第一章 敷常智花3
『お客様がお掛けになった電話番号は、現在、電波の届かないところにいるか、または電源が……プッ』
「……やべぇ、すっかりイベントに乗り遅れちまった」
長二郎はスマートフォンの通話を切ると、ママチャリのハンドルに突っ伏して頭を抱えた。
「こんなことなら、いっそのこと寝なきゃ良かったぜ」
今日はトオルの体を元に戻す施術日。だが昨夜、深夜アニメをリアルタイムで視聴し、さらに朝方まで原作を読み返してしまい、昼過ぎまで爆睡してしまったのだ。
「悩んでもしかたねぇ」
国道を挟んだ向こう側の歩行者信号が赤から青に変わった瞬間、
「ファイナル・クライマックス・モード発動!」
と長二郎は意味不明の必殺技を叫びつつロケットスタートを決めた。
「クレアたぁぁぁん! 今、行くかんなぁぁぁぁあっ!」
親友であるトオルの名を叫ぶことはなく、猛スピードで保子莉宅を目指す長二郎だったが……敷常家の庭先に立つ少女を見るなりドリフト停車した。
「よう、智ちん」
その挨拶に、植木に水やりをしていた智花は、水道ホースを握ったまま馴染みの来訪者に視線を向けた。
「あっ。ちょーじろー、ひさしぶり」
相変わらず元気そうだね。と挨拶を交わす智花に、長二郎が言う。
「しばらく見ないうちに、女っぽくなったんじゃねぇ?」
タンクトップとホットパンツ姿の中学一年生。発育途上とはいえ、確実に体は成長している。
「さては、恋でもしてるのかなぁ?」
「ちょーじろー。それ、いやらしいオジサンみたいだよ」
軽蔑の眼差しを向ける智花に、長二郎は大口を開けて笑った。
「それで今日はどうしたの? トオルにぃなら、壊れたスマホ直しに出かけちゃったよ」
「はぁ? そんなはずはないだろう。今日は宇宙……じゃなくって、隣にいるはずだぞ」
「となりぃ?」
「あぁ」と隣家を指さし……
「とりあえず俺も急いで行かなきゃならんから、また今度な」
と手を振って自転車のペダルを踏みつけた。が……
「ちょ、ちょっとぉ! ひさしぶりに会ったのに、そんだけ?」
呼び止める智花の声に、長二郎は平静さを失う。
「急用があんだよ。だから、また今度ゆっくりな」
「ちょっと待ってよ! アタシを前にして、なんでそんなに落ち着きがないのよ?」
小学生の頃から何かと長二郎にチヤホヤされ続けてきた智花。だが、まるで関心を寄せない長二郎の態度に、不信感を募らせた。
「もしかして、お隣さんに可愛い女の子でもいるの?」
女の勘を鋭く冴え渡らせる智花に、長二郎が感心した。
「おぉ、良く分かったな。じゃ、そういうことだから」
「ちょ、ちょっとっ!」
「あんだよ?」
「アタシも一緒に行く!」
「はぁ?」
智花は急いで水道ホースを片付けると、長二郎の自転車の荷台に飛び乗った。
「さっ、行こ」
智花の掛け声に、長二郎は露骨に眉をひそめた。
「なぜ一緒に行かなきゃならんのだ?」
「だってぇ、アタシ、隣んちのこと全然、知らないんだもん。だから一緒にいく」
「ふーん……。まぁ、俺はかまわんけどな」
長二郎は特に気にする風でもなく、智花を荷台に乗せたまま、徒歩1分以内の隣家へとペダルを漕ぎ……そして玄関脇に自転車を停めるとインターフォンの呼び鈴を鳴らした。
『どちら様じゃ?』
スピーカーから発せられた訝しげな声に対し、長二郎は声優顔負けの演技を披露した。
「我は闇よりの仕えし者なり。よって我が命に従いて、この邪悪な門を開けよ!」
『なんじゃ、長二郎か』
ツッコミもなければ賞賛も評価もなかった。しかも智花からは「高校生にもなって、まだそんなこと言ってるんだ」と冷ややかな視線を浴びせられた。
「お前ら、人としてサイテーだな」と力無くよろめいていると……
『それで今日は何用じゃ?』
「トボけんじゃねぇよ! 俺がここに来る理由はひとつしかねぇだろ!」
インターフォン越しの恫喝。しかし、どういうわけか無音のままで返事がない。さすがに保子莉の機嫌を損ねたか。と長二郎はすぐに態度をあらため、卑屈に媚びを売り始めた。
「すんません、言い過ぎました。実はこの間、トオルくんの件で遊びに来てもいいと言われて伺ったんすけどぉ、お宅さまにあがらせては頂けませんかねぇ?」
同行者の智花に配慮し、咄嗟に訪問内容を濁す長二郎。……と言うよりも、ここで「宇宙船」やら「義体」なんて口走った日には、それこそ智花に白い目で見られかねないからだ。
すると玄関扉が開き、サンダルをつっかけた保子莉が出てきた。
「すまんすまん。おぬしのことをすっかり忘れておったわい」
「その様子からして、マジで忘れてやがったな」
「時間通りに来ないからいかんのじゃ。ところで、その娘は誰じゃ? まさか、おぬしのカノジョか?」
「違います! 全然、そんなんじゃないですから!」
長二郎の背後に隠れていた智花が、全力で否定した。
「アタシ、敷常トオルの妹の智花っていいます。決してちょーじろーのカノジョなんかじゃありません!」
「ほぉ、そなたがトオルの妹か」と智花をしみじみ見てから……
「わらわは時雨保子莉。隣人のよしみということでよろしくのぉ」
凜とした表情に、艶やかな黒髪と透き通るような白い肌。そして体の至る箇所に巻かれた包帯姿。傷だらけになりながら決して長二郎などに弱みを見せない毅然とした態度。智花の憧れる『強い女性像』が目の前にあった。
「かっこいい……」
「ボーッとして、どうしたのじゃ?」
「い、いえ。こちらこそ、よろしくお願いします! し、時雨……?」
「保子莉じゃ。名前で呼んでもらって構わぬぞ」
「あっ、はい! じゃあ、保子莉お姉さまで」
「お姉さまか……。まぁ、それも悪くないかものぉ」
そう言って保子莉は二人を家に招き入れた。
「しかし残念じゃったのぉ。トオルならば、つい先ほどクレアと船……じゃなく、買い物に出かけてしまったぞ」
兄の身体事情を知らない智花へ配慮する保子莉の機転に、長二郎も同調する。
「だよなぁ。あぁ、俺も一緒に買物に行きたかったな」
意味含む高校生二人の会話。当然のことながら事情を知らない智花に、その意図を汲み切れるはずはなかった。
二人を居間へと案内する保子莉。すると長二郎が腰を下ろす間もなく言う。
「ちょっとトイレ借りていいか?」
「汚すでないぞ」
「狙いは外さねぇから安心しろ」と家の奥へと消えていく長二郎。保子莉はその後ろ姿を見ながら居間の扉を閉めた。
「今、飲み物を出すから、適当に座っててくれ」
……が、同時に保子莉は眉を吊り上げ、居間の外へと睨みを利かした。
「すまぬが、智花よ。ちょっとの間、ここで待っててくれ。すぐ戻る」
そう言って、保子莉は早足でもって廊下へと出ていった。
「なぜ洋式便器がここにあるのだ?」
長二郎は『お花畑』のプレートが掲げられているトイレの扉を開けたまま首を傾げた。以前の記憶ではトイレと六〇〇キロ上空の宇宙船が繋がっていたはず。……なのに、目の前にあるのはフローラルな香りが漂う小部屋があるだけ。
「おかしい……」
頭に疑問符を浮かべながら、何の変哲もない木製扉の開閉を繰り返し、床に這いつくばっていると……
「便所コウロギのような真似をせんと用が足せぬとは、難儀なヤツじゃのぉ」
「んなわけねぇだろ。ただ俺は宇宙船に行って、クレアたんとイチャイチャしたいだけだ」
長二郎は後ろを振り返ることもなく、スリッパの裏やマットを捲り上げた。
「ほぉ、用も足さずにクレアに会いに行くつもりじゃったのか」
「ったり前のことを聞くんじゃねぇよ! ここまで来て、それ以外、なんの楽しみがあるってんだよ! って……うぉぉぉっ?」
振り向いた視線の先で仁王立ちする保子莉に驚き、便器にしがみつく長二郎。
「い、いや、今のは冗談! 冗談すっよ。保子莉さんのお膝元で、そんなことするわけがないじゃないですか」
正座をして揉み手で弁解すると、保子莉はフンっと鼻を鳴らした。そして長二郎を足でもって廊下へ払い退けると『お花畑』のプレートを一八〇度回転させてドアを開ける。すると、どうだろうか。今までトイレだったはずの場所が、一転して無垢色の宇宙船の廊下に早変わりした。
「そういう仕掛けだったのかよ」と、長二郎が船内を仰ぎ見ていると……
「さらに今回は特例として、わらわの携帯をおぬしに貸してやろう。これを持って歩いていけば、迷わず目的の施術室へ辿り着けるはずじゃ」
微笑みながら赤い携帯電話を差し出す保子莉に、長二郎が眉根を寄せた。
「えーと……あとで何かとんでもない仕打ちとかありそうで、とっても怖いんですけど」
「早くせんと、わらわの気が変わるやもしれんぞ」
扉の向こう側へと通じる宇宙船の廊下。背中には苛立ちを浮かべている保子莉がいる。
「本当に、あとで何もしないんだろうな? 信じていいんだな?」
「もちろんじゃ。この澄んだ眼が何よりの証拠じゃ」
見開かれた保子莉の双眸を、長二郎が訝しげに覗き込み……やがて鼻先での睨み合いへと変わっていく。その結果、絶対的に拒否権を与えなかった保子莉に軍配が上がった。
「わーったよ。行けばいいんだろ。一応、訊いておくけどよぉ、罠とか仕掛けてねぇだろうな?」
いつまでたっても行動に移さない長二郎に、保子莉の堪忍袋が切れた。
「ご託ばかり並べておらんで、とっとと行ってこんかっ!」
保子莉は携帯電話を宇宙船に放り投げ入れると、長二郎の尻を蹴り飛ばして船内へと押しやった。
「寄り道などせんで、しっかりクレアたちのところへいくのじゃぞ!」
まるで飼い犬に使いを走らせるように言い放ち、無慈悲にトイレの扉を閉じる保子莉。
「って、おいっ! ちょっと待て! こらっ! 心の準備が出来てねぇのに勝手に閉めてんじゃねぇよ!」
何の変哲もない白壁に早変わりした元扉を叩く。しかし地球側からは何の反応もない。
「お~い……」
静寂な空間に、切ない声だけが響き渡った。
「まぁ、別に良いか。うるさい保子莉ちゃんもいないことだし、これで心置きなくクレアたんとイチャイチャできるってもんだしな♪」
鎖が外された犬の如く、小躍りしながら廊下を歩き始める長二郎だった。