゃ、大目に見てやれば良かろうに」
「中途半端に子供だからぁ、加減を知らなくって困るんじゃないですかぁ!」
クレアは起き上がると本来の幼女体型に戻り、端末を握りしめた。
「もぉ、面倒ですからぁ、出会い頭にあの子の今日の記憶まとめて消しちゃいますですぅ!」
あどけない顔で爆弾発言をする幼女に、流石のトオルも黙認することができなかった。
「お願いだから、記憶を消すのはやめてよ。一里塚さんの一件以来、もう懲り懲りだよ」
ひと月前の失恋で苦い思いをし、未だに癒されることのない傷心。それだけにむやみにやたらに記憶操作を行うことには断固反対であり、ましてや身内ならば、なおのことであった。
「うぅぅぅ。トオルさまがぁそう言うのでしたらぁ、私……我慢しますですぅ」
指を咥えてショボンとする幼女。しかし……
「じゃあ、記憶を消さない代わりにぃ、ひとつお願いがありますですぅ」
「どんなこと?」
「簡単なことですよぉ。私の頭をぉ愛情込めてなでなでしてくださいですぅ」
そのくらいのことで、智花の記憶が守られるならお安いご用だ。と幼女の可愛らしい要求に、トオルはクレアを引き寄せ、小さな頭を優しく撫で始めた。
「クレア、今、とってもぉ幸せですぅ」と小動物のように目を細める幼女に、保子莉が呆れた目を向けた。
「そんなに撫でてもらっていると頭がハゲてしまうぞ」
「だってぇ、お体を元に戻してしまったらぁ、あとは回復経過を見守る数週間しかぁ地球に居られないじゃないですかぁ。そうなるとぉ今のうちにぃ、いっぱいいっぱい撫でてもらわなきゃってぇなるじゃないですかぁ。それにぃお嬢さまだってぇ、この案件が片付けばぁ地球に滞在してられなくなるんですよぉ」
体の移植が終わった今、こうして宇宙人二人と一緒にいられる時間もあとわずか。賑やかだった毎日も二人が地球から離れれば以前のような日常生活に戻ってしまうのだろう。
一期一会。人生経験の浅いトオルにとってそれは、あまりにも切なく寂しいことだった。それだけに長二郎も魂が抜けたような顔をしている。
「トオルぅ……もう一度、事故られて義体になってくれよぉ……」
絶対にそう言ってくると思った。
「おや、クレアに言ってなかったかのぉ? 先日、惑星居住移転届けを本星から地球に移しておいたから、出星を急ぐ必要がなくなってのぉ、ゆえにしばらくは地球の高校生活とやらを満喫するつもりでおる」
その事実を知って、幼女が頬を膨らませた。
「いつの間にそんな申請を! ひとりだけ、そんなことしてズルいですぅ!」
「別にズルくはなかろう。単純に考えて、こっちにおった方が仕事的に都合が良いだけの話じゃ」
確かに猫缶のモニターが仕事である以上、地球に拠点を置いている方が合理的ではある。それはクレアも承知しているはずなのだが、やはり納得できないようだ。
「私もぉ明日ぁ、役所に行ってぇ、居住地移転届けを出してきますですぅ!」
「おぬしの場合、地球から会社では遠過ぎて不便じゃろ。通勤する度に遅刻や欠勤が増えるだけじゃから、やめておけやめておけ」
手をヒラヒラさせてクレアをあしらう保子莉に、幼女が仕事と私情を両天秤にかけて苦悩していた。……が、突然、窓際に駆け寄り、カーテンを体に巻きつけて窓越しから外の様子を伺い始めた。
「感の良い妹さんですねぇ。もうここまで嗅ぎつけましたかぁ」
緊張の様子を見せるクレアと共に、トオルたちも一緒になって窓の外を覗き見れば……智花がゾンビのように、家の前を徘徊していた。
「狩りをする獣の目をしておる……」
猫の狩猟本能を持つ保子莉の言葉に、クレアが小さな体をブルッと震わせた。
「トオルさまぁ。私、お仕事が忙しいのでぇ、しばらく会えなくなりますけどぉ、クレアのことを忘れないでくださいねぇ」
幼女は遺言のように耳打ちをすると、トオルの頬にキスをし、逃げるように居間を飛び出していった。
――仕事をするって、大変なんだなぁ……
クレアに同情していると、不意に長二郎の腕が首に巻き付いた。
「トオルぅぅぅぅぅうっ! なんて羨ましいことをっ!」
可愛いらしい幼女のキス如きで嫉妬に狂う親友。非力となってしまった今のトオルでは長二郎のネックブリーカーを解くことは不可能だった。ギリギリと締め付ける技にもがいていると、クレアと入れ違いに智花が居間に現れた。
「保子莉お姉さま! クレアちゃん見ませんでしたか?」
目を血走らせる智花に、保子莉は動じることなく偽った。
「いや。智花と出て行ったきり、家には戻って来ておらんがのぉ?」
「もぉ、どこ行っちゃったのかな?」
「クレアは気の変わりやすい子供じゃからな。もしかしたら智花のことを忘れて、どこかへ遊びに行ってしまったかもしれんのぉ。何じゃったら、クレアが戻り次第、わらわから智花にメールを送ろうか?」
「ホントですか。じゃあ、お願いします!」
智花は瞳を輝かせて自分の携帯電話を取り出すと、保子莉のメールアドレスを手早く登録した。
「じゃあ、保子莉お姉さま。もし、クレアちゃんが帰ってきたらメールくださいね。絶対ですよ!」
智花は必要以上に念を押すと、再び家の外へと走り出していった。
「周りが見えておらんようじゃが、大丈夫じゃろうか」と、勢いだけでもって行動する智花を心配する保子莉だった。