エピローグ
それから数日後。
無事地球に帰星したトオルたちは、普段と変わらぬ日々を送っていた。
家族をはじめとする周囲の人々の記憶は、保子莉に仕える老人のおかげで特に問題となることはなかった。
聞くところによれば、印象をぼかし、記憶として残りにくいようにしたらしい。ゆえによほどのことが無い限り、大きなトラブルにはならないそうだ。そう言った意味においては、案外、人の記憶というのは曖昧でいい加減なのだろう。その点、母親はしっかりしており、植えつけられた偽りの記憶と冷蔵庫に残った食材の減り具合に疑問を抱いていたようだ。
その辻褄合わせに、兄妹は口裏を合わせ、話をはぐらかして相槌を打っていたのだが
「あんたたち、ずいぶん仲が良いわね?」
もしかしてお母さんに隠し事とかしてないでしょうね? と、別の意味で勘ぐられてしまう始末だった。トオルはともかく、智花の場合、いつ口を滑らしてしまうか分からないのだ。
「やはり智花だけでも、周囲に合わせた記憶にしておくべきじゃったかのぉ」
雨に濡れた遊歩道を歩きながら思案する保子莉。元々は智花の記憶だけを改変させるつもりだったらしく、今も記憶改ざんを考えているようだ。
「智花なら大丈夫だよ」
いつまでも共有したい兄妹の思い出。
いつしか笑って語り合えることもあるかもしれないし、なるべくなら消さずに取っておきたいのだ。
すると今度は、ふたつの記憶を混在させる提案が。タルタル星での実体験と地球で生活していた偽の記憶。しかしクレア副担任が精神上よろしくないと却下した。
「幼年期ならぁともかくぅ、今の智花ちゃんの場合、記憶が混在しちゃうとぉ、自身の行動に責任が持てなくなってぇ、最悪ぅ人格障害を引き起こしちゃいますですよぉ」
つまり未熟で多感な年頃だけに、智花自身に大きな負担が掛かるというのだ。
結局、影響の少ない母親の記憶を日毎修正することで落ち着いたのだが……むしろ問題となったのは長二郎のほうだった。
「ディアさまを一人にしてはおけない」
事故後、治療を終えたエテルカから告げられた言葉に「俺もタルタル星に残る!」と宣言したのだ。
「しかし、まさか本当にあんなことを言い出すとはのぉ」
と雨で黒く塗りつぶされたアスファルトに視線を落とし、当時を思い出す保子莉。
診断は全治一ヶ月の半身打撲。それでも長二郎は一時もエテルカから離れず、帰星前日になって帰らないと騒ぎだしたのだ。そうなると困るのは保子莉のほうである。何しろ一時期間における旅行と称して、トオルたちを地球から連れ出しているのだ。それが長二郎一人のために、申請を提出し直さなければならないらしいのだが……それよりも問題なのは地球の家族のことだった。未成年の男子高校生。それが行方知れずとなれば大騒ぎとなることは目に見えていた。そのことをエテルカに伝えたところ
「チョージローのご家族に心配をかけたくありません」
そう言って彼を地球に帰すことに同意したのだが、それでも本人は頑として譲らず
「チョージローを強制送還してください」
エテルカの指示により、彼が寝ている隙に催眠麻酔を施し、地球へと連れ帰ってきたのだ。当然のことながら、目を覚ました長二郎は見慣れた保子莉宅に愕然とし
「お前ら、コロスぞ……」と言わんばかりに睨んだ睨んだのは言うまでもなかった。そこでトオルたちが事情を説明したところ
「そっか、エテルカがそう判断したなら、仕方ねぇよなぁ」と暴れることもなく項垂れたまま自宅へと帰っていたのだ。それ以来、何を話しても何を聞いても上の空。たぶんやるせない思いをひとりで抱えているのだろう。
――もし、また宇宙へ行くことがあったら、今度は邪魔しないでおこう
もっとも宇宙へ行く機会があればの話なのだが。
ともあれ、そんな気の晴れない日々を過ごし、迎えた休日のこと。いまだに慣れない体の疲労により、昼間から自室でうたた寝をしていると、ベッドのマットが微かに揺れ動いた。
「ん?」
虚ろな瞼を持ち上げれば、ベッドから飛び退く妹の姿が。
「智花、何してるの?」
「ううん。なんでもない」
見れば、両手を腰の後ろに回して何かを隠していた。
――またか
今度は何をしたのかとトオルが問うと、智花が油性のマジックインキを差し出した。
「マジックのインクがなくなっちゃったから、トオルにぃのを借りただけだよ」
念のため枕元に置いたスマートフォンを確認すれば、特に触られた形跡はない。すると智花はマジックを机の引き出しに戻し、部屋を出て行く。
「昼寝の邪魔してゴメンね」
ドア越しで謝り、そそくさと扉を閉める智花。いや、むしろ妹の行動を疑ってしまった自分のほうこそ謝りたいのだが。
――心の狭い兄でゴメン
自身の器の小ささに自己嫌悪しながら身を起こすと、スマホから短い着信音が鳴り響いた。
――メール? もしかして長二郎かな?
ロックを解除してみれば、妹からのショートメールが届いていた。しかも文面は『おでこ』の三文字だけ。何気なく額をさすってみたが、ニキビなどなく、特に変わった様子はない。
「どういうこと?」
意味が分からず『返信』を選択した。が……
――いや、ちょっと待てよ
スマホを放りだして机上スタンドミラーで自身の顔を映し見れば、額に黒く太い文字が描かれていた。
「何てことするんだよ!」と、憤慨するトオル。……が、すぐに怒りが薄らいだ。
『大好き♥』
丸文字で書かれた四文字。これでは怒るにも怒れなかった。
「まったく、しょうがないなぁ」と、トオルは妹のイタズラを咎めることなく、階下の洗面所へ降りていった。
■次回
ねこかんふりーく3/猫たちのサマーバケーション





