機械論の神威−始−(キカイロンノシンイ)
全てを喰らいし一者
唯我独尊
魂叡智も興の外
唯我独尊
月明かりの宵の下、カグヤと呼ばれる者による解呪の儀式は既に始まっていた。
白く敷き詰められている庭の砂は月光の金色を取り込み、その反射光の描く五茫星が、呪われし者を中心に据えて輝き囲む。
法陣から放出される気は、若者の髪や衣を鶸色の光で染めて吹き上がり遥か上空まで続くと、一本の柱を産んで夜空と寝殿とを月明かりよりも強く繋いでいた。
儀式台に乗せられた左腕の中では、漆黒の宝玉がその幻想的な輝きを映し込み、僅かずつにその宿主から古傷を揺らし浮き上がろうとしていた。
「痛みは無いじゃろ?神宝自身が在るべき場所に帰ろうとしているからの。他所、つまりお主に取り込まれる時とは違い拒絶をしていない訳じゃ。……まぁ、それも神宝と交信できうる能力を持つカグヤ様の御力の賜物じゃがな……」
「しかしほんに良いのか?この玉を失えばその力に頼って生かされとるお主の存在は恐らく消えてしまうじゃろて……」
光の中で静座する若者の傍ら、被さる青く燃える護符を赤く燃える短剣で、若者の腕に巻き付いていた白き蛇ごと白砂の地に突き刺し押さえ込んでいる翁と嫗が、最後の確認の為にその光陣の中へと声を掛けた。
しかしそれは儀礼的で、声には引き止める様な再考を促す語気は含まれてはおらず、寧ろ二基の灯籠はこの儀式を待望していたのだった。若者は気付かないが、足元の白蛇が儀式を阻害しようと抗う度に、串刺し押さえ込む力はこの機を逃すまいと強まっていたのである。
そんな二つの灯籠の思惑の下で、のたうつ白蛇を横目に若者は静かに口を開いた。
「三百年……。多寡が人間には永過ぎる歳月だ……」
宿し続けた漆黒に較べれば遥かに淡く映る夜空の黒さを仰ぎ見、鶸色の円陣に囲まれた中から透ける揺らめく月光をその瞳に宿すと、漸く訪れようとしている『死』という解放の訪れに目を閉じて穏やかな笑みを浮かべた。不可解な存在となってから三百年間の様々な記憶の交錯を、一つ一つ思い返す様に。
「そんなもんかのぅ」
漆黒の宝珠がその身を宿主から半身程抜け出した頃、若者は自らの視界が虚ろに、眠気にも似た気怠さと共に夜空が霞むのを感じる。だが、まだ半分。今か今かと焦燥する灯籠は燈した焔を強めて顔を見合わせた。
すると砂の上で杭を打たれる白い蛇は、唯のサラシへと変わり端切れとなって砕け散った。
「……おや?」
しかしそれは灯籠達の意識の外である。
「悲しいのぉ……」
聞き覚えのあるか細く幼い、しかしどこか荘厳を秘めた冷淡な声、若者の畏怖と憎しみの対象となり舌へ無意識に汗を溢れさせるその声は、突然に寝殿全体へ囁く様にしてゆらりと渡った。
「……白……神……」
闇夜にもくすまない純白の白い髪に白装束、そのアカズを装う顔を隠す朱色の絹が、周囲一帯を取り巻く生暖かい風に靡いている。
「それは、我とソナタとを繋ぐ唯一の絆であろうに」
遥か後方の塀の上で夜陰に陰る表情は、反射的に体を強張らせてゆっくりと振り向く若者に向かい、頬を引く程度に薄く微笑む口元を覗かせているのが離れていても判った。
「ほぅ……あれが話に出て来た神様とやらかなぁ」
翁が呑気な調子でそう言うと、嫗が厳しい口調で叱咤した。
「ぼけ爺が。また結界を張り忘れたねっ!」
「いやいやぁ、そんな事無いんじゃがなぁ……ほれ」
御霊がその身の青白い焔を揺らすと、目に見えぬ結界が具現化される。
寝殿の白塗りの塀に沿い、巨大な炎柱が何本も重なり合い天を突き、連なる一枚の壁となり轟音を立てて、外界から隔離するよう寝殿全体を取り囲んで夜を明かした。
「そんなら力を惜しんだんじゃろ。ほんに全くモウロクしおって!」
「いやいやぁ。順路の通りに門から入らにゃ焼け死ぬ筈何じゃがのぉ……これ、そこでキョトンとしとる若者……何故じゃ何故あれらは入れるのじゃ」
嫗に叱責され取り乱す翁は、何とか責任を転嫁しようと近場の若者に当たりつけるが、しかし当の若者は文字通り蛇に睨まれる蛙のように、その身を緊張で固めてしまっていた。
拭い切れない植え付けられた畏怖や、唐突の邂逅で驚き入るところもあったのであろうが、その因縁を凝視する目には、他の悔しさを滲ませている様にも見えて、歯は強く食いしばられている。
「……やれやれ……ほれ、しっかりせんか」
見兼ねた嫗が、気付けに眼前で火花を散らせて見せ、若者をはっと我に帰らせた。
「ところでもう一人は何じゃ。お主の話には出てこなかったではないか?」
白神の脇に立つ者がいる。腰元まである長い髪を全て後ろへ流している青年。青白く照らし過ぎる火柱の明かりでその色ははっきりとしないが、衣の袖や裾などの端々からは幾つもの風鐸の様な物を下げている。そして。
「……いや……何度も顕れていた……」
釘づけだった瞳を一度閉じ、振り切るようにして少しだけ視線をずらす若者。
「邪気や瘴気を私の元へと運び、巨獣を跡形も無く消し飛ばした正体さ。白神の懐剣であり……私と同じく奴に囚われ殻となった者でもある。……風を産む神……名を……風神……」
「ア゛ア゛アアゥウゥゥアーーッッ!!!」
若者がその名を口にすると、辺り一帯に突如として激しい旋風が巻き起こり、それは寝殿を取り囲む眩しい青白い業火の結界を、まるで蝋燭に灯る火を吹き消すかの様にいとも簡単に消し飛ばした。瞬間的に夜を取り戻した景色に若者の目は残像を残して少し眩む。
寝殿が再び淡い月色に映える中、塀の上では、身体をのけ反らせ突然奇声を発した風神なる者が、今度は力を抜いて弛緩し、前屈みにうなだれていた。そのうなじからは、髪を分けて八方へと拡がる多様な形状をした八本の剣柄が覗いて見え、翁が身を乗り出して声をあげた。
「あれは……そうじゃな嫗」
己の能力を容易に打ち消された翁だが、その首筋の陰影を認めるなり、寧ろ歓迎するような表情で焔を煌々とさせた。
その様子には、話題をすり替え嫗からの責めを免れんとする口実に利用しようとの魂胆が見えなくも無いが、しかしその揺らめく炎は確かに攻撃的な猛りで盛り、一方の尋ねられた嫗の炎も又同様にして、まるで狩猟儀礼的な同調を見せていた。嫗の不機嫌な口調が若者へと確認する。
「あぁ……いかにもそうだ。あれも死返玉と同じく十種神宝の一つ『八握の剣』……神宝は白神に囚われた証でもあるのさ……」
灯籠達の推察に確信を与える若者は、その喜々としている様子とは反対に恨めしげに塀の上の陰影を見つめている。
神宝へと向ける因縁が、圧倒的に強く込み上げ、胸に巣くう憎悪や怒りの前では、灯籠達の思惑等はどうでも良かった。
本来なら白神も又、愛玩に選んだ者のそんな意識のみを受け取り、実際その為に此の場へと現れた訳だが、しかし、対象的な二つの意識を向けられた白神が選んだのは、灯籠達の不敵な思惑の方であった。
「そうか。神宝を集めておるのは貴様らか……。こんな異次元に居っては通りで見つからぬ筈じゃ……」
足場を蹴り、ふわっと塀から軽やかに飛び降りた白神は、真下にでは無く、一同が集う場の眼前へと白い光と共に転移し現出した。
「……神宝を集めている?」
怪訝な表情でどちら側へとも無く尋ねる若者。
「そうじゃ。我が百年に一度しかソナタに逢わなかったのは、幾つかの神宝が行方知れずでな。その探知に時間を割かれてしまっていたからなのじゃよ。……御蔭でソナタの死返玉にも風神の剣にも複数の兎を詰めてしまい負担をかけた。済まなかったのぉ……」
言葉だけの謝意を笑みで表す白神は、更に歩み寄り、鶸色の円陣の中に居る若者の黒髪を優しく撫でた。その手は、光の中で翠の炎に焼かれているが、全く動じている様子が無い。若者は頭から振り払うように睥睨に嫌悪を込めた。
「フフフ……相変わらずに愛い奴め」
白神は燃え盛るその手を滑らせ、そのまま愛玩の腕から浮き上がり始めた宝玉を、裂かれた傷口へと強制的に、しかし光陣の抵抗等は構いもせずに手易く押し戻した。
若者は咄嗟にその手を振り払う様にして腕を引いたが、反動で贄を乗せた台座が法陣を転がり出てしまったので、天まで聳えていた鶸色の円陣は光を失い、途端に消え去ってしまった。
「くっ……おのれ、白神め……」
中断される解呪儀式。
「これこれ白いの。困るのぉ、そんな勝手をされては……」
「それに恰も儂らが神宝を盗んでいるような言い草ではないか……。この者は望んで此処に居るのじゃ。儀式が済めばこの黒き玉も在るべき場所に戻るのじゃよ……」
その今まで通りのゆったりとした口調とは裏腹に、挑発的な殺気を垂れ流す二基の灯籠は、挟み込むように白神へと斜に向かい合うと、向けられる気勢を受け流し、まるで相手にしていない白神が嘲笑う。
「篝火風情がよく喋るわ。貴様らのほざく在るべき場とはそこであろう?くすねた神宝の力が洩れているではないか。この白神を惑わせるとでも思うてか……」
声は前方へと投げられ、自らのその台詞を追うようにして白砂を踏む白神は、正殿の奥を睨み射抜く。
「そうはさせぬよ」
温和でゆるりとした老いぼれの声色は一転して、低く攻撃的な貫禄を持つ。
周囲を陽炎に微睡ませながら青い炎の太刀へと姿を変えた御霊を手にすると、節々から溢れ出る血肉のような赤い業火で包まれた傀儡は、無警戒に油断するその背後から、聖域を侵し主の元へと足を向ける曲者を突き殺そうと飛び掛かった。
白神の背には微々足る緊張も動揺も見えず、余裕を見せるというより、自らの庭を歩いているかのような平然さでいる。それは、美しい銀髪を靡かせる風を見越していたからであろうか。燃え盛る切っ先が更に明るむ白い背中を焼き射つる寸前、側面からの唐突な力の圧迫が、灯籠を吹き飛ばして舞い上がる砂塵へと音を立てて沈ませた。
「触れさせぬ……」
だが、唐突な力の正体は未確認のままに、尚もまだその砂塵の中から赤い業火を纏う鋭い木片が蔓の様に伸び、諦めずに侵入者を突き殺そうと向かう。
「フレサセヌ……」
呟くような中性的に高い声色が聞こえると同時に、またもや殺意は届かず白神の目前で切断された。吹き飛ばし切っ先を切断した相手の沈む粉塵に向かって、風塵が庭を掠い砂を巻き上げながら吹き入る。
「目障りなガラクタ共じゃ……さて……それにしても主、よくも泰然としておられるのぉ。この白神が気を掛けてやっておるのじゃ、表情を見せぬか。無礼であろうに……」
正殿へと上がり込み、カグヤという存在を隠す障害を除こうと手を伸ばす白神。
すると、今まで眼前の庭で何が起ころうと我関せずと微動だにしなかったカグヤが、障害の裏側で掲げたその手の陰影を、漆黒を漏らす隙間からその指先を僅かに覗かせ意思を見せた。
二人の透き通る程に白い指先が触れ合うかと思えた紙一重。と同時に、突然、後方から壊崩の衝撃音が寝殿全体に響き渡った。
目の前で起こる情況をただ静観するしか無かった若者が、轟きへ咄嗟に振り返ると、巻き上がる塵芥の中、崩れ落ちた瓦礫を背に張り付けられている人の姿が有り、それは紛れも無く白神の姿なのであった。
慌てて正面を見返す若者、確かにカグヤの目前まで迫っていた白神の姿はそこには居らず、一瞬で、塀を崩落させる寝殿の端まで吹き飛ばされたようであった。
「ホホホ。自業自得じゃの、死んで詫びよ白いのや」
風神と対峙する翁が皮肉を投げる。決して不遜等ではない自惚れに見え隠れするその絶対的な神の力を持つ白神を、いとも容易に払いのけたカグヤのその潜在能力に、実際に白神の力を何度も体感していた若者は驚愕し慄いた。
だが、若者に拭い去れない畏怖を植え付けた白神の力も又、戦慄の対象。波状に輝いた白い閃光が、瞬間的に己の周囲の瓦礫と煙幕を弾き飛ばすと、白神は無傷でケロリとして立ち上がる。
「やれやれ……衣が汚れたではないか。それにこれでは意味を為さぬな……」
砂埃に汚れた白い衣を手で払い、こめかみから外れ掛ける朱い絹を完全に取り去り放る。それは庭に触れると液化して重たく粘り、地中へと朱く染み込んだ。
露にした素顔は、その語調に反して幼女の様に幼く見え、共に美しく妖艶を兼ねている。冷艶の表情を彩るのはやはりその瞳、禍々しい赤い輝きがゆっくりと見開かれた。
「……解放……するのか……」
解放とは何を意味するのか、身構える若者を余所にそれは途端に杞憂で終わった。
「案ずるな。ソナタを巻き込んで解き放ちはせぬ。死返玉が不安定な今の状態のままでソナタが死んでは、また還れるかどうかはわからぬからな」
「何じゃ無事か……」
がっかりした様子の灯籠。対峙する狂風は、傀儡の燃える瞳が自分から外れるその隙を見逃さなかった。
「オマエタチ、カンケイナイ、コワレロガラクタ」
炎と風が衝突する箱庭内を、圧縮され渦巻くその熱風に衣をそよがせて縦断する白神の瞳の色が、黒く変わる。
「……それにしてもオイタが過ぎるのぉ。御主、仕置きが必要かえ?」
力は抑える様だが、それでも戦意を漲らせている白神は、正殿の奥で泰然とし続けるカグヤを指差して言った。しかし、その違和感を本人よりも先に、動向を注視して窺っていた若者へと気が付かせるのであった。
「ん?……何じゃ。案ずるな、直ぐに終わらせて可愛がってやるから待って−−」
そこで漸く異変に気が付いた白神。視界の片隅に入った指を差す己の手が、何かノイズの様なものを伴い、指先から徐々にチラチラという高音を立て、浸蝕されるように消滅していく。
「何じゃ?これは……」
月明かりに手を翳して不思議な現象をまじまじと見入る白神だったが、既に肘から先が分解され宙に散り消え入り、尚もノイズは浸蝕を進めていた。
白神は、躊躇いもせずにもう一方の手刀でその肩から先を切り落とした。白砂が白い衣に包まれた僅かな上膊を受け取ると、そのまま捨てられた肉塊はノイズに塗れて消え去った。
「ほぅ……」
白神の肩から先の傷口からは血が滴っていない。その代わりに数匹の白蛇が巻き付き合いながら産まれ出ると、あっという間に失った腕と手にその姿形を変えて組織を再生させた。
「成る程……そういうカラクリか……」
白神は新しい腕の感触を五指を動かし試しながら、前方のカグヤを見据えてそう呟く。表情も口調も変えないが、その瞳は赤と黒、交互に色彩を変えて好奇心と殺意の間の衝動に揺れ動く。
「しかし……試すかえ?……否、抑え切れぬわ……風神」
空言の後で下僕へと呼びかけると、風神は戦闘中の相手から遠退き、若者の元へ飛び、抗うその身を抱き寄せ上空へと舞った。
「風神っ?離せ!」
「前言撤回ジャ……」
「ハクシンサマタメス。オマエモボクモアブナイ」
「何じゃ?逃がしはせぬぞい」
既に眼下で豆粒ほどの大きさとなっていた灯籠達が凄まじい跳躍力で上空へ迫るも、強烈な風が吹き注ぎ、強制的に間合いを離された追っ手は庭へと凄まじい勢いで叩き付けられた。
風神の首筋からは八本の剣柄全てが引き抜かれ、炎の刀身が切っ先を八方に向け、二人を包む球体状の火炎の結界を張り巡らせる。
「くっ……やはり解放するのか」
若者の予感は今度こそは杞憂に済みそうに無いと、この風神の行動が示す。
一方、大地でばらばらに砕け散った灯籠達。傀儡は自らの破片を寄せ集める様に散らばる木片の繊維を互いに伸ばし、引き寄せ合い、元の形を形成していき、御霊は、若者が試練の際に積み上げていた妖魔の死骸の山からその魂を無数に抜き出し、自らに集束させて、二基はその姿を取り戻した。
「ありゃりゃ、空中に居られては利が無いのぅ……」
「さすれば……」
灯籠達の殺気が、カグヤを正視したままの地上の白神へと向けられる。
「ほっほっ、気がついておるぞ白いの。お主の首に掛けられておるそれも神宝であろう?『蛇の比礼』じゃ」
「カグヤ様の手を煩わせるほどでも無い。儂らが剥ぎ取ってくれよう」
布告と共に、御霊はその形状を再び変えて青い炎の般若の面となり、傀儡の顔を被い紅蓮の長い髦を後頭部から拡げ、傀儡は、節々からの赤い炎を揺らめかせながらその紅を下地に躯へ巻き着かせると、更に降り注ぐ月光の金色に被われて、金箔の散りばめられた綺羅びやかな鬼女の能装束を纏った。
「さて、そちの慟哭、我が主へ捧げる祝詞とし、死狂う舞を我の神楽にて興へ変え、崇めの能とし御見せしようか……」
天へ引き抜くような甲高い声と、地へ引きずり込むような低い声の重なる二重奏。般若は、その場でクルリと一回りすると、袖口の袂から衣と同じ見事な色彩の扇子を抜き出し広げ、その煌めく半月で口元を隠して語り、両手を拡げ張る装束。棚引く裾から振り撒かれる金粉が佇まいを演出する中、水平に翳す扇子が相手の首を指す。
そんな過剰な演戯等目にも入らず、対するカグヤにしか興味を示さぬ白神。その瞳の色は今や完全な赤で凶兆に染まっている。
「果たして何時までその余裕を保てるか。主もこれらと共に舞うが良い。そして−−」
異様な舞を踊り、回転しながらクルクルと白神に近付く般若。一回りする度、妖魔の死骸の山では残る僅かな生気を更に奪われ、皮膚や臓器、骨肉まで融解し消えて無くなり、一回りする度、前庭で狂騒をやり過ごそうと息を潜める草木や、夜光虫達も生気を奪われ腐朽し、その足を踏み下ろし地を打ち鳴らす度、庭園の砂や沿う塀も痩せ細るように朽ち果て崩解した。吸引されたそれらの怨念がゆらゆらと漂う宙には黒い霧の形で見え、翳される金色の扇子へと集い束ねられると、般若の殺意が満ちる。
「−−逝ね」
袈裟切る毒々しい怨みを絡ませた鋭利な鉄扇の刃が、白神の露になる首筋目掛け振り下ろされた。
ドサッ。鈍い音と共に撥ね落ちた首。立ち竦み取り残された四肢は小刻みに震えて、開いた切り口から内側を晒し噴き出す赤い飛沫。その花は宙に咲き終え萎れると、まだまだといった風に溢れ出した。それは青色……。衣を舐めるように伝わり裾から滴り、体から離れると変色する足元が暗紅色の血溜まりとなった。そして斬口から溢れ出す色が再び赤に変わると、衣の色彩を、錆びついたような赤銅色の鈍色へと変質させて、完全に途絶え切り崩れる骸が、色味を抜かれた仮面を残し、その血溜まりへと深く深く沈んでいった。
正殿の奥で立ち上がる陰影。御簾は分けられ進み出る。その身に幾重にも重なる極彩色の衣は影へと落とし、月光を浴びる素肌はそれよりも美しく神秘を纏い皓皓と輝き、光の矢を周囲へと弾く玉の肌は、その背を正殿の奥と、脊椎、肩甲骨、腰部より延びる四本の尾で繋いでいる。
仰がれる月は魅了され、その光源全てを捧げて降らせると、暗転した世界で唯一人、その揺らめきを纏い映える。映夜。
だが、庭前より漲る凶兆までは暗黒に消えず、赫奕と赤い二つの眼光が闇を射ると、今度は純白が凶兆を中心にして波紋の如く拡がり闇を照らし消し去った。誰の存在も見えず、此処に浮かぶのは二つの赤、月光の揺らめきのみである。
「ワレヲタノシマセヨ−−」
光は残光を従え静かに近づき合うと、触れ合い、絡み合い、混ざり合い、混沌の扉を叩いた。