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浮説神楽ノ庭  作者: No.59
6/6

白昼夢(ハクチュウム)

愛される名

憎まれる名

忘れられる名

それが有るから存在出来る

一度だけでも呼んでほしかった

そう叫んでも

名は何処にも無かった

「…………」


「おや?」


「…………」


「おかしいわ」


「…………」


「…………」


「…………」


 目の前で、何か巨大な陰影が、音を発し近づいたり、遠ざかったりしながら動いているのが判る。とは言え、それは、網膜に映り込んでいる訳では無く、薄皮一枚隔てた瞼の裏の暗闇の外で、それらが、動きを見せる度に、僅かに、明るんだり、暗くなったりする気配が、そう感じさせているだけだった。


 伊弉諾尊と伊弉冉尊。神世七代最後の神々が、天と地とが混ざり合う混沌から生み出した淤能碁呂島という小さな島で、眼前に落ちる小さな物体に、触れてみたり、叩いてみたり、又は、声をかけてみたりしている。

 それは、全身が白く、ベタリと地に這い蹲っている小さな赤子で、どうやら、その二神の子のようであった。赤子は、普通の赤子のそれより、未だ、未熟な胎児といった風貌を見せていた。

 伊弉諾尊と伊弉冉尊は、怪訝な、或は不思議そうな面持ちで、その姿態と様子に接していた。


「子は泣くものであると聞いていたが……」


「それに、この容姿は一体……」


 二人の訝しい表情の理由は、それの一端に、確認が出来るものであった。

 赤子と言えば、世に生まれ落ちると同時に、それを憂いてか、悦んでか、喚くように大泣きするものだと知らされていたのだ。しかし、この赤子は、泣くどころか、動きすら見せず、おまけに、予期していたものと違い、体躯や肌は、まるで溶けているのではないかと思わせるほどに、粘着質を帯びていて、自分達の身体と見比べても、断然に違う姿態でいるのである。


「赤子とは口が無いのではないか?」


 伊弉諾尊の疑問は、一目で明かされた。両端を結んではいるが、確かにそこが口と思しき、唇の輪郭が見える。


「目が無いのでは」


 伊弉冉尊の疑問も、近づくことで、瞼を綴じてはいるが、眼球の膨らみが有ることを確認することが出来た。

 二人は、初めて産み落とした子ということも有り、疎い知識が命ずる直感のままに、そうした疑問と違和感を、自分達と比較していくことで、一つ一つ確認していた。

 外見的な特徴は、小さく、頼りなくも、概ね備えてはいたが、やはり違和感は、払拭出来なかった。では、何が足りないのであろうか。

 伊弉諾尊は、腫れ物にでも触れるように、試しに、ベタリと土へ張りつく片手に、手を延ばしてみた。


「わかったぞ。伊弉冉尊。コレには骨が無いのだ」


 伊弉諾尊が取って握った白い小さな手は、グニャリと潰れ、太い指の合間へ、異常に白く薄い皮膚を纏わせ、唾液のような糸を引いてみせた。

 伊弉冉尊は、その様子に目を丸くして、驚きを表すと、うんうんと頷いた。


「それが、泣かぬ理由なのですか?」


「そうであろうか。赤子とは、こんなものか。しばし様子を見てみることにしよう」


 二人は、覚えた違和感の理由が、自分達の知識の外にあるものだと推測して、一旦、赤子の成長を見守ることにした。

 そうして、この白色をした神の子は、両親の好奇心の下で、観察されながら、育てられる事となり、およそ、三年の月日を、島で共に過ごしたのだった。


 やがて、子の体格は、胎児から幼児へと成長し、産まれたばかりの頃より、人型のめり張りをつけ、あやふやだった風貌は、口は口、目は目、手は手として成形されて、両親が、自分達と比較をせずとも、それと判るように発達を見せた。

 しかし、伊弉諾尊と伊弉冉尊の表情は、依然として曇ったままであった。


「どうしたものか。立ち上がることが出来ぬとは……」


「目も開かなければ、口も利きませんわね」


 白い子供は、動きこそすれど、骨は無いままで、自ら立ち上がることは、一度も無く、相変わらずに地べたを這うばかりであった。それも、蚯蚓や蛇のような蠕動運動で、相変わらず溶けるような皮膚を垂らすものだから、その異様さで、両親である伊弉諾尊と伊弉冉尊に、不気味な印象を与ええるようになっていた。時折見せる半月状の、薄い笑みも又、輪をかけて嫌悪感を煽った。

 いつしか、そんな感情が募る度に、我が子への愛情は失せ、刷り代わるようにして芽生えた不快感と引き換えにする動機を、二人は探るようになっていた。間もなく、それは、二人の会話から明確に示される事となる。


「骨の無い奇形児。神の初めの子がコレでは……」


「私には、見るのも億劫ですわ。あの口許を裂く不気味な笑顔が頭を過ぎると、気味が悪くて……」


 誰かが近づく足音が、腹ばいの大地を伝わって響いてくる。それより先に、先ず、匂いを感じた。とても安心する二つの安らぎの匂い。一つは、少し離れた場所で、立ち止まる足音と共に薄らいだが、もう一方は、直ぐ近くにまで寄って来ているのが、流れる風に漂う匂いに判別出来た。

 白い幼児は、己の顔面に吹きかかる吐息に向かい、最大限の喜悦表現である笑顔を見せた。それは、誰かに教わった訳では無く、声の出し方を知らぬ幼児が、相手への愛情表現として、又、それを受け取る方法として、本能的に会得した唯一の手段であった。


「済まぬが、お前では、我々の子として相応しく無いのだよ」


 体に覚えた浮遊感。年に一度や二度は、訪れるこの伊弉諾尊に抱え上げ上げられる感触が、幼児は、好きだった。

 力強く両脇の下を掴まれると、皮膚に食い込む大きな手が、内臓を直接圧迫して痛かったが、不断の大地の匂いを離れ、風に全身を戦がれた時の快感は、この上ない気持ちにさせて、それより何より、安心感を齎してくれる匂いを放つモノに触れられるのが、心安らかな眠気の快楽を与えてくれるのだった。


「早く済ませてしまいましょう。伊弉諾尊」


 遠い方の匂いから、その心地良さを、一段と増進させる声が聞こえた。

 すると、普段なら、脇の下の感触が途端に消え、体中に衝撃が走り、舞い上がった土煙の匂いが、再び鼻孔へ、煙たく入り込んでくるのだが、今回は、浮遊感を感じたままに、何処かへと連れられているのが判った。

 幼児は、これ以上裂けない口の端を尚も引こうとしている。抱え上げる伊弉諾尊の足元には、歩む度に、腕からの振動が、幼児に伝わり、粘着質の白い皮膚を、雫のように零させていた。

 幼児は、己を掴む手と同じ位間近な位置に、もう一方の、安らぎを与えてくれる匂いを感じると、そこで、漸く、普段通りの、匂いから離される感覚を覚えた。いつもよりも、ほんの少しだけ、長く接していた感触に、特別な思いが、幼児の胸の内を熱くさせ、着地した場所の、土臭く無い新鮮な肌触りも、その高揚を手伝った。

 だが、それは、幼児の幼い気な愉悦の、終わりを意味していた。

 伊弉諾尊は、名残り惜しそうに、己の手から糸を引く粘液に、露骨な嫌悪を見せて、子供を、伊弉冉尊が用意した海へ浮かぶ葦の葉の上に落とした。


「さて、何が間違っていたのか。窺いを立てなければならんな」


 海で手を濯ぐ伊弉諾尊は、島を生む際に使用した天沼矛を手にすると、刃の峰で葦の葉を沖へと押し出した。伊弉冉尊は、見送ることすら躊躇い、既に、我が子へ背を向けて、歩み出している。


「もう、このような不快な思いは御免です」


 溜息混じりの伊弉冉尊の答えは、風に乗り、波間に小さくなっていく幼児の陰に、届いたかどうかは解らない。


 新しい感覚を刺激にして、胸の内で静かに高揚する幼児の口は、そっと開いた。


「いざなぎ……いざなみ……」


 それは、幼児が、初めて覚えた言葉。だが、これも又、海風には乗ったが、囁く漣よりも小さな声で、背を向ける両親に届くことは無かった。


 そして、両親の匂いが、潮の香りに遮られて、いつも以上に届かぬ距離まで流されると、幼児の表情からは、薄気味悪がられていた笑顔が、次第に消えていった。


「いざなぎ……いざなみ……」


 高揚だけを残し、喜悦が何処かへ去ると、代わりにやって来た淋しさ、幼児には、未だ解らぬ感情であったが、頼りを失う心の空虚に、不安が満ちた。

 島に居た時分にも、これに近い気持ちで、幼児は、季節と日々を、何度も過ごしたが、それとは明らかに、似て非なる感覚の芽生えであり、微かにも両親の存在感を示す匂いと、そこに有って然るべきであった大地の、土臭い臭いまでもが、島影と共に、遠方へと遠ざかるに連れ、心の中で余韻として残っていた高揚は、焦燥へと変質して、幼児の体を動かせようと、内面から揺さぶるのだった。

 しかし、微量な匂いの方角へと、少しでも動きを見せようものならば、針が刺すような痛みを与える海水に触れてしまい、幼児を怯ませた。そして、どの方向へ動こうにも、それは変わらずに訪れるので、幼児は身動きが取れずに、葦の葉の上で縛られるのだった。

 それならばと、頬を引き、幾日も笑顔を見せ続けるが、これも効果がある筈も無く、そのうちに、安らぎの匂いを嗅ぐことが出来なくなった。


「いざなぎ……いざなみ……」


 だが、幼児は、諦めを覚えていなかったので、初めて覚えた言葉、両親の名を、呟くように呼び続けた。暫くすれば、再び、感じられるであろう両親の安らぎを、健気に信じて。そして、又、海水に触れた……。

 幼児は、幾日も幾日も、自らが出来得るこれらを、堂々巡りに、繰り返すしか、術が無かった。

 果てしない大海は、幼児の全てを吸い、虚しさだけを辺りに漂わせた。


 それから、どれだけ月日が経ったのだろうか、白い幼児の姿は、すっかり衰弱して、体は縮み、島にいた頃の半分ほどの大きさとなっていた。少しでも大きな波が襲い来れば、あっという間に、流されてしまいそうな頼りなさで、葦の揺り篭に揺られている。

 するとそこへ、実際に、小さな島なら飲み込んでしまうのではないかと思われるほどの、大波が押し寄せて来た。他愛無く巻き込まれる揺り篭は、一瞬で、荒れ狂う狂涛に揉みくちゃにされ、その巨大な圧力の下、海中へ引きずり込まれ、消え失せてしまう。

 暫くして、海が落ち着きを取り戻すと、海面に、緑色の揺り篭が、海中から生まれた気泡のように、か弱く浮き上がり、形を見せた。その上には、確かに幼児の姿も確認できるが、果たして息はあるのだろうか。

 例の蠕動運動、若しくは、大海の寒さや、恐怖に慄いているのか、波間に時折見える白波と変わらない白い肌は、小刻みに震えていた。一回り小さくなったその皮膚には、やはり、溶け出すような粘着性質が見える。どうやら奇しくも、両親から忌み嫌われたこの異形の肌質が、葦の葉に貼りついて、度重なる遭難の危機を乗り越え、溺死を免れていたようだ。

 そして、その肌の奥には、何かキラキラと輝くものが、埋め込まれる形で、無数に見える。それは、今のように海水を何度も被りは、乾いて出来た塩の結晶であり、幼児の血肉を裂いて、突き刺さるものであった。

 粘液の合間から入り込んで、内側から皮膚を開いたのだろう。傷口の粘液は、その侵入に、機能を阻害されてか、極端に、無傷の皮膚よりも、流れ出る量が少なくなり、透ける皮膚の下には、臓器を傷つけて見えるものも、幾つか確認出来た。


「いざなぎ……いざなみ……」


 体躯と同じように、顔面を痛々しく輝かせても、葉の縁まで弱々しく蠕動し、半月状の笑みを浮かべて、幼児は、両親の名を呼び続けていた。

 胸の内には、まだ、唯一授かった喜悦の高揚が残っているのだろうか、それとも、唯一生み出した不安の焦燥が、未だに駆け巡っているのだろうか。はたまた、別の何かが……。

 すると、この幼児に訪れた新たな芽生えを、言葉として聞くことが出来た。それは、当然ながらも、悲しい言霊を宿して、両親の名を呼んだ後に、ボソリと付け加えられていた。


「…………コロ……ス……」



 気がつくと、幼児は、半身を海水に浸かりながら、岩石で出来た小さな入り江に、打ち上げられていた。周りは灰色の岩場で、忌まわしき揺り篭は、巨大に聳える岩柵の裾で漂い、粉微塵になっている。

 久しく感じていなかった陸の感触は、懐かしく思え、仰いだ曇天も、とても心地が良いものだった。陰鬱に、自己形成した感情が、そんな景色と同調したのである。


「いざなぎ……いざなみ…………コロス……」


 確かめるように、初めて持った生き甲斐を、口にして、笑みを浮かべてみると、この不遇は夢では無い。漂流していた時よりも、更にも増して、新たな感情への確信を得ることが出来た。しかし、今のままでは、衰弱死してしまうことは、何も知らない無垢な奇形児にも、本能的に理解出来た。何かを喰らわねばならない。


 入り江に沿う岩壁。この高い頂上から眺めれば、己の展望が開けるかも知れない。それに、忌まわしき者達の姿も……。何か、その雲の向こうまで突き刺している岩山に、呼ばれている気がして、幼児は鬱屈した本能の赴くままに、岩壁を、よじ登り始めた。

 入り江を飛び越え、孤立に連れ戻そうとする高波が打ち寄せようが、強風が意思を引き剥がせようと吹き付けようが、体内の宝石が疼きをあげようが、痛み等初めから知らぬ故に、精神が、肉体に凌駕され、前進を止める理由など、全く無かった。


 幼児には、季節も日々も無く、時間さえも支配していた。そう、これは、紛いなりにも、神子であるのだから。

 そうして登り続けて、山の頭を隠していた雲を過ぎると、そこは呆気なく、もう頂上であった。幼児は振り返り、文字通り這い上がって来た絶壁から拡がる雲海を、覗き込むようにして眺め回してみた。

 延々と続く雲は、果てしなく広大な拡がりを見せ、虚構の大地を形成していた。途中で途切れて穴を開ける場所には、下界の海の色が、まるで、白い砂漠に湛えた泉のような紺碧を覗かせている。

 しかし、そんな光景への感傷など、一切持ち合わせていない幼児は、ただひたすらに、伊弉諾尊と伊弉冉尊の名を、連呼するのみであった。

 麓の周囲よりも、遥かに狭く小さい、頂上の円周を這いずり回り、空の境目に、瞼の裏の怨恨を宿した暗闇の視線を向ける。

 瞳を見せずとも満ち溢れる純粋な負の感情は、目線を射れば、標的にされた雲など、たちまち雲散霧消してしまいそうな程、強い怨念を漲らせている。

 そんな凝視を渡らせる中で、西の空の果てから、金色に黄昏れた光を感じられた。禍根の臭気も漂ってくる。愛憎の対象である伊弉諾尊と伊弉冉尊が、その空の下にいるのは間違いなかった。


「いざなぎ……いざなみ……」


「よい殺気を放っておるなぁ。そち……。」


 背後から、自分の囁きに合わせて声が聞こえた。それは、以前にも聞いたことがあり、背に、虫酸を走らせる高い方の声に似ていた。


「いざなみ……」


「そうか、それが、そちの殺意を向ける忌まわしき相手か。此処を出してくれれば、そちに力を貸しても良いぞ?」


 幼児が、伊弉冉尊と間違える女の声は、中央に有る絞め縄で括られた巨大な卵形の岩の塊から、聞こえて来た。岩肌には、幾つもの溝が刻まれている。


「……いざなみ……コロス」


「話が解るではないか。さぁ、その絞め縄を解いておくれ」


 幼児は、その台詞を理解して、頬を引いたのかは解らない。しかし、要求は、確かに幼児の欲求にも符合していたと、後々に解ることである。

 言われるがままに、声がする岩の塊へと這寄り、口から酸を吐き出して、縄を解く幼児。


(近頃、海の方から強く感じていた力は、この蛭のような童女が放っておったものか。これは、間違いなく神の力……。ふふふふ、漸く我にも運が向いて来たか)


 溶解する絞め縄が、白煙を上げて蒸発すると、口を利く岩の塊は、走るひび割れに、表面から削れるように崩れて、破片を零し、隙間から白く眩しい光を洩らすと、幾条もの輝きを、全天に張り巡らせて、卵は、内側から弾けるようにして破裂した。

 衝撃に巻き込まれ吹き飛ばされた幼児は、危うく絶壁から転落するところだった。


 波状の風、心地良い肌触りの、生暖かい空気を、全身に受け身震いする幼児が、岩石から孵化した何かに視線を向けると、瞼の裏は、眩しい白色の光を透かした。

 現れ出る光の正体を、母、伊弉冉尊だと思い込んでいた幼児は、声が似ていても、それが全く別の臭いを放つので、思いがけずに当惑し、瞼の裏の視線を固め、その眼前でいる、白く巨大な蛇の存在を一時警戒した。

 そんな幼児の様子と奇形を、紅い酸漿のような瞳に映し込んで見下している蛇は、幼児と似た蠕動で、岩の大地に轍を刻み、尾を叩きつけて卵の殻を砕くと、擡げた頭を幼児へと近づけた。


「礼を言うぞ。蛭の子よ。では、早速にそちの力になってやろう。何が望みじゃ、申してみよ」


「いざなぎ……いざなみ…………コロス」


 自身と似たような、邪念を宿す語気に、幼児の警戒は直ぐに解かれる。


「ほう、それは名を聞くに、神世七代の神の名じゃな……。どんな怨恨を抱いておるかは知らぬが、そちのその未熟な体では、易々といかぬじゃろうな……」


「いざなぎ……いざなみ…………コロス」


「決意は固いということか。……ならばそち、こういうのはどうであろうか……我が代わりに、その者達を葬ってやろう。何を隠そう、我もまた神の端くれなのじゃよ……」


 白蛇は、無垢な幼児に、強かな提案をする。それは、幼児でなければ、誰であっても、その言葉の裏に、一物を隠しているのが、明らかに見え、警戒心を解かぬまま、身構えた筈であったが、この幼さに見える姿態と様相、漲る殺気の執拗さから、蛇は、狡猾に付け入った為に、疑念を未だ知らない幼児が取れる行動は、一つであり、やはり唯一であった。


「そうか。納得してくれたようじゃな。……だが、それには一つ、そちに貰わねばならぬものがあるのじゃ」


 蛇は、衝動を抑え切れずに、早口になり、二股に分かれた赤い舌を、踊らせた。幼児は笑顔のままで、己の何倍もある蛇を見上げていて、蛇の思わず零した唾液を、一滴被ってしまう。


「そちの肉を頂こう……」


 言うが早いか、蛇は無心に見上げていた幼児を、大口を開けて、襲い掛かる津波のように、一呑みにしてしまった。蛇の喉や、体躯を、小さな塊が蠢いて渡っていくのが見える。


「ホホホホホホ。何者かは知らぬが、封印を解いてくれた上に、寝覚めの空腹をも、満たしてくれるとは。その体躯には余りある大きな力は、我がしかと使ってくれるぞ。忌ま忌ましい封印を施した神世七代も、片付けてくれる。安心して糧となるがよい、蛭の子よ……」


 白蛇は、知らずに、今しがた忌ま忌ましいと口にした神世七代の、その子供を喰らった。しかし、それは、誤算であったことを、間もなく苦しみの中で、思い知らされるのだった。だがそれは、狡猾な蛇の浅慮では無く、桁違いな、幼児の怨念がそうさせたものである。

 その吸引力の乏しさから、自分よりも大きな動物の、血圧の強い血流を吸い、空腹を満たし、脱皮をしては成長し、産卵する蛭の性質が示されたのだ……。


 誰かの怨みの量とは、他者には理解しがたく、斯くも執拗に後を引く、苦味の愉悦なのかも知れない。そう、それは、蛭の子と呼ばれた幼児の皮膚のように。


 夜が明けると、岩山の頂上では、一人の幼女が、雲海の向こうに見える黄昏れを、色の無い表情で眺めていた。


「ヒルコか……」


 両親でも無い名付け親は、幼女の背後で、のたうちまわって、何本もの筋を岩肌に刻み込んだ果てに、白い目を向き、脱皮したばかりの、抜け殻の如く干からび、事切れていた。

 ヒルコの胸の内からは、不思議と、あれ程、憎悪の対象であった伊弉諾尊と伊弉冉尊への怨念が、身を潜めるように消えていた。新しい身体、自ら立ち上がることが出来て、皮膚も融解しない、見た目には健常なこの身体が、まるで、それらの怨念を、吸い取ってしまったかのようだった。


「そちのお陰かも知れぬの」


 靡く髪が示す彼方の黄昏れも、もう、気にならない。ヒルコは、深々と深呼吸をすると、風に背中を押され、頂上から飛び降り、雲海の中へと影を作った。冷たい水蒸気が、白い肌に纏わり、心地良かった。



「……く…………さま……。は……しんさま……」


 呼び掛けられて、手頃な岩に、腰掛けていた白神は、夢の淵から目を覚ました。


「終わりました。白神さま」


 燦燦と降る木洩れ日に目を細め、微睡みの中に浮かぶのは、銀髪を結い上げている風神だった。その肩越しの向こうでは、長かった黒髪を、バッサリと肩元まで切り落とした若者が、断崖に立ち、対岸に霞む山々の眺望を、呆然と眺めている。

 その二人の間には、羽振り良く、豪華な装飾が施されている横倒しの馬車と、首筋が裂けて、絶命している毛並みの良い馬が、それを背にした所で、身ぐるみを剥がされ、突っ伏している女と童女の、裸の死体が、それぞれ転がっていた。

 そして、風神は、足元で転がるその一家の長と思しき者が着ていた高級そうな着物を羽織り、若者は、女の着ていた藍色の着物を纏っていた。

 白神も、早速に、風神が差し出す童女の着ていた着物へと、袖を通した。上質な絹の若草色が、辺りの春先色した自然に溶け込む。


「調度よいの。では、行くか」


 胸元で重なる衿を正して、首を背へ折りながら、クルリと一回りして見せる白神へ一礼すると、風神は、その身を風に変えて、周囲を騒がし、姿を消した。


「咲夜丸。行くぞ」


 袂を広げ、空間に、両手で白い次元を拡げる白神が、若者に名を呼びかける。

 若者、咲夜丸は、一介の市井の商人でしかない、何の罪もない一家へ、直接では無くとも、手を掛けてしまった罪悪を感じて俯いていた。慰めに、風神が生んだそよ風が前髪を揺らしている。


「聞こえておるかぁ。咲夜姫ーー」


 珍しくおどけた催促をする白神に、思わず咲夜丸は顔を上げ、冷たい一瞥を投げた。


「二度とその名を口にするな!」


 白神は、前を颯爽と通り過ぎ、白い空間に足を踏み入れる咲夜丸に向かい、目を閉じると、漂う残り香の中で、何を思い返す訳でも無く、ただ、静かな微笑みを湛えた。


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