第一章 敷常智花2
「お待たせですぅ♪」
格式高いメイド服を着た幼女から、直したばかりのスマートフォンを手渡された。
「それでぇ、先ほどの妹さんの話ですけどぉ、無邪気で可愛いじゃないですかぁ」
笑いながらトオルの胡座の中へ腰を下ろし、小さな背中を預けてくつろぎ始める幼女。仄かにミルクの匂いを発散させる彼女の名はクレハ・クリス・クレア。年齢は18歳。地球の活動生活における通名は呉羽クレア。姿こそ地球人の子供だが、正真正銘の宇宙人であり、しかも立派な大人なのだ。本業は交通事故における加害者『時雨保子莉』と被害者『敷常トオル』の保証を取り持つ宇宙の保険屋さん。普段はトオルの義体を監視するため、大人にフォームチェンジし、私立延河原高校の1年D組の副担任に就いている。
トオルはそんな幼女抱えながら、スマートフォンの動作具合と復元されたデータを確認してからポケットに押し込んだ。
「可愛いから許されることじゃないよ。だいたい、いくら兄妹だからってお互いのプライバシーがあるんだから、最低でもそこは守らないと」
「まぁまぁ。妹さんも悪気があってやったことではないと思いますですよぉ」
幼い顔をして寛容に諭す幼女。こういう時だけは十八歳のお姉さんぽくなるのだから、ちょっと悔しかった。
「悪気がないからこそ、困ってるんじゃないか」
妹なんかいなきゃ良かったんだ……とトオルが愚痴をこぼすと、幼女が怒った。
「トオルさまぁ。冗談でもぉそんなことを口にしてはダメですよぉ。もし本当にそんなことになっちゃったらぁ、悲しむのはトオルさまなんですからねぇ」
あの智花に限ってそうなることはない。だが、確かにちょっと言い過ぎたと、反省した。
「わかってくれればぁ、それで充分ですよぉ」と、幼女の表情が綻んだ。そして……
「ところで話は変わりますけどぉ、先日、黒田先生がぁ……」
小さな両手を合わせて唐突に学校の話を始めるクレア。どうやら天性の気まぐれさは子供そのもののようだ。
「トオルさまを陸上部に勧誘する気満々でしたよぉ。それとぉ白井先生や緑川先生も同じことを考えているみたいですねぇ」
陸上の黒田。加えてバスケの白井にバレー部の緑川。いずれも運動部の顧問である。
――迂闊だった……
思い出すのは五月末に行われた体育祭。
しかも義体のまま参加した学校行事。その際、ちょっとした弾みで力加減を誤り、桁外れのパワーを出してしまったのだ。出場した全ての種目は1位。当然のことながらクラス一同から賞賛される結果となり、トオルは「まぐれ」「偶然」「たまたま」と濁すように誤魔化したのだが……どうやら運動部顧問の目は節穴ではなかったようだ。
「全国制覇やぁオリンピックを目指す気満々でぇ息巻いていましたですよぉ。って、トオルさまぁ、どうしたんですかぁ?」
体育祭の栄光を思い出して一気に憂鬱になった。
「日に日に増して力が強くなっていくから、注意していたのに」
そんなトオルの苦悩を察し、幼女も自前の端末でもって義体の状態を調べ始める。
「おかしいですねぇ。リミッターはちゃんと働いてるんですけどねぇ」
端末に視線を落としたまま小首を傾げるクレア。どうやら問題となるような部分は見当たらないらしい。そうなると上手に義体を扱えない自分に原因があるのだろうか。
「まぁ、どのみちぃ今日で義体の役目も終わりますしぃ、先生方の記憶もぉ適当に消去しておきますからぁご心配なくですよぉ」
無邪気な笑顔で記憶改ざんを平気で言ってのけるあたりが宇宙人らしい。もちろん今のトオルにとっては、そのほうが何かと都合がいいわけであり、ありがたいことでもあった。すると不意に幼女の端末が震えた。
「もぉ、会社からだなんてぇ、最悪ですぅ」と、憂鬱な面持ちをして電話応対する幼女。
――人の胡座の中で仕事の電話をするなんて、ちょっと無防備すぎじゃないかな?
場合によっては聞かれたくない機密事項もあるはずなのに、目の前の幼女はお構いなしに喋っていた。……と、トオルはそこであることに気づいた。
――こ、これはもしかして宇宙語なのでは!
早回しで逆再生するような幼女の声音。英語や中国語、はたまた欧州語でもない言葉。その生で聴くネイティブな宇宙語に、トオルは身を屈めて耳を傾けた。しかし内容どころか単語すら理解できるはずもなく、結局、電話が終わるまで黙って幼女を抱えるだけだった。そして会話を終えたクレアは端末をメイド服のポケットにしまうと、ショボンとうな垂れ、沈鬱な面持ちでその瞳を潤ませた。
「トオルさまぁ……クレア、またお仕事に行かなくっちゃなりましたですぅ」
トオルと会えなくなることに寂しさを感じる幼女。地球に赴任しているとは言え、他の案件も掛け持ちなのだろう。
「でも、またすぐに帰ってこれるんでしょ?」
今までだって数日もすれば、地球のこの家に戻ってこれたのだ。すると幼女は胡座の中で体を反転させ、小さな顔をトオルに寄せた。
「今度の案件は時間がかかりそうでしてぇ、いつぅ地球へ帰って来れるかぁわからないんですぅ。なのでぇ、こんな可哀想なクレアにお別れのキスをしてくださいなぁ」
甘えてくるクレアの要求に対し、戸惑うトオル。
「ちょっ、ちょっと待ってよ、クレア!」
幼女は持ち前の怪力でもってトオルの頭をガシッと掴むと、ムゥっと小さな唇を突き出してきた。
――こんな形でファーストキスが奪われてなるものか!
ちなみに、したかった相手にフラれてしまっただけに、今後の予定はまだ未定である。
「んふ。トオルさまたらぁ。ファーストキスのひとつやふたつくらい減ったところで大事にはいたりませんからぁ、心配せずにぃ、ここはお姉さんにすべてを任せてくださいなぁ」
「僕にとっては、大事なことなんだよ!」
グググッと義体のパワーで必死に抵抗をすると、クレアがクスクスと微笑んだ。
「そのお体でぇ無理しますとぉ、また頭と義体がぁ離れちゃいますですよぉ」
その忠告に、首だけで過ごした苦悩の日々が脳裏をかすめた。それだけは嫌だ……と抵抗を諦めたトオルに、幼女が欲望丸出しで唇を寄せてきた。
「それではあらためましてぇ、トオルさまのぉファーストキスを頂きま……」
「ほぉ、家の主が留守なのを良いことに、思う存分に羽目を外しておるようじゃのぉ」
その穏やかでない声に、錆びれた機械のようにギギギッと首を回すクレア。居間の扉口を見れば、腕組みをしてドアの柱に寄り掛かる猫娘がいた。
時雨保子莉。
宇宙で猫缶転売ビジネスを生業とする猫族宇宙人。確か一週間ほど前から地球を離れ、この家を留守にしていたのだが、どうやら仕事が終わって戻ってきたようだ。
「お帰りなさいませぇ、お嬢さまぁ!」
と慌てて胡座の上から飛び降りる幼女。それを見やりながら保子莉は鼻を鳴らすと、敷居を跨いでいつもの定位置に腰を降ろした。
「久しぶりに日本茶が飲みたいのぉ」
渋いオーダーをする猫娘に、幼女は愛想笑いを振りまきながら逃げるように台所へと消えていった。
――とりあえず助かった……
安堵の息を漏らしていると、保子莉がトオルの対面に座った。
一週間振りに見るオカッパ頭と猫耳。その姿に懐かしさすら覚えたのも束の間、満身創痍の姿に絶句した。鼻の頭に絆創膏、キャミソールの肩から露出している二の腕やショートパンツから伸びる白い足と膝には包帯が巻かれていた。
「怪我をしてるみたいだけど、仕事で何かあったの?」
「うむ。ちょっと海賊と一戦交えてのぉ」
さも散歩中に知人と偶然に出くわしたような言い草に、トオルは耳を疑った。何しろ相手は金品や人命も奪うという恐怖の対象者であり、そんな相手と戦ったと言うのだから驚かないほうがどうかしている。
「ムチャクチャすぎる」
海賊との遭遇。きっと彼女は必死の抵抗をしたのだろう。そしてもっとも気になるのは、その後の勝敗である。
「もちろん圧勝じゃ。今こうして、この場にいるのが何よりの証拠じゃ」
保子莉は得意満面の笑顔で灰色の猫耳をピクピクさせていた。
聞けば、投降するフリをして海賊たちを油断させ、相手の船に乗り込んで奇襲を仕掛けたとのことらしい。その虎の尾を踏むような奇襲作戦に、トオルは開いた口がふさがらなかった。もっともその先手必勝が功を奏し、海賊の撃退に成功することができたそうなのだが……しかし、なぜそうまでして海賊に交戦を挑んだのだろうか。
「金品だけ奪われるなら、わらわも無駄な抵抗などせんで投降しておったわい。しかしのぉ、モニター越しでわらわの品定めをするなどと抜かす相手じゃぞ。そんな輩に素直に従えるはずなかろう」
確かに。身売り前提ともなれば、ダメ元で反抗をしてもおかしくはない。すると保子莉は右肩の傷口を器用に舐めながら、上目遣いでトオルを垣間見る。
「じゃろ。しかも服を脱げとまで抜かしおったわい。もし抵抗せずにやつらの言いなりになっておったら、今頃、わらわは地球には戻ってはおらんじゃろう。運が良くて見世物小屋か、悪ければどこぞの悪趣味な金持ちに売られて、性奴隷なんてこともありえたじゃろう」
憶測混じりの話とは言え、自身が売買の対象となる以上、彼女の心境も分からなくはない。
「あんな腐った連中の言うことを聞いた挙句、一生、日陰者のような人生を送るなど、わらわはまっぴらゴメンじゃわい」
強気の発言。と思えば、少しだけ気落ちする保子莉。
「もっとも今にして思えば、かなり危ない橋を渡ったものじゃと、わらわも反省はしてはおるがのぉ」
すると台所からお茶を持って出てきた幼女が口を挟んだ。
「危ないなんてぇもんじゃぁないですよ。だいたい商業船が海賊と張り合おうなんてぇ、正気の沙汰じゃないですよぉ」
丸ちゃぶ台に湯呑みを並べ、不器用に急須を持ってお茶を入れるクレア。どうやら左利きでは注ぎ辛いらしい。
「当社の高い保険に入っているんですからぁ身代金くらい出ますしぃ、そんな無茶をしなくても良かったのではぁ? あ、トオルさまもぉ遠慮なく飲んでくださいね」
そう言って幼女はトオルの胡座の中へ腰を下ろすと、保子莉も緑茶で喉を潤した。
「オプションの『海賊安心保険』に加入しているとは言え、果たしてどこまで保証されたかのぉ? 一応、交渉まで面倒をみてもらい満額降りるのだから、素直に投降しても良かったのではと考えてもみるが……正直、あの状況下においては、間違いなく交渉前に身売りされておった可能性が高かった気がしなくもないがのぉ」
決めてかかる保子莉に、クレアが熱いお茶を啜って重い溜め息を吐いた。
「加入されている以上ぉ、当社も腕利きの交渉人をあたらせますですよぉ。まぁ、今回は従業員の方々含めて無事だったのでぇ、私もこれ以上、強くは申し上げませんですけどぉ、くれぐれも気をつけて下さいねぇ。それとぉ今後はあまり規定外の海域ルートは使わないようにして下さいなぁ。場合によっては保険が適応されないこともありますからぁ」
「分かっておるわい。今回の一件で従業員たちにも危ない目に合わせてしまったからのぉ。今後はあのような海域には近寄らないよう肝に命じるとしよう」
宇宙事情を交わす二人の会話に、トオルだけが蚊帳の外となっていた。もっとも宇宙海賊に縁もゆかりも無いだけに、部外者扱いなのは当然のことでもあるのだが。
「さて、この話はこれでお終いじゃ」
そう言って今度は右肘の擦り傷を舐め始める保子莉。その猫の毛繕いような仕草に、クレアが眉根をしかめた。
「お嬢さまぁ。そうまでして舐めるのでしたらぁ、私が手当てしてあげますのにぃ」
「要らんお世話じゃ。わらわは有機促進治療などには頼らん主義でな。特にこの程度の傷など自然治癒で充分じゃ」
突っぱねる保子莉の自論に、クレアは呆れた溜め息をひとつ吐くだけだった。
「ところでトオルよ。気のせいか、今日のおぬしは冴えんように見えるのじゃが、もしかして、わらわが留守にしている間に何かあったのか?」
おそらく彼女の言わんとしているのは、深月のことだろう。
しかし実際のところ、深月との関係は友達として平行線を維持したまま普通に接しているわけであり、普段の生活に問題があるとすれば、むしろ妹のほうである。トオルはじゃれてくる幼女の手を払いながら、妹に振り回され気味の近況と、自分が妹から遠ざけていることを話した。
「……なるほどのぉ、いわゆる仲違いというわけじゃな。しかし、ずいぶんと兄にご執心のようじゃが、単にそれはまだ妹が幼いだけじゃと思うがのぉ?」
敷常家の兄妹関係を特に気にする風もなく、保子莉がお茶を啜っていると
「そうでしょうかぁ? 私にはぁ妹さんの気持ちが良く分かりますですよぉ。大好きなお兄さんにカノジョなんかできたらぁ、やっぱり気になりますですよぉ」
と、言いつつ……
「それにぃもしかしたらぁ、私が妹さんのお義姉さんになるかもしれませんしぃ」
なぜ智花の義姉になろうとするのだろうか。
「妹さんと、うまくやっていけるかしらぁ?」
クレアの妄想劇場の開演である。
「その前にぃ、挙式はどうしようかしらぁ?」
ウットリとした表情で虚空を見上げる幼女。きっと鐘が鳴り響く白いチャペルの下で、ブーケ片手にウエディングドレスを身につけているに違いない。
この癖、なんとかならないのか。と保子莉に視線を向ければ諦め顔で首を横に振っていた。
「前にも言ったじゃろ。クレアはひとつのことに気を取られると、周りがトコトン見えんと」
カワセミに夢中になり、川で溺れたこともあるくらいだ。それだけにこればかりは手の施しようがないらしい。
「あっ、そうですわ。トオルさまぁ、そのままのお体ではぁ子作りができませんからぁ、早くぅお体を付け替えましょう」
餌をもらう子犬のように瞳をキラキラさせる幼女。本物の子供なら笑って済まされるが、中身が十八歳だけにとても冗談とは思えない。そのはしゃぎっぷりを見かね、保子莉がちゃぶ台をバンッと叩いた。
「クレア、その辺でいい加減にせぬか! トオルが困っておろうに!」
そして、その叱責はトオルをも巻き添えにする。
「それとトオルよ。おぬしもクレアに振り回されるでない。もっと男らしく気然とした態度をせぬか。傍から見ていてみっともないぞ」
トオルは返す言葉も無いまま幼女と一緒になって身を小さくするだけだった。
「とにかくじゃ、与太話はこれまでにして、今日はトオルの体を元に戻すことが優先じゃ。良いな、クレア」
「はいはいですぅ」
生返事をする幼女に、保子莉が目くじらを立てた。
「なんじゃ、そのやる気のない態度は! もっとシャキっとせぬか! なんじゃったら、会社に『現地の男に現を抜かしておる』とクレームを入れても良いのじゃぞ!」
「わかりましたぁ、わかりましたですぅ。だからぁ、もぉそんな怖い顔しないでくださいなぁ。そう言うことでぇ、トオルさまぁ。早く船に参りましょ!」
と幼女に手を引かれるようにしてトオルは腰を持ち上げた。……が、その一方で保子莉は座ったまま動こうとしないでいる。
「保子莉さんは一緒に来てくれないの?」
「わらわが同行したところで、何かが変わるわけでもないのでな、おとなしく留守番をして元通りになったおぬしの帰りを待つことにするわい。それよりもクレア」
「なんですかぁ?」
緩み切った幼女の笑顔に、猫娘も笑った。
「わらわの心を読んでみよ」
クレアは眉をひそめて保子莉の顔を凝視し……そして蛇に睨まれたカエルの如く汗をタラタラを流し始めた。
「お、お嬢さまったらぁイヤですわぁ……私が顧客さまの被害者相手にぃそんなことをするわけがないじゃないですかぁ」
つぶらな瞳が落ち着きなく虚空を泳いでいた。その挙動不審な態度に、保子莉が釘を刺す。
「なら良いのじゃが……もし過ちを犯しようものならば、即刻会社の方に訴えて、法的におぬしの身分を抹消するから肝に命じておけ」
「も、もちろん、わかってますですよぉ」
引きつった笑顔のまま首を縦に振る幼女に手を引かれ、居間を後にするトオルだった。