機械論の神威−覚−(キカイロンノシンイ)
奇形が目指す全能は
赦されず
異形を目指す無能と
刻まれる
咎める者よ野を走れ
裁きし者よ灰を飲め
さすれば叡智が汝の魂
喰らうだろう
誰かの機械論は純粋の果てに
星を造る
真っ白に染まる景色を、誰かが軽い吐息でふっと、吹き消した。すると、貼りつくように立ち込めて盲目を強制していた目隠しは、表面を凪ぐ風に引き剥がされるように取り払われ、一瞬で元の箱庭の景色を取り戻す。
皓皓と差し込む光線に、雲散霧消し消え入る純白の名残り。それと引き換えに、如実に際立つ配置物達が徐々に表れる。
そして、何事も無かったように鎮座し静観する正殿。しかし、面する白砂の庭は対象的に、皮膚の下の痛々しい赤い血肉を晒すが如く、赤茶けた下層の土色を見せ、中央には、まるで、巨大な球体が減り込んだ跡を残し、刳られ窪んでいた。
丸みを帯び湾曲するその斜面に、一つの影がゆらゆらと落ちている。落としているのは、光を月へ返却し、宙空で一糸纏わぬ赤裸々の絹の肌を輝かせ、浮かぶ、映夜であった。天上を仰ぎ見、淡く湿る唇を薄く開いて言葉でも声でも無い、超音波に似た高音を発して、しかしそれは、奇声とも嬌声とも取れる音色で限りない空へと拡がり、響き渡っていた。
空気を伝わり共振する腐敗した自然が、風に靡くようにざわめく。
「よく吠えるガラクタじゃ……」
その足元、影よりも下った窪みの底である円の中心に、塊が一つ。辺りにも二三と細々四散している塊があるが、人語と解る声は、その底にある一番に原形を留めている塊から聞こえた。
ほつれた白色の絹糸を乱れ散らして、土色の大地を土台に傾いているそれは、赤い宝玉を両の眼に宿した生首、幼女の面立ちをした白神であった。周辺の塊は、どうやらその肉塊のようであり、金色に発光しながら先程と同じく、チラチラという高音を起てて、端から砂のような粒子に変わり、宙空でいる映夜の滑らかに浮かべた弓なりの脊柱を、肢体を掠めて舞い上がり、夜空へ溶け込むように消滅していく。
映夜はこれを毛ほども気にしていない。というより、その生気の見えない無表情には、そもそも感情自体を持っているかどうかも怪しく、冷たく見え、無機質である。
「流石に観念しましたか?」
と、正殿の方から声が渡る。声の届く先よりも、早くにそれへ反応したのは映夜であった。己の身長よりも長く美しい黒髪を靡かせ、振り返ると、ふわふわと漂い、降り注ぐ光線を集めるように歪めて、いつの間にか、柱の影から姿を現した問い掛けの主へと向かい、心なし喜悦を見せ、浮遊していく。
傾いた像を赤い網膜に映し、映夜が、その辿り着く肩に、しなりともたれる様子を見るなり、届けられた声に応えて微笑を浮かべる白神。
「相変わらずにくだらぬものを造るのぉ。それが姉へ向けるモノかえ? ツクヨミ」
「……相変わらずに執拗ですね。姉上」
ダラリと縁から庭を覗く、映夜から外れた三本の蒸気を上げる尾を足元に、青みがかる法衣の上を、さらさらと撫でる長髪が、刻々とその色彩を変えるツクヨミと呼ばれる男は、買い言葉に、寄り添う映夜の肩を胸元へ抱き寄せると、その艶やかに透き通る裸体へ、幾重にも重なる極彩色の十二単を、手元より出現させ、纏わせる。
鋭い目元を細め、女のような小口を判らぬ程に頬を引き緩める表情は、嘲笑しているようで、傍らの映夜はそこで初めて、主人である者の、その冷笑を真似るように表情を作って、同じ視線で、眼下に転がる凄惨な姿の肉塊を哀れんだ。
「未だに未練が残ると見えますね」
「戯言を……。ソナタこそ乳離れ出来ぬのではないか? いつまで半身を閉じ込めるつもりかは知らぬが……。我へ未練と言うなれば、意志を継ぐとは言えど、神宝等という玩具にまで縋り、ソナタ共々、今更にアレを甦らせようとしておる。何とするか。顔も知らぬモノがそんなに恋しく募るのかえ? ソナタこそが未練に飲まれているのでは無いか。そのガラクタがよい証拠……」
何時もの、余裕から生まれる冷静さを、僅かに顰める表情に、装う事で見せる白神。しかし、饒舌に挑発するわけではなく、相手を罵る小さな口は、鬱憤を晴らすように開かれ、つぶらな瞳は、未練というたった一語に、一石を投ぜられ緩やかに揺れて、一層燃えるように赫奕としていた。それだけ、自らを姉と呼ぶ、対するツクヨミという者に、何らかの因縁があるのか。語調に自然と不快感を示すと、首筋の中がグルリと蠢いた。
「ガラクタですか……フフフ。まさか姉上から、その台詞を聞くとは思いませんでしたよ。それに、意思を継いでいるつもりはありませんがね。何れにしても、この神宝をお渡しする訳にはいきませんよ……」
ツクヨミが、映夜の抱き寄せた肩の前で、半開きの掌を上向けると、先程まで、映夜を遮っていた御簾の奥が柔らかに明るみ、直ぐにまた暗転し、今度は、その側面だけが、御簾に細かく分散された淡い残照を受け、もう一度照らされる。
ツクヨミの掌の上に現れ、映夜の無機質な冷笑を、顎の下より尚更に冷たく映し、浮かびながら回転して見せているのは、白神の言葉通り、玩具のように縮小された幾つかの、まばゆい輝きを放つ神宝の数々であった。
「……そして、それもねぇ」
目配せをしたツクヨミの視線の先には、中央の窪みの影響か、舞い散ったその血肉を被り、赤銅色に薄汚れた斑を敷く白砂の中で、二つの陰が、弱々しい黒い輝きを受けて、うっすらと浮かび上がっていた。
この、漆黒の輝きに照るのは、人の千切れた腕であり、光源でもあるそれは、黒き宝玉、十種神宝が一つ、死返玉であった。
その輝きが意味するのは、御力の発動、死の返還であり、宿主の再生であって、即ち、主である若者は、先の、白神と映夜の衝突の余波により、衝動的な死を迎えたようであった。
爪のまだ青白い指先が、神経をひくつかせて、ぴくりと微動する。しかし、神宝自体に護られた下膊部はもとより、手首より先は、既に、死からの返還を終えていて、続いて九の字に折れた肘の先に見える上膊、肩から首、そして頭部、胸と、上半身の殆ども、元の生身を形成し、生前の躯を取り戻していた。だが、腰から下の下半身は、未だ黒い影が、本来の輪郭を象るだけで、それを浮かべている大地は、土や砂利を含むどす黒い、粘着質の、血液と体液を併せた液体を溜めて、鉄と硫黄を混ぜたような、死と腐乱の臭気を立ち上らせていた。
それらは、黒い影が人体を象る速度と共に、流れは逆に、主の元へと還って行き、大地に一旦染み込んだ流動の、逆巻きに見える。
「う……うぅ……」
黒髪を、発汗する顔面にばらばらと張り付け、唸り声を上げる苦悶の表情を浮かべているが、宿主である若者に、意識は未だ無い。或いはその表情は、度重なるこの死返の力に対する苦しみ、再生への、無意識の鬱積のように見える。
そして、もう一つの陰。これは白神の懐剣、風神だと思われた。最早、その姿、首から下の肉体は蒸発して、原形を留めてはいないが、神宝を直接宿していた首と、その力に守られた周囲の僅かからこれと解り、白神に似た色をした長かった銀髪が、うなじ辺りでばっさりと途切れ、乱れ、断末魔の表情を隠すが如く、頭部全体を覆っている。
一見する傍目には、この物体が何かと思わせる形骸ではあるが、斑の大地に、人型に沿い遺された幾つもの、拳大の風鐸が、それを裏付けていた。
そして、彼の神宝、八握の剣は、ごく有り触れた一刀の脇差しとなり、銀色の毛に包まれた異様な物体の側で、煌めく剥き出しの刀身を土埃に埋め、転がっていた。
「映夜」
耳元に囁くツクヨミの言葉へ反応して、肩を突き出し、極彩色の袖口からか細い手を伸ばした映夜。その腕は、引かれる袖から手首までを露にしたが、手の先は、水面に浸すかのように波紋を拡げて、目の前の空間に溶け込み、そして指先が、庭の隅で明るむ死返玉の真上に、紫色をした次元の歪みから、ヌッと現れ出でると、その黒い輝きを掴もうとする。
「そう易々とはいかぬわ」
白神のこの呟きが、優位に立つ二人に届くと、黒い輝きを閉じ込めようと、指の間から洩れる漆黒に、掌を照らされる映夜の、次元を超えた手が、急に、その手元へと引き戻された。それは、魔手を赤い光線が遮断した為である。
「ヒン」と耳を劈く高音を発する映夜の腕を掴んでいるツクヨミ。間一髪といったところで、その腕を引き戻したのだが、映夜の指先は、微かな黒煙を上げて、黒ずみ焦げていた。
映夜は、いつも目にする己の玉の肌に備わる美しいまばゆさを、僅かであっても失った事に失念し、ツクヨミの首へと両腕を回して泣きついている。
「フフフ……貴方まで姉上に着いているのですか。確かに……お似合いですね」
回した手で、腰から優しく映夜を抱き寄せながら、ツクヨミが語りかけたもの。それは、今仕方、赤い閃光を発し、血みどろの大地に転がる神剣、八握の剣。
「いつまでもその姿のままとは、お人が悪い。久しぶりに、そのお顔を拝見させて下さい……兄上」
すると、鍔元をカタカタと震わせ、その柄から炎を巻き上げる八握の剣は、それらを捩り寄せて火柱を生んで、勢いよく轟音を放つ業火を、暗い天へと突き刺した。
寝殿全体を、夜を逆巻く、夕焼けの訪れを知らせる赤で照らし、影を伴わせる。
蛍火をパチパチと舞わせ、渦巻く炎の中へと、神剣は、その刀身を消し、代わりに一人の人物の影を、炎の中に浮かび上がらせた。
「半人前の貴様が、我等を止められるワケがないだろう」
燃え盛る炎の中から踏み出す素足は、業火の音と、黒煙を上げて庭を灼く。石も、血泥も、臭気さえも、熔解という過程を飛び越し、一瞬で蒸発して気化した。
立ち上る高熱の陽炎に揺らめき、現出する姿は、褐色の、隆々たる肉体を、肌ける上半身に、腰帯の茶色い、橙の色をした括り袴を履き、その縁や、裾は、湯水の如く湧き溢れる紅蓮の炎を、絡めている。
ざんばらの赤い髪をかきあげて、豪快、豪胆を表したような力強い顔立ちは、大きく口を開いて、見るからに高温の吐息、白煙を、ツクヨミへ向ける強気の言葉と共に吐き出す。
「ケツまで青白い小僧が、我や姉貴に盾突くなんざ億年早い。貴様の陳腐な過信なんぞ、すぐに黒焦げにして、望み通りに獄門の向こうへ散らしてくれるわ」
映夜が、言葉汚く罵る者に、睥睨を向ける。己の手を焼いたことへの怨みか、主への冒涜の台詞か、初めて自ら感情を表し、憤りを宿した。だが、視界が突然、ツクヨミの掌に覆われて暗くなる。
ツクヨミの端正な顔立ちは、先程までとは違い、前方へ伸びる顎に、牙を剥き出す表情は、皮膚を割り鱗に変えて、さながら竜のようであり、その場にいる誰よりも目つきを鋭く研いでいた。
「私は口が悪い貴方が嫌いですよ……」
大きく牙を開き開口すると、夕闇に浮かぶ月光を集束させて、金色の光球を生成し、咆哮するが如く、力の塊を、吐き出すその竜顔。
辺りを覆い尽くす炎を裂き、バチバチと鳴く稲光を弾かせ向かい来る光球を、燃え盛る片腕で、容易に、頭上へと振り弾き、元の月へと、返す炎を纏う男であったが、それは、目論み通りという風に、敢えて軽々と打ち上げられたようにも見えた。ツクヨミは、この男の挙動と反応を予め予期していたのだ。
案の定、光球は、天空で月に戻ると、無数の光の矢となって、豪雨の勢いで、再び地上に降り注いだ。
「うぬ!」
隙を突いて、ツクヨミに襲い掛かかろうと、高熱で足場を熔かして踏み切り、火炎を引き距離を縮尺していた炎塊は、降る無数の矢を、回避出来ずにいる味方を護る為、振り返り様に、二つの火種を、炎を纏った腕を振るい抜き、飛ばした。
身を焼かない炎に包まれる白神と若者を、光は、接触した瞬時に、鏃から溶け、阻害されてしまい貫けない。それを、確認する事なく身を捩り、男は、灼熱の拳を、ツクヨミに向け、再度、力強く叩きつけた。
「やはり、貴方は短絡的だ……」
「あぁ?」
赤々とした拳を、両手に光の障壁を生んで受け止めるツクヨミ。その手は、直接に業火へ触れているわけでは無いのにも関わらず、黒煙を上げている。
「ただ、その力は実に使える。二振りほど欠けているというのに…」
猛り狂う炎が、怒気を増すと、拮抗していた衝突点が、ツクヨミの方へと、ジリジリと音を起てて、押しやられ始める。
「カンに障る野郎だな。相も変わらずが」
「失言でしたか? これは失礼」
耳元まで裂けた口で、笑みを零すツクヨミ。まだ、何手も隠し持つ余裕に、切迫は見られない。そんな笑みを合図にして、挑発に苛立つ男の目の端を、光が瞬いた。
襟巻きのように男の首に巻き付く、他のどの部位よりも重厚な焔へ、眼球が、瞬きを反射的に捕捉したのと同時に、上空から光が一閃した。
両者の衝突時に、空へと舞い上がって、男には、退避したものだと思わせていた映夜が、極光の扇を振り下ろし、放出された半月状の刃で、斬首せしめようと、焔を狙う。
「ククククク」
腕を突き延ばす側面、死角への攻撃に、肩と首を竦めて、鋭角に降る斬撃を、歯を何か噛み千切るようにして食いしばり、耐えて、焔は、抵抗して更に厚みを増すのだが、宙で袖を支え、華奢な片手で、遠隔に扇を振り下ろしている映夜の腕は、己の芯へと向かい角度を、易しく狭めていく。
刃は次第に、隠された首筋に巻き付き、踊り狂う焔を分けて減り込む。
「これが、何より実証されたものですよ……」
首筋に気を取られて、ツクヨミへ向けた意識は逸らされる。拳を被う猛々しい炎も又、それに伴い、解らぬ程に下火を見せると、ツクヨミは、口の両端から白煙を、一つ漏らして、力の拮抗を押し戻し始めた。
その優勢を見るなりに、思いの外、易々と手に入る神宝を前にして、悦を、全身の神経へ渡らせ、刹那的に表情にまで示されたのだが、映夜により、露にして見せた刃と首筋の焔との狭間に、黒いドロリとした影を認めると、ツクヨミは、今までの興奮と力とを、一度に吐き出して相手へぶつけ、褐色の体躯を、折角の好機と共に、弾き飛ばせてしまった。
落胆するように弛緩し、竜顔は、元の端正な作りへと戻る。
「何ですか。それは……」
身を翻し、足場となる庭を着地と同時に溶かして、屈み込む男は、身を起こす際に、ギラリとした敵意を放ち、また直ぐにでも襲い掛かろうとする獰猛な覇気を、剥き出しに漲らせている。
「止めですね。全く、くだらない時を過ごしましたよ。姉上、本物の……」
覇気をいなし、心底呆れ返る語調で、顔を白神へ向け、両腕を退屈そうに、胸の前で拡げて見せるツクヨミ。
すると、一条の白い影が、油断を見せたその主を、正殿の奥へと体ごと貫き、押しやり、突き飛ばした。障害や柱を巻き込む崩落音が、寝殿内を瓦解させて鳴り響く。
舞い上がる粉塵の中を、白く太い影が、刺突から引き戻されて、窪みの底から手を伸ばす白神の元へと戻った。
「油断しておるからじゃ」
裸体の幼女は、先の、衝突の隙に、炎の傘の下で、体躯の再生をほぼ終えていて、腕の先端を白蛇に変え蠕かせていた。蛇は、顔を真紅に染めて、その確かな手応えは、白神に募っていた鬱積の念を、漸く解放に至らせ、深い呼吸は、表情を嬉々とさせた。垂れ下がる本来の太さの十倍はある無数の蛇で形成された腕からは、ツクヨミの血液が、ポタリポタリと滴り落ちている。
映夜が、半壊する寝殿の奥へと追いやられた主の方へ、手を延ばしながら、飛んでいった。
「……大事ないか、迦具土」
窪みから浮き上がり、姿を見せる白神は、薄ら笑いを浮かべてツクヨミの方へ侮蔑投げるカグヅチへと、単調な声をかけた。しかし、それは、カグヅチの身体を、心配しての事では無い様子に見える。
「あぁ、問題ない。……やられっぱなしは、釈然としないが、一旦戻るぜ」
時間にでも追われるように、カグヅチは炎で全身を包むと、八握の剣ヘその姿を戻した。一面を夕闇に照らしていた業火も、共に消え入る。
そして、それを、早速に拾い上げる白神は、素足の裏へ、血泥を引き、撒き散らされている炭と灰を、ザラリと踏んで、四肢を取り戻し、衣までを取り戻そうとしている若者の横たわる傍まで歩み、その乱れた頭髪を、端坐する己の膝の上へ置き、苦痛に歪む表情を隠している前髪を払い分けた。
「さぁ、そろそろ目を醒ますのじゃ。でなくては、風神が消えてしまうぞ」
それは、何よりも優しく、母親が、幼い我が子を揺り起こすような、柔らかい吐息混じりの呼び声だった。
若者が、呼応するように目を覚ます。ぼんやりと、輪郭の境が無い、うっすらと泣き濡れる眼前で、己の顔を覗き込んでいるのは、あれほどに嫌悪し、忌み嫌っていた白神であり、それと、直ぐに判ったが、若者は、不思議と落ち着き刻む心臓に、素直に、相手を突き放す事なく、ゆっくりと、小さい柔らかな白身の膝から、頭を擡げて、上体を起こした。
混濁する記憶、途切れる直前に見た風神の顔が過ぎった。確かにあれは、私を庇って……。
「風……神……」
朦朧とする中、辺りを見渡すと、一層深く刻まれている戦痕に、血みどろの大地に立つ、白神の幼い後ろ姿。その向こう側では、今にも全壊しそうな、軋みをあげる寝殿の成れの果てが見えた。
「ここじゃ……」
振り向き様に、手に持っていた八握の剣を、転がる銀色に覆われた異様な物体の、僅かに覗く、それは風神の、穴の開いたうなじへ突き刺して示した。
何とか立ち上がった若者は、露になる乳房を、右腕で隠し、数歩を歩き、風鐸と、頭部に象られている風神の形骸へと寄り添うと、死返玉を宿した左腕に、力を込めて、八握の剣に力無く触れた。
両者の神宝は、共振と共鳴を起こして、死返玉の能力を、加速度的に増進させて、風神の身体を逆巻きにみるみる取り戻し、形成していく。
三人を照らす赤銅色の輝きの中で、血に濡れた風鐸が、音を篭らせて、必死に澄んだ音色を鳴らせようとしても、その舌は、カタカタと震えるだけであった。
胸の中央に大きな風穴を空けて、南の庭から幾つかの間を突き抜けた果てに、崩れた壁面へ、背中越しに凭れかかり、張り付くツクヨミ。
側では、うなだれる姿態に寄り添い、映夜が、円形の傷口を動物のように、ペロペロと舌を出し舐めている。舌先が傷口に触れる度、金色の微粒子が生まれて、それは、治癒を促進する効果があるのか、舐められた箇所の血液は、一時的な凝固作用に流れを留めるのだが、直ぐに又、溢れ出して来てしまい、映夜の舌は、本来の色よりも真っ赤に染まっていた。
そんな、ザラリとした舌の感触も、冷たい肌触りも、周囲の神経や、臓器が潰されたツクヨミには、感じることは出来ない。
「よく聞きなさい。我が愛娘、映夜……貴女は、これから、私の代わりを、務めなくては……なりません……」
映夜は、尚も、主の傷口を舐め続ける。それは、予めそう動くように、行動を記録された無機質なものなのか、或は、自らの意思で、見た目通りに、動物的な本能に見られる愛情を注ぐ懇願表現なのかは判らない。顔色は、御簾の奥で泰然としていた時分から、戦闘を経て、今に至るまでに、無機質なままであるが、現在の、こうした凄惨な情況も手伝い、その切実さには、後者が見合うようでもあった。
そんな愛娘の、美しい黒髪を優しく撫でるツクヨミ。
「迂闊なことに、今の一撃で鏡を、取られてしまいました。……抜目ない姉のことです。必ずアレと接触するのでしょう。そうなればアレは簡単に丸め込まれ、再び、我の障害に……。また、鏡は、兎とやらにも関係していますから、尚のこと姉には都合が良いのですね……いいですか。白の力は、先に貴女が実感したように、最早、貴女の敵ではありません。ですが、アレは別です。力でどれだけ上回ろうとも、貴女には、手が出せないよう機能が働きますから、そうなれば、誰も母上を呼び起こすことが出来なくなってしまいます。……私は、姉の毒牙を注がれた為、生玉を使用しても、延命がやっと、再び動けるようになるには相当の時を有します。……本当に再生を司るあの力は厄介ですね……。ですから、貴女には、自ら後を追い、アレの復活を阻止し、尚且つ、神宝を全て手に入れ、母上を呼び起こして貰わねばならないのです。……えぇ、勿論、独りでです。……ただ、今のままでは、擬似とは言え、迦具土までも相手にしなければならない。流石に一筋縄には、出来ません。ですから、先ず貴女は、先日、捕えたばかりの、鬼を孵すことを、何より先決にするです。後どれほどの呪魂を、必要とするかは解りませんが、姉の一行も、直ぐには動けない筈、私からも、贈り物を差し上げましたからね。この隙に、鬼を従えて、先手を打つのですよ。判りましたね」
ここまで弱々しく語ると、ツクヨミは、映夜の顎を指先で上げ、その冷たい唇に、血筋を零す冷たい唇を重ねた。
映夜の、胸の内は熱くなり、頬もまた火照り、全身に、血が通い、末端に届く血脈の流れに痺れる感触が、己の体躯を繋ぐ四肢の存在を、まざまざと実感させた。目元から伝う涙に、喜びと、哀しみを覚え、離れた唇から温もりを掠う冷たい風に、怒りを、舌へ染み入る涙の味に、楽しみを覚えて、そうして、感情を知るのであった。
「さぁ、それが心というものです。私の代わりに、機械論の神威を、見事に放ってください。……頼みましたよ」
膝立ちでいた映夜は、覚えたての心に、芽生えた揺れ動く何か分散する気持ちを、中心に集める使命感に似た決意の下、スッと立ち上がる。
「お任せ下さい。御主人様」
か細く吐息の多分に混じった初々しい声と、その力強い視線を確認すると、安堵するようにしてツクヨミは、力無く首を垂れた。
吹き抜けとなった寝殿内に、柔らかい風が通り過ぎ、ツクヨミの変色しなくなった髪と、埃や血に塗れた法衣を靡かせる。映夜は、顔を隠す主の髪を分けようと、手を延ばすが、指先が触れる紙一重で、パキパキと主の体は、石のように固まってしまった。
映夜は、泣いているのか、十二単の後ろ姿、厚みのあるその着物の肩を、小刻みに揺らした。そして、庭の草木を凪いで訪れる風が、もう一度吹きつける前に、そのまま、体を無数の金色の微粒子に細分して、周りの風景に溶け込ませ消え入るのだった。
後には、壁に嵌め込まれて、灰色に硬質化したツクヨミと、二三の水滴に濡れる瓦礫が、虚しく散乱していた。
映夜が転移を終えると、南の庭には、もう誰一人、何一つ残って居なかった。殺伐とした光景は、まるで、何事も無かったかのように、寂寥が佇んでいるだけである。
「逃がしたか……ヒルコめ」
呟きながら歩き、庭に降り注ぐ月光を浴びる映夜。決意が支えてくれているとは言え、やはり、味わったばかりの離別の哀しみは、心に四分五裂の想いを過ぎらせて、心とは、これほどにまで己を揺さ振るものか、と既に懐かしく感じる光の中、映夜の心を締め付けた。
庭の片隅で割れている般若の面に、胸苦しい辛苦を紛らわすように、親指の腹を噛み切り、一滴の血を垂らすと、たちまちに蒸発する面。
映夜は、正殿に上がり、視線がない金色の瞳で、崩壊した寝殿と庭とを掠い、目を閉じた。
「ホッホッホッホッホ……」
次に、映夜が目を開くと、全ては元の美しい景観を取り戻していた。階下では、地中より生え出でた二基の石燈籠が、仄な青色と赤色で、白砂を淡く照らしている。
映夜は、擦り足で御簾を潜り、黒い浜床に至ると、衣を払い腰を下ろして、三本の尾を生やし、荘厳な陰影を作り、指示を待つ燈籠に、薄い唇を開いて、生気ある言葉で命じる。
言葉と共に、溢れる吐息が、辺りを威風で戦がせた。