被害者の休日は忙しい。 上
学園の創立記念として休みとなった平日。
私は、前橋の自宅の最寄である郵便局へ出向きました。
目的は一つ。
三通程、『内容証明』を出す為です。
送る宛先は、私と同じ学年に属している女生徒達。
『内容証明』には、彼女達が引き裂いて駄目にしてくれた教科書の弁償と、教科書が無いことで生じた不都合への慰謝料の請求するという旨が書かれています。
これを無視する、拒否する、または受け取りを拒絶しますと、こちらとしましては裁判で決着をつけることになる。そう記してもあります。
もちろん、私の教科書を使いようのないゴミへと変えてくれたのが彼女達であるという証拠も、しっかりと握らせてもらっていますから、裁判になっても負けることはありません。
ブルッ
あぁ、思い出しただけで恐怖によって震えと鳥肌が生まれますね。
その時間の科目は体育でした。教室には一人として残っている筈のない時間、彼女達三人は自分達の授業をどうしたのかという疑問に答えることもなく、静かに教室へと入って来ると、私の使用している落書きだらけの机の周りに立ったのです。
もちろん、落書きは私の仕業ではありませんから。一年を通して使用する机ですが、私の持ち物ではなく学校の備品ですからね。しかも、目にするのもおぞましいような下劣極まりない、上流階級の人間が通うという学園の生徒がやる事か、と品位を疑ってしまうような言葉や記号なんて…。そんな非常識な事が出来るわけもありません。
憤怒や苛立ちの雰囲気を画面越しでも感じ取ることが出来る彼女達は、私を取り囲むと予定通りであると思わせる流れるような動きで、カバンや机の中に収めていた教科書という教科書を破り捨ててくれました。
えぇ、驚くべきことに破り捨てたのです。
あの無駄に丈夫な作りとなっている教科書を、上流階級に生まれ育った上品でお淑やかな女生徒が!
隠しカメラの映像を確かめるまでは、刃物で切り裂いたのだろうと思っていました。それにしては、切り口というよりも破れ、切り裂かれた、と言う方が正しい表現だと感じる被害状況でしたが。まさか、お嬢様方が素手でビリビリと教科書を引き裂くなんて誰が想像出来たでしょうか。
映像を確認する作業の中、息を飲んで数分の間瞬きすることも忘れていました。
でも、よぉく考えてみてみれば…お嬢様って普通の生活を送っている女性よりも体力や筋力がありますよね。
お付き合いというものも多くこなし交友関係を広げていくというのも、ある意味では彼女達の仕事の一部です。そして、そういったお付き合いの際には、贅を凝らした食事や飲み物が付き物です。贅沢な材料をふんだんに使用する、正式なもてなしでの外食の数々。フランス料理や中華、日本料理、この飽食の時代の日本において食事の選択肢は数多とありますが、正式なもてなしとも成ればコース料理という量も質も、そしてカロリーがとても気になってしまうものになります。
レストランなどに出向かない場合でも、自宅、相手宅に招かれてお茶を頂くということも多い。お茶が出れば、必ず一緒に勧められるのは、和菓子に洋菓子などのお茶菓子です。
そんな食生活を、子供の頃から送っていることでしょう。
それに、私達にはまだまだ早いことではありますが、パーティーにはお酒も付き物です。
だというのに、多くの令嬢達、多くのご夫人達は、見た目に恥ずかしくない美しい姿形を維持し続けるのですよ?
そんじょそこらの女性が奮闘している並の運動量で、それらの付き合いでどうしても得てしまったものを、燃焼させて、その体型を維持するのは絶対に難しいと私は思うのです。
というか、私も前橋の娘になってから、お付き合いの場に連れて行かれることも多いのですが、その後の二・三日は塩昆布とご飯とお湯のお茶漬けで過ごすくらいには胃がもたれるんですよね。きっと、上流階級の方々は内臓がとっても丈夫なのだとも思いますね。
あぁ、それに彼女達が幼い頃から修練を重ねてきた習い事も、よくよく考えてみるとお淑やかや儚げなんて言葉とは相容れそうに無いんですよね。
社交ダンスに日本舞踊、乗馬、あるいはピアノやヴァイオリンを初めとする楽器に、歌という方も居ましたね。趣味、特技と軽く言ってのけるそれらは、優雅そうに見える見た目とは裏腹に、本当は体力もある程度の筋力を必要とするものですから。
例えば、社交ダンス。高いヒールでドレスが綺麗に見栄えがするように、曲が終わるその時まで絶えず動き続けなければいけません。しかも、一曲では終わらないのです。人を変え、ダンスを変えて、社交の場が終わるまで踊り続けなければいけません。休むことも許されていますが、付き合いを考えれば出来るだけ色々な方のお相手を勤めるのが、令嬢達が家の為にするべき事です。
それに、お金持ちの趣味趣向が、本当に嗜み、手慰み程度なんて事がある訳もありません。見栄や外聞を気にする生き物である上流階級の人間にとって、他人に充分に聞かせられる、失敗することが在り得ないと言えることの出来る実力を持てなければ、それを趣味にしていることを明かすべきではないと判断されます。
あぁ、そういえば。教科書を破り去って下さった方のお一人は、幼い頃からピアノを嗜んでいると言っていましたね。しかも、一度披露なされたのを目にしましたが、嗜むなんて言葉では治まらない素晴らしい腕前でした。そりゃあ、指や腕の力も強くなることでしょう。ピアノは鍵盤を早く素早く叩く指の力や、長い曲の間優雅に軽やかに見せるように両手を動かし続ける体力が必要になりますから。
そんな素晴らしい趣味や特技を幼い頃から磨き上げてお持ちの令嬢達です。幼い頃から磨き上げられた外見も仕草なども完璧に近いものがあります。出来れば、『内容証明』の意味と内容をしっかりと理解した対応をして下さればいいのですけど…。
じゃないと、大変なことになりますよ?
『内容証明』は、郵便局という組織が、その中に書かれている内容と宛先をしっかりと記録し保証してくれるものです。
実を言えば、以前にも今回の三人を含めた六名の方々に送らせて頂いています。
証拠を握ることが出来、なおかつ度を越して実害も出し始めた方々です。見せしめ、の意味を込めてありました。
その時は、"確実な証拠を掴んでいる数々の嫌がらせについて、今、止めて下さるのならば目を瞑る。"と大まかに言えばそういう、こちらがとても下手に出てあげている内容でした。
『内容証明』の意味を理解して下さっている令嬢、もしくはその親御さんは、すぐに謝罪の言葉を私に下さり、持ち物を捨てる、壊す、誹謗中傷などの嫌がらせから手を引いてくれました。その際、壊されたものなどへの弁償も受けたので、こちらも何も無かったということにしたのです。
何かの罪に問えるレベルには至っていませんでしたし、ね。
ですが、今回送らせて頂く方々は、以前の『内容証明』の意味を理解して下さらなかったようです。お一人など、受け取りを拒否なさったそうですね。
今回も、多分そうなるのでしょう。
名のある方である親御さんや周囲の大人に相談出来れば、この後に待ち構える事の重大さを知ることも出来ると思いますが…。
相談出来ないのか、しないのか。
"止めてくれ"
"教科書代などを弁償して欲しい"
これらの内容が彼女達の下に送られたという証明が成されている、これは裁判では有利な証拠となる。受け取りを拒否した、としても『内容証明』は手渡しでというのが規則ですから、一度は彼女の手に渡ったということ、つまり配達されたという事実が生まれています。
良識のある親ならば、『内容証明』が来た時点で話し合いの場を設けるか、その内容が嘘ではないと分かった瞬間に内容に応じるでしょう。
裁判は、記録に残りますから。内容も、当事者達の名前も。つまり、将来のことを考えれば裁判など起こされる訳にはいかない筈です。
令嬢達が目指す"良縁"というものに際して、この記録は酷く後を引くでしょうからね。
あぁ、でも…あの教科書を破り捨てる恐ろしい姿の映像を見たら、お金目当て丸分かりな方でも尻込みするような気もしますが…。
慰謝料といえば、鳳凰院君からのものは入金されましたかね?
『ご利用ありがとうございました。』
「はい、はい。こちらこそ、ありがとうございます。」
はっ!?
機械相手に返事をしてしまいました。いけませんね、こういうのを"おばちゃん化"してるって事ですもの。確かに、前世の年齢も合わせれば充分におばちゃんかも知れないけど、まだまだ肉体年齢はピチピチですから!
後から考えれば自分でも意味の分からない気合を入れながら、いそいそと持ち歩いている通帳の記帳をATMでしてみれば、きっちりと取り決め通りの金額が入金されていました。
怪我の治療費、恐怖を味わったという精神的苦痛に対する慰謝料、通院費、病院へ通う際に発生した交通費+αなどなど、弁護士であるお兄様と、私の保護者であるお父様が矢面となって取り決めてくれましたものね。それによって、こちら側も示談に応じたということで、被害届も取り下げました。
でも、怒りに我を忘れて女の顔を殴ったという事実は記録として残っていますから、これから鳳凰院君は大変でしょう。
良識のある親ならば、DVを行う可能性のある男に娘を嫁がせるのは渋るでしょう。政略結婚という手もありますが、それでも多大に不利な条件を突きつけられることになるでしょうね。
家と家が関わってくる結婚では、相手側の身辺調査は必ず行われることです。被害届を出されることをしたという実績は、消えませんよ?
結婚だけではありませんね。信用が大事となる職業や大手企業などに入る際にも、身辺調査は行われることもありますから…もし彼が鳳凰院の手が及ばない就職先に入ろうと思った時に、そちら側が何時か暴力沙汰を起こすかも知れない人を受け入れてくれるか、という問題も出てくるでしょうね。
あぁ、でも鳳凰院君には、それ以前の問題がありましたね。
就職とか結婚とかを将来考える余裕を持っていられるでしょうか?
女生徒達や学園での友人達が心配して大きな噂となっている、連絡の無い休みがずっと続いているらしいですが、退学や停学になった訳ではないようですね。つまり、どんな手を使ったかは色々と憶測出来ますが、可愛い息子の為に鳳凰院君の御両親は動かれたのでしょう。
私が引き下げたのは、私に対する暴力に対する被害届だけ。
つまり、彼が率いていたチームに対する罪には何の影響も無いのです。だって、あちらは刑事事件ですから。ただの一般市民でしかない私にどうこうする力はありません。関与するところでも無いですし。
タバコやお酒はまぁ横に置いておいても、暴力に薬、未成年とはいえ見逃して貰えるわけもない。
鳳凰院君を含めたチームのメンバーによる暴力に関しては、彼等が捕まったという報道があった後に続々と被害者が名乗りを上げて、被害届も出されているようなので、色々と大騒ぎみたいですね。
そんな中で、退学にも停学にもならず、ただ姿を見せないだけの鳳凰院君。
幾ら寄付金を積んでいたとしても、成績が優秀だったとしても、家柄が良かったとしても。良家の子女を受け入れていることを売りにしているこの学園にとってみれば、たかが一生徒でしかないのです。彼一人の悪行の影響を受けて、生徒数を減らし、学園の名誉を汚して偉大なる伝統を終わらせるくらいならば、世間がその事実を知るよりも早くに、さっさと切り捨ててみせるでしょう。世間が知った際には、学園とは無関係であると出来るように。
それが無いというのなら、公としては鳳凰院君は報道の内容に一切関係ないという事実が出来ているのでしょう。彼は何もしなかった。少年Aなどとして紙面を賑わせている彼らとの関係は、最初から無かったことになっていると思われます。
でも…それは悪手では無いでしょうか、鳳凰院様。
暴力や薬、塀の中に入る事となったとしても、外に出て来れるまでにそう長くは掛からない。
彼等はどう思うのでしょうか、一人だけ姿の見えないリーダーのことを。一人だけ我関せずに逃げた仲間、親友のことを…。
何年か後、彼の名前が紙面に踊っていない事を祈ります。
記帳を終えた通帳を開いたまま内容を見ていると、最近何かと入金が多いせいか、その残高の数字がとても大変なことのなっています。
今は郵貯に振り込んで貰っていますが、もう少ししたら他の銀行にしなくてはいけませんね。
いざという時の為にも、一つの銀行には1,000万まで、ですから。
「あっ。お兄様への成功報酬もついでに降ろして…、そうすれば残高にも余裕が出来るわね。」
兄妹ではあるけれど、弁護士として動いてくれる事はそれとは別。
ちゃんと契約を結んでいます。基本的には成功報酬の一割を支払うことになっていますから、鳳凰院から振り込まれている金額の一割を下ろして、ついでですから弁護士事務所まで持っていきましょうか。
もうすぐお昼ですし、仕事が一休み出来そうだったら、何処かで一緒にランチでも…。