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浮説神楽ノ庭  作者: No.59
4/6

機械論の神威−弦−(キカイロンノシンイ)

生魄を彷徨わせる魂

完全をその手の内へと

月を蒔く

叡智の為と泣きながら


−−トントン。トントン。裸体を透かされ恥ずかしそうに雲間へ隠れる朧月。その薄明かりの下で夜に映えて響く音。トントン、トントンと聳える朱い櫓門の前に浮かんだ小さな照影からそれは聞こえてくる。

「トントントントン」よく聞くと、いや耳をそばだてるべくもなくそれは、その小さな影が発する弱々しい声であった。


「……何か用かな」


門前の通りから、その陰影の発する擬音に向かって応える様に掛けられた別の声は、透き通り澄んだ低音で響き、締め切られた門と向かい合う小さな陰影の肩をビクリと竦めて振り返らせた。


「あっ。……あの……あのワタクシめ、こちらの方で頼みたき事が有り参上つかまつった者でございまして……恐れ入りますが……あの……こちらの方で……ござり……ましょう……か……」


再び覗く月光に映る小さな陰影は、たどたどしく妙な話し方をする齢は十くらいのボンボリ頭をした童の姿であった。不審者に見られるのを恐れているのか、その声は徐々に気弱に、しかし益々挙動の不審を煽っている。だが、尋ね返された無表情のままの相手からは、意外にも優しい調子で答えが返された。


「そうですか。しかしそれでは中の者には伝わらぬであろう。しっかりと門を叩かねば……」


「え……えぇ……そうなのでございますが……」


その蒼然たる髪を靡かせ、落ち着いた語調とは反対に威風で辺りを払い近づく大人へ恐縮している童。返答した主は、その躊躇いの代わりに朱色の門へと歩み寄りコツコツと握る拳の甲で軽い音を起て手本を見せた。

すると、正面を鎖す一つの間が奥へと迎え入れる様、重たく轟きゆっくりと開口する。しかし童は何故か扉の動きとは反対に慄き後退り尻餅を突いた。


「お……おぉぉ……」


思わず詰まった言葉を一度呑み、改めてから声を絞る。


「だ、大丈夫なのでこざいますか……この門はむやみに触れた者を焼いてしまうと聞いて……」


躊躇いと奇妙な挙動の理由はどうやらそれのようで、口許を僅かに緩めると視点をずらして童の注意を後ろへ引き、もう一人の訪問者はその浮説を正した。

振り向いた童の眼前には門と同色の鬼の彫像。へたり込んだ拍子に思わず門柱へ背を預けていた童は、驚きのあまり背をのけ反らせ横向きに転がり鬼へ向き直ると、合掌を擦り合わせて拝み始めた。


「お許し下さい。申し訳ありません。ごめんなさいませえ。南無阿弥陀物、南無阿弥陀物ー……。…………あ、れ?」


恐る恐る涙目を開いて体に特に異変が起こらないことを確認すると、童は再び詰まった息をゆっくりと吐いた。その様子を眺めていた門扉を開いた者は、一連の拍子に童の着物の裾が乱れそこから木の杖が覗くのに気が付く。


「ソナタ、隻脚か……手を貸しましょうか」


慌てて着物を直し恥ずかしそうに容姿を整える童。


「こ、これはお見苦しいものを……失礼致しました。お心づかい大変痛み入りまする……」


そう言うと、童は産まれたばかりの小鹿の様に四脚になり、鬼を両手で支えにして、生きている脚を軸足に、そちらへ少し体重を傾け反対の杖を蹴り出す拍子で上体を起こすと、ふらつきながらも器用に立ち上がって見せた。


「けれど慣れっこにっ、ございます故……ひえっ、ごめんなさい」


鬼の頭から慌てて手を引く童は、向けられている親切心の眼差しに照れ笑いで自分のうっかりをごまかし、窘められる前にと慌てて話題をすり替える様に壮麗に聳える門を仰いだ。


「し、し、しかしホントに凄い門でございますねー。ワタクシめこんな立派なのは初めてでしたので、つ、つい取り乱してしまいまして……。先程の噂も聞いておりましたので、何と言いましょうか。えっと……」


どうやら相当に恥ずかしかった様で必死に取り繕おうと言葉を探す。そこへ天の助けか童に取っては重たく流れる空気を一緒に運び去る様に、開かれた戸に向かって冷たい凩が吹き入った。勿論、実際のその正体は大人の寛容。まごつく幼児へ対するあやしに外ならないことは当の童には未だ分からない。


「……風も催促しています。どうですか立ち話もなんですから。ソナタ、此処に用事あるのなら先ずは中へと入りませんか?」


藍色の美しい長い髪を耳へとかけて目を細める微笑みの提案に、冷たい風に身震いをした童はそうでございますねと、ここぞとばかりに、それはいい考えだと言わんばかりのわざとらしい笑顔を見せ、杖に弧を描かせながら歩み、更々と背で靡く髪の後に続いて門の中へと入っていった。

反響する足音、童の脚は殊更である。中は外よりも暖かい空気に包まれていて、不快な湿気というより生温い湯に浸かっている感覚。それに、ぎこちない歩き方からかと思われていた童の体の硬さも少しだけ解れて見えた。


「うはあぁー。あれも又すごい絵でございますねー」


天井に画かれている荘厳な雰囲気を醸す絵の数々に、童はそれが何だかは解らず感じた印象のみで答える。胡散臭い美術商のような物言いだ。しかしそんな知ったかぶりの小さな美術商にも解る絵が一つだけ、中心に大きく据えられ高い天井を飾っていた。


「……あれは、お月様ですかねぇ。迫力ある大きなお月様……でも何でデコボコなんだろう……」


さっきまでの尻込みはどこへやら、気持ちはすっかり年相応の好奇心でいっぱいという風で、その表情は新しく見るものに刺激を受けて生き生きと輝いている。童は立ち止まり、その金の色で描かれる月に魅入られた様にじーっと見詰めた。すると、次第にその大きな月が肥大、拡大し、突然落ち迫ってくる様な錯覚に襲われた。


「うわわわぁぁー……」


思わず頭を抱えてしゃがみ込む童。しかし、己の声が篭った反響をし何処かヘ行ってしまうだけで、何も起こらないと確認すると、もう一度恐る恐る見上げてみる。やはりただ高い天井で絵に描かれているだけの小さな月であった。


「どうしたのですか」


「あ、あ、何でもございません……。どうぞお待ち下さいませ」


既に門を抜けて前庭を背景にした振り返る影に急かされ、絵に首を傾げていた童は疑問を置き去りに、その本物の逆光へと駆け出した。やはり、これがどうして相変わらずに注意は散漫。


「敷居に……」


躓き小さな身を前方へ放る。しかし予想通りといったところで、胸元で受け止められる童。


「……気をつけてください」


「申し訳ございません……」


優しく窘められ、自分に少しだけ移ったその麝香の様な残り香に胸を高鳴らせて姿態を整えると、童は機嫌を取る様に目の前に展ける前庭に美点を探した。しかしそれは、そんな稚拙な打算以上の美しさで拡がる光景であったので、童は思わず口を開けたままポカンと呆気に取られてしまった。

緑の下地に中央に据えられた小さな池からの流れが線を引きせせらぎ、渡す橋はその池の中島を経由して対岸へ。中島には幼い桜の木が裸で蕾を抱えている。


「さぁ、足を滑らせたら大変です」


差し延べられた手は冷たく、しかし童は不思議と安堵感に包まれ、暖かい気持ちで誘掖された。申し訳なく思いながらも草木に虫、せせらぎに蛍を見つけると必死に騒ぎ出しそうな好奇心を押し殺そうと試みるのだが、どうしてもその度に視線が釣られてしまう。それは文字通り手に取るように相手に伝わっているのか、その歩幅は自然と童の小さな歩幅に合わせられていた。

中島を渡す橋は漆黒に金の模様で装飾され弧を描く。


「落ちないでください」


自分の肩ほどの高さにある欄干にしがみつき、青白く明るむ夜空を背負って覗き込む姿を覗く鏡の中の童。調度その木の棒がふらつく足元辺りでは円形の金色も映り込んで曲芸師の玉乗りに見える。水面でしか見えぬ橋の側面にも描かれた月の遊びに一緒になって脚を動かす童だったが、早々に風で水面を崩されてしまうと、玉から跳び降りた。

楕円をした中島の幼い桜はまだ童と同じ背丈。忍耐から解放されてしまった童は通り過ぎ様にぴょんぴょんと跳びはねて一時の兄気分を味わうも、振り返る笑みにまた照れ笑いで直った。だが童は今では緊張こそすれどもう恐縮はしていなかった。それは懐かしい感覚。

誰も渡れ無い塀際の築山に咲く一輪、その紫色の花を誰が植えたのかと不思議がりながら対岸へと渡りきり、童と先導者は正殿の南庭へと至る。


「少し待っていてください」


一足先に白砂を踏み音を起てて行ってしまう漆黒に靡く後ろ姿を、離れた手の温もりとで少し寂しさを感じながらも「はい」と見送る童。それでも一歩だけ追ってその砂地の感触を確かめる。足元は同じ音を起てたが、棒切れは小石の隙間に埋もれ引き込まれる様で体勢を崩してしまった。

何とか立ち直ると、そこでふと、誰かに呼ばれたような気がして首を回し振り返る。

今まで一つ一つ目にして来た景観が果てしなく広がる夜空と一体になり、それ以外を借景にしている広大な庭。ゆっくりと流れる雲に際立つ、その吸い込まれそうな眺望に少しだけ物怖じしながらも、声の主を右から左へ下から上へと探してみる童。

築山の紫の花か、中島の幼い桜か、はたまた一緒に遊んだ橋げたのお月様か、放されている夜光虫達かもしれないし、空に瞬くお星様かもしれない。全天ぐるりと見渡してみる童の視線はきらきらしながら、やはり、一番に目を引く門へとその焦点を合わせた。遠くで縮小しても威厳に満ちた存在感で聳えている櫓門は、距離に関わらず尚も威圧感を与えている。


「あれれ?」


当然、寝殿内にいるのだから庭園から眺めれば門はその裏側を見せている筈であるが、入る時と同様に己に対して正面を向いていた。童は特別に視力が良い訳では無いが、櫓や装飾等の外観の向き、観音開きの門扉は奥へ開かれ、脇の門柱には拝み倒した鬼の彫像が括りつけられて見える気がして仕方がなかった。更に朱塗りの筈の全体のその色彩は紫色に発光して見える。目を袖で二三度擦ってみても、やはり変わらない。妙な事だと思い耽ていると「早くおいで−−助」そう名を呼ばれた。そして幻聴は童の瞳を空虚に預けさせると、来た道を戻らせようと杖に弧を描かせた。


「どうしました。……足しの助」


一二歩後進した所で、背後からの静かな呼び声を聞き我に返る童。


「はっ。あ、あぁ……いえ何もございません」


こちらに来る様に呼び掛けられた童は、はて、自分は名前をいつの間に名乗ったのだろうと不思議そうに思案しながらも、記憶が寸断していた事など構いもせず、声の主が待つ正殿へ向かい不安定に歩みを進めた。何故か心が弾む。先でゆらりと煌めく二基の燈籠は、正殿内から童を見詰めるその御視線に畏まり問い掛けた。


「見つかりましたか。頼りありませぬなぁ……」


と翁。


「あれがほんにそうなのですか。カグ−−」


「わぁああぁぁーー」


嫗の声を掻き消す程の絶叫で庭に突っ伏す童。


「ゆっくりで構いませんよ。走るには危ないですからね」


くすりと微笑む声とは対象に、不愉快そうな表情の嫗。傍らでホホホと笑う呑気な翁の声にも嫌厭を表して見せた。そして己の体から蔓を延ばすと童の体に巻き付け、その身を引き寄せるが早いと、しかし最中も童は怯えて抗い喚くので、嫗は御前であるにも関わらず手荒くそれをつい放ってしまった。どうやら嫗は五月蝿い餓鬼が嫌いなようである。

そして、頭を摩り起き上がろうとする童を強く窘める。


「ここは御前じゃ、いいからそのままで座っておれ」


流石に語気は荒げ無いが、十分な威圧を乗せる。


「そんなきつくせんでもええじゃろ。のぉ……」


覗き込む御霊に見下ろす傀儡。


「も、も、もののけ〜悪霊退散、あくりょうたいさ〜ん」


睥睨する傀儡に心底脅えて声を詰まらせる童が取り乱すと、翁が近づきヒソヒソと助言した。


「あの婆さんはせっかち屋での。儂や主の様な鈍まが嫌いなんじゃ。そこで静かにしておりゃ噛み付かれはせんわ。少し黙っておりな」


ゆらりと横顔を青白く照らす御霊にそう耳打ちされると、童は両手で口を覆い首を縦に何度も振った。


「足しの助」


荘厳がその不謹慎な空気を一節で薙ぎ払い、燈籠を童の両脇の正位置に直らせる。


「ソナタ此処へ用があると言っていたが、それは如何なるものか」


一同を見下すその瞳に、先程までの馴れ合いの親近感に宿る優しさと慈しみは微塵も無く、変わってあまりに厳格な威光を放っているので、童は恐縮を取り戻して物怖じしながら弱々しく口を開いた。


「あ、改めまして。私め、名を足しの助、と申します。生まれが……在りません故姓はございません。じ、実はこちらで、こちらに生わせられるカグヤ様といわれるお方が如何なる……その……呪いも解くことが出来ると風の便りに伺いまして、僭越ながら参上させていただいた次第にござります……」


僅かな沈黙、とも言えないほんの些細な間さえ、庭にいる者らには悠久の重圧と変える神威を放つ主。


「見せてご覧なさい」


童は頷き、正座を崩し片側へ九の字に折り曲げる様な姿勢の足から、木製の義足の方を前へと出す。そしてそのまま反対へと折るとハの字になるように座り直して体幹を安定させ、両手を挙げて頭頂部に作り結んであるボンボリを解いた。ごわごわと傷みきった長い髪がバサリと拡がり、その童子特有の小汚い顔を隠す。


「こ、こ、これに……ございます」


童は髪を両に分けて視界を開くと、頭を下げてボンボリに隠されていた頭頂部を恥ずかしそうに見せる。そこには、まだ短いが、皮膚を貫き飛び出す骨の様なものが、三角錐の角として有った。


揺れる焔。


「角ですか……それは?」


無表情のままに尋ねる問いに、童はその表情を少し曇らせて、語り始めた。


「……私め、齢が九つになるのですが……先程申しました通り、生まれた身の上を知らぬ孤児でありました。それが、とある村にて育てられたのでございます。育て親に伺えば或る日の明け方の事、まだ話せぬ立てぬ時分の私めが、村の入口にてわぁわぁ泣く事もなく這っていたのだそうで、その村では取り立て飢饉も無く、私は人懐きも良かったそうですから放っては置けぬと、それから村の子として育てられる事になったのでございます。初めは勿論角などは無く、五体満足にございました。変わっていたのは肌の色ぐらい、その村の民族は皆褐色をしておりましたので……その他は村の童子らと何ら変わる事なく愛情深く育てられ、物心着く頃には共に野山を駆け回っておりました。そんな或る年、今から三年程前、秋の深まる頃にございます。村に事件が起きたのです」


「事件」


「左様にござります……。私めは友等といつもながらの山菜や木の実などの食料採集を兼ねた縄張りの山での戯れを愉しんでおりました。日も傾き始めた頃になり、村に戻ろうかと山道を競争し転がる様に駆け降りていたところで、その中の一人が突然膝から崩れると、本当にぐるぐると山肌を転がり出したのです。私らは足を滑らせたのかと皆で一斉に駆け寄りました。しかし、漸く木にぶつかり止まると、その首筋には一本の矢が刺さって、白目を剥いて事切れておりました。……私……らが青ざめた顔を見合わせると、同時に……怒号が山へ響い、たのです」


泣きべそを拭いながら懸命に語る童。


「声の方を見ると、甲冑に身を包んだ武者達が徒党を組み、突然、私らに弓を引くのです。私らは蜘蛛の子が散るようにわらわらと離れ離れに山中を逃げ回りました。慣れ親しんだ山の地形が弓矢を防いでくれましたが、相手は地の利がこちらにあると知ると、太刀を振り上げ執拗に追い立てたのです。一晩中野太い声に聞き耳を立て逃げ回り、息を殺し潜みました。やがて朝が訪れるといつの間にか薮の中で眠ってしまっていた私は、瞼の隙間ににチラチラと差し込む光に目を覚ましたのですが、その朝日は、獲物を狩ろうという世にも恐ろしい愉しみにぎらつかせる眼で見下ろす、大男が振り上げる太刀に反射していた恐ろしい輝きだったのです」


鼻水を啜り、恐怖と怒りに小刻みに震える童の声と身体。小さな手が義足を撫でる。


「間一髪身を翻しましたが……この脚はその時に落とされてしまいました。……そのまま斜面へと私は自ら転がりました。その先が沢へ通ずる絶壁だということは判ってはおりましたが……案の定、狂人は追っては来ませんでした。出血の量を見て助からぬと高を括ったのでしょう。私は沢へと落ちました。自害のつもりでした。しかし、私は……幸運にも意識を取り戻したのです。そこは村の裏手に流れる水汲み場の岸辺、どうやら私は無意識に川まで這い出し流れに乗ったようなのです。朦朧と意識が何度も途切れそうになる中、何処へと分からずに這っていると、更に幸運な事に、そこへ瀕死の私に差し延べる手が有ったのです。そうして私は、その大恩あるお方に一命を救われたのです……」


痺れを切らした様に嫗が責っ付く。


「して……角はどうしたのじゃ」


涙を拭うと童は一角を撫でながら答えた。


「えぇ。実はその落下した時に出来た瘤だとばかり思っていたのですが、一向に消えぬもので、反対にこんな角へ角へと成長するものですから、そのお方にご相談したのです。一体どうしたものかと、するとこちらの噂を頂きまして、こうして今回お目通りに参った所存でござります」


「その、お方とやらはいずこに居るのじゃ……一緒ではないのか」


翁が問うと、一層暗い顔に俯く童。両手で膝の上の着物を強く握り占めて悔しそうに話した。


「大病に、掛かっておりまして……それでも私にこちらへの道程をと、日夜情報収集に奔走した揚げ句、やっと掴んだというところ、私めがいよいよ出発するという前日の夜半に……」


「ほぅ。そうか不便じゃのぅ、人間−−」


「足しの助」


翁が軽口を叩く所でその声は遮られ、再び辺りの空気が張り詰める。階下へ降りる姿を、泣きっ面で濡らして見上げる足しの助を除いては……。


「話は分かりました。……いいでしょう。亡きソナタの恩人、その命を賭した努力が報われる様に計らいましょう」


「ほ、本当にございますか」


「えぇ」


泣きっ面のまま声を明るめ、笑顔を見せようと頬を吊り上げる足しの助は、再び優しい語調を取り戻したその返事に心の底からの歓声、哀しみの涙を喜びの涙に変えた。


「では、こちらへ来なさい」


正殿内へと案内されるがままに、足しの助はボンボリも直さずに髪を振り乱し、後を追い上がって行く。正面、障害が隠す奥の間には誰か居るようだが、脇の廊下を脇目も振らずに更に中へと進んで行く。

蝋の明かり取りが定間隔で足元を照らし、薄く明かるむ寝殿内を奥へ奥へと向かう中、人物がその前を通るだけで自動で燃える照明にも、前を行く者に揺らめき照らされる影が無い事にも、待望に夢中の足しの助は全く気が付く事は無かった。

庭に面した正殿を南とすると東と北の方へ、右手奥の方へと向かう二人。そして廊が行き止まるところ迄来ると、一つの部屋が口を開けて待っていた。そこは東北対と呼ばれる部屋。

足しの助は促されるままに廊からの淡い暖かな光が差し込むその部屋へと入る。他には何も無い四角い空間には、中央に供物を供える為の物か、小さな黒い台座がぽつんと置かれているだけであった。


「そこへ立ちなさい」


「こちらにございましょうか……」


揺らめく明かりを背負い部屋の前から小さな背中を押す陰影。黒い台座の一歩奥へと進み、その陰に向き直る足しの助。足元から延び背後の壁面に映りこむその影は、広がる髪、飛び出す一角と、その風貌は影だけをみるなら最早人には見えず正しく鬼であった。

足しの助は視線を落とし、高価に見受けた漆塗りの台座を見ると、それはその黒い塗料をぽたりぽたりと溶けるように零していた。これは何だろうと足しの助が尋ねるべく面を上げると、相手が先に口を開いた。

ゆっくりと唇が動くも何を言っているのか聞き取れない。そこへ、足の裏、指の合間が濡れる感触に気が付いた足しの助は驚き、咄嗟に足を引き上げようと試みるが、粘着性の強い黒い液体に、いつの間にか膝上まで浸り動かせなかった。それは黒い台座から次から次へと溢れ出している。

足しの助は当惑し、助けを求めようと正面の陰へと視線を投げ掛けるも、眼前は既に体を這うように昇ってくる黒い液体に覆われ視界を塞がれてしまい、声も出せずに液体に飲み込まれていく足しの助。必死に掻き分けもがくも、やがて力尽き、最後に大きな気泡を吐き出すと、遂には溺れてしまった。

黒い塊の中で弛緩する足しの助を包みながら、液体はその場で僅かばかり宙へと微動しながら浮き上がる。そして二三度鼓動して見せると、泡が弾けるように破裂した。

微笑みの見詰める破裂のその跡には、一つの童の彫像が出来上がっていた。


「こうも容易く鬼児が手に入るとは、フフフフ……もうすぐですよ……カグヤ」


そう言った陰が明るみの廊へと消えていくと、その部屋は、唯一の口を部屋中に飛び散った液体が集まり形成した黒い壁で内側から閉ざし、表側を黒い呪符塗れに覆い隠して、周りの壁面と擬態するが如く同色に変わる。そして東北対は、その存在を消したのであった。


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