被害者の休日は忙しい。 下
雲一つない青空の下、郵便局の建物を出た私は駐輪場に向かい、カバンにしまってあった愛車の鍵を取り出しました。
前橋の家は、家柄も良く、資産も充分過ぎるほど持っている家ですが、その暮らしは本当に普通です。
まぁ、自宅は所有している建物の最上階をワンフロアを使っていますので少し普通とはいい難いですが、移動は運転手をつけたりなどせずに、自分で車を運転したり電車に乗ったりしています。学園に通う際には、あれこれと揚げ足を取ろうとする方々もいらっしゃるので送り迎えをしてもらいますが、他の際には一人気儘に移動することになります。一度など、家族四人で旅行する際には青春18切符を使って鈍行で移動なんてこともしました。前世から持っていたお金持ちのイメージとは著しく異なる家です。
私も移動手段を増やす為に、取得条件である16歳となったその日に、原付免許を取りました。
そして、前橋家の娘となることで一先ず必要の無くなった貯金を使って、自分の原付を購入しました。これは本当に、大切な足として重宝しています。
移動は、運転手のついた車。それが当たり前だと思っている令息令嬢達からは、可笑しな目で見られるでしょうが。
お母様と一緒に選んだ可愛らしいデザインの原付を動かそうとした時、聞きたくもない声を耳にしなければ、私の機嫌は上々のままで居られたのですけどね…。
「話があります、彰子。」
「挨拶もなく突然に、しかも呼び捨てで呼び止める。止めて下さいませんか、杜朋莉子様?私、前橋彰子は貴女を親しくさせては頂いてはいませんから。」
かつて姉だったものが、どういう訳か駐輪場の出口を塞いでいました。
清純そうなイメージを持たせる淡いピンクが目を和ます装いをした、この場に居る必要のない、居る意味も分からない彼女は、真剣な顔つきで私を見ている。
周囲に彼女の取り巻きは居ないみたいね、と目だけを動かして周囲を見回していれば、「何処を見ているの」と叱責を受けてしまいました。
他人に叱責を食らう謂れは無いのですけど?
「大切な話なのよ!」
「私にとって、大切な時間を潰す程とは思えないのですけど?」
真剣な面持ちで、必死な様子で私を見ているその姿は、彼女の後ろで建物の中へと入って行こうとしていた人々の同情や痛ましげな視線を集めるのに充分だったようです。そういう人の心を集まる魅力は、私には一切合切、理解することが出来ませんが健在のようですね。
普段は出さない大きな声を出して喉を痛めてしまった、と手を喉に当てる動きは、完璧に儚さを見せ付けて憐憫の情を集めています。そして、私に集まってくるのは、何をやっているんだ、応じてやれよ、という視線です。
「……分かりました。いいでしょう、お話を窺いましょう?」
「まぁ、本当に。ありがとう、彰子。お姉ちゃんのお願いを聞いてくれて。」
駐輪場の出口を塞いで、周囲の人々を自分の味方につけておいて…。
甘ったるい声を出して喜んでいるようですが、もう姉でも妹でも、家族でも無いのだと理解していないのでしょうか。この人も、あの二人も。
もしかして…。
ある予想が頭に浮かびました。
そうだったなら…、馬鹿としかいいようがありませんけど。
それを確かめる為にも人の目は避けたいですね。
「この建物の裏に公園があります。そちらで話を聞きましょう。」
頬を赤らめて嬉しそうに微笑んでいる彼女が、私の提案に迷うことなく頷きました。
原付から鍵を抜き、頭からヘルメットを下ろします。
そして、あまり見ていたいものでも無いので、彼女の顔や姿を見ないようにしながら歩き、郵便局の裏にある木々に囲まれて小さな公園に向かいました。
木々に囲まれている、子供達が遊ぶには充分な小さな公園。
公園内にある遊具といえば、滑り台にブランコ、ジャングルジム、鉄棒、後は砂場と手洗い場、ベンチがあるくらいです。
平日の午前中、普段ならあると思われる子供の姿は影形もなく、鳥の鳴き声が何処かから聞こえてくるだけの静かな場所でした。
だから思う存分に、今まで聞くことが出来ずに居た事を聞くことが出来ます。
「杜朋莉子様。貴女のお話を聞く前に、一つ質問をしてもよろしいでしょうか?でないと、私は貴女の話を聞くことは出来ません。」
「もぉ。昔のように、お姉さまと呼んでくれていいのよ?どうして、そんな他人行儀なことを言うのよ!長い間、些細なすれ違いのせいで離れ離れになってしまっていたけど、私達は血の繋がった家族なのよ!?今まで会いにいけなかったことを怒っているの?それはゴメンなさい。」
お姉さまなんて呼んだ記憶なんて私の中に残っている、杜朋彰子のそれの中には見当たらないのですけど?
…妄想?若年性?この人といい、あの人達といい、頭の中を見てみたいのですけど。それに、些細なすれ違い…普通の子供だったら絶望で狂っても仕方ないような生活が、些細な、すれ違い、ね。最後に会ったのは、彼女が中学三年生の時。それを正気で言えるのなら、色々と怖い方ですね。本当に、これがヒロインでいいのですか?
「今、貴女が私に接触を図って来られていることを、お父様方は御存知の事…」
まだまだ何かを言い募ろうとしているようでしたが、そんな事は無視します。聞いていても不快にしかなりませんし、この質問をしないことには始まりませんから。
でも…。
「貴女、今、お父様って…。やっぱり、やっぱり、貴女も戻りたいのよね?」
私達家族の下に。
「はぁ?」
人の言葉を遮って、感極まったという表情で目を潤ませて見せる。しかも、とんでもない誤解、勘違いを躊躇いもなく言葉にしてのけて。
お父様方は御存知の事なのでしょうか?
あぁ、「貴女の」という言葉を略してしまったのがいけなかったのね。
それは反省します。
でも、それでどうして私があの家に戻りたいと思っていることになるのかしら…。
「お父様やお母様は怒ってみえられるけど、ちゃんと私が取り成してあげるわ。私が一緒に謝ってあげる。だから…」
「質問に答えて下さいませんか、杜朋莉子様?」
貴女が私の言葉を何度も遮るのなら、こちらだって貴女の言葉を最後まで聞くつもりはありません。
「お、お父様も…お母様も、御存知ではないわ。」
やはりね。
知っていたら、絶対に止める筈だもの。
自分の目が細まり、目の前で勝手の悪そうな顔をして目を足下へと反らず杜朋莉子を、強く見つめました。
「だ、だって。お二人とも貴女のことはもう思い出すなとか、関わるなとか、そんな酷い事ばかり言うのよ?大切な家族なのに。最近なんて、翠子や柚貴が貴女の話をしていたら怒って、二人に手を上げるなんて…事を…。」
あぁ…ふふふ…、彼女が考えが分かりました。
私はサンドバック役ですか。
でも、あの二人が怒る理由を知っていたら、そんな事を恥じらいもなく私に言いに来る事なんて、出来るわけがないのですけどね…。
知らないのか、聞いたのに忘れているのか。
最近、私の通帳の残高が凄い勢いで大きくなっている理由。
"杜朋家の人間が接触を図った場合、100万円を彰子に支払い"
正式に取り交わした念書にはもっと小難しい言葉で綴られていましたが、簡単に言えばそういう内容です。
初めてお兄様、前橋晃に会ったあの日から数日をかけ、家族になる為に必要な取り決めを話し合い、それらを文面に起こすという事をしていました。
生活費や学費、家族といってもどの程度の関わりを持つのか、など。
後々に問題や弊害が出てきても大変ですから、予想しうる限りの条件を話し合いました。
その中で、杜朋家をどうするかも話し合ったのです。
そして決めたのは、表沙汰にはならないように、穏便に決着をつけるということです。
やろうと思えば、証拠も充分ですので、実刑などは難しいとはいえ警察沙汰には出来たでしょう。最近は、そういった方面も厳しくなりましたから。名家と言われる家族に起こったスキャンダル。マスコミも鼻息荒く、重箱の隅を突くように奮闘してくれたでしょうね。
ですが、それは後々のことを考えると厄介なので、止めておこうとお兄様と決めました。
ネグレクトをしていた名家。
大いに人々の興味を引き、地位も名誉も、そして今まで築いてきた信頼も失う羽目になるでしょう。
最後に残るのは、家族と財産くらい。ですが、財産は地位を追われ、仕事を失う羽目となれば一気に極僅かなものにまで減ってしまうでしょうし、家族も世間からの厳しい目によって何処まで纏まっていられるか。自分達の身が大切な親族達は関わりを断ち切り、日々の付き合いを大切にしていた友人達はそんな事実は無かったとするでしょう。
有り余るほどに持っていた人間ほど、それらを失ってしまった時、大きく狂うものです。
自暴自棄。
近づいてはならないという接触禁止令を出したとしても、もはや失うものなどないと思い込んだ相手に何の効果もない。
その原因を作った敵、つまり私を許さないという思いだけで何をしだすか分かったものではありません。
そこで、お兄様と話し合って決めたのが、幾つかの条件などを念書で取り交わした上で、公としては私が前橋家に円満に養子入りをしたという事にしたのです。
少し探りを入れれば可笑しな点ばかりな取り決めではありましたが、当事者である両家が口を合わせて同じことを言ってしまえば、野暮な口出しは安易には出来ません。
余計なことをしようものなら証拠と共に事実を公表するとしてありますし、接触を禁じるというのも上流社会という狭い範囲の中、パーティーなどの集まりで顔を合わせることもあるだろうと、顔を合わせてしまう程度の事は許容することになっていました。
ですから、あんな風にたくさんの目がある場所で、堂々を声を掛けてきたことが、始めは夢かと思う程に信じられませんでした。
それでも、周りにはあの二人の取り巻き達や生徒たちの目があった状況の中、口を噤むという約束を交わし、正当な理由をもって念書の内容が破棄されたという確約がまだ得られていない時点では、声高々にこの話を切り出す訳にも行かず。数回の接触の下、誰の目にも明らかに条件が破棄されたと言える段階になった辺りでは、二人の接触よりも取り巻き達、生徒達からの被害が主になってしまい、機会を逃していました。
「100万円。」
「えっ?」
「御存知ありませんでしたか?貴女方、杜朋家の者が私に接触する毎に、杜朋家は私に対して100万円の慰謝料を支払うことになっているのですよ。御両親の機嫌が優れないのも、それが理由ではないでしょうか。」
あまり業績がよろしくないと噂に聞いていますし、念書の内容が守られないとなれば私がどう動くかを思えば、機嫌も悪くなるでしょう。
私に言っている事が理解し難いのか、疑うような怪訝な顔をしている。その表情からも、この話を知らなかったようだと気づかされます。
馬鹿なのでしょうか。
私が前橋彰子となった時点で子供には難しいかったとしても説明していれば、遅くとも今までの騒ぎの中ででも説明していれば、こうして何度も二人が接触し続ける事態にも、今目の前に居るこの人のように押しかけてくることも無かったでしょうに。
杜朋のあの方々は、何を考えているのでしょうか。それとも、考えていないのでしょうか。
「今日の貴女の接触については、後日私の代理を務めてくれている弁護士の方から、今までと同じようにご連絡を入れさせて頂きます。その事を、御両親にお伝え下さい。」
柚貴と翠子にも、莉子の話では手を上げたようですから、伝えた途端に彼女にも手を上げるかも知れませんが、そこは私の感知するところではありませんから。
ホウ・レン・ソウ。
仕事だけではなく、家庭でも大切なことですよね、この言葉。
どうして疎かにしたのでしょうか。
じゃなければ、こんな事態にはならなかったのに。
話は終わりました。
彼女も、言葉は出てこないようですしね。
動く気配の無い彼女に背中を向け、公園を出て郵便局の駐輪場へと向かいます。
元々行く予定でしたから、ついでにこの報告もしましょう。
それにしても、ホウレンソウの言葉で何だか、ファミレスの、味が少し薄めのバターソテーが食べたくなりました。テイクアウトして、事務所に持っていって食べるのもいいですね。
「私達家族の引き立て役くらいしか役に立たない根暗が!この私が謝ってあげてるのに、何でさっさと受け入れてないのよ!私達の所に戻れることを喜んで、涙を流すくらいの可愛さもないの!?」
……えっ?
いやいやいや。
ヒロインの台詞ではありませんよ、それ?
ビックリしました。
『杜朋莉子』も、記憶持ちの転生者?いえ、まだ確証には至りません。こういうことを素で言えてしまう人間も、存在しないことも無いですから。
それでも、人々に愛されるヒロインの肩書きには相応しいとは言えないというのは確かですけど…。
…女王様なお嬢様達が購入者の、実は攻略者達がドMとか、ですか?
「これ以降は、本当に弁護士を通してでしか言葉を交わすつもりはありません。」
表情を崩さないように心がけ、淡々と言葉を吐き出して立ち去る。
私には、そうするしか出来ませんでした。
杜朋莉子を振り向いて見ることなんて、そんなの怖くて怖くて、とても…。