千兎乱獲−卵殻−(セントランカク)
芽吹きを待てず染み込む白雪
野分と駆けて遡り
手近な安穏容易く掴む
廻る行く末
冬とも知らず
遥か古代より彼の地に住まう人々の信仰を集めていた霊峰がある。伝承によれば、御国を築いた神々の一人を生み出した由緒ある山であり、山頂に建つ社へ巡礼に参る者の祈祷は、ある者の不治の病を癒し、ある者を黄泉より帰した等という数々の説話を幾つも生んだ。
やがてそれら伝説が国全土へと遍く知れ渡ると、各地からの巡礼者の数は一段と増え、山麓には次々に村や集落が生まれ、半ば観光の性格を帯びる発展を見せた。
何時しか領主大名が、森を拓き城を建て居を移し、遷都を計画するまでに至る程の賑わいである。
そんな変遷の中、古代より何も変わらずに、ただ霊山伝承を代々口伝し、背負い、語り継いできた一族が在り、発展と統治大国の支配下に置かれるずっと以前から、山の周囲を囲み聖地を守護する一つの部族集落が在った。
−−早暁。
地平から覗く陽光は未だ光と呼べるほどには頼りないが、汚れない自然体で流れる冷たく張り詰めた空気に連れられて、赤茶けて映える痩せた土地に佇む集落に訪れた。
だが、暁は集落に人々の姿を見なくなり既に季節は一巡しようとしていた。
閑散とした日々生気の薄れる中、今や訪れるのは人等では無く、山から吹きおろす冷たい風だけである。 寂れる廃屋を軋ませ、荒廃を間近に木鳴りは、啜り泣く鳴咽にも似た寂寥感を集落全体に木霊させている。
しかしそんな物悲しさの中、集落と霊山とを繋ぐ方から人の声が聞こえて来る。短い言霊とは言え、その幾月かぶりの生気は、普段の退廃的な気色と空気を集落から和らげて見せた。
「成る程……確かに異質な気を感じまする」
山裾へ立ち込める霧が万年漂う為に、所々苔むしている鳥居の前で、黒髪を結った若者に手を引かれる朱色の目隠しをしたアカズの巫女が、この場を訪れるまでとは明らかに違う暖かくも芯の冷たい異質な風に吹かれ、その中へ紛れて相克する聖気と邪気を、痩躯に纏った白き絹の衣一枚隔てたその肌で敏感に感じ取っていた。
「覚悟はよいか……」
「お供致します……」
参道を見据える先導者は、導くその手に言葉通りの覚悟を促すと、応えるアカズの巫女と共に、聳える石門を潜り霞の中へと消えていった。
異界の妖魔が棲みついて以来荒れ果てたというこの山は、確かに二人の身体を湿らせる霧に覆われた山裾に有っても、見渡す限りの山肌、草木は枯れ、大地は割れていた。暁光に歌う小鳥の囀りも無く、山肌へ転がる根付けずに干からびた実が、その老化を示し、骨を剥き出し拡げる広葉樹、何かを刺殺せんとする針葉樹の重なり合いが、異様な光景の木立を形成して見せているだけである。
そんな殺伐と乾いた音を立てる枯渇を踏む二人の歩みは、異界の妖魔の巣窟の中で度々に警戒を怠らなかったが、風に乗る邪気が予測させるような妖しの襲撃は、若者の網膜には映らず、巫女の鼓膜を震わせる事も無いまま、既に中腹へと至る道中、一度足りともその足を止められる事は無かった。寧ろ、嵐の前の静けさとも思えない静寂に対し二人が滑稽な警戒をしているようにも見えた。だがしかし、その代わりとして訪れるものは確かにあった。
朱色の袴を引く巫女の足取りが、先を行く者のその手に負荷をかけて急に立ち止まる。そしてそんな巫女を振り返り確認しなくともそれは現象となり、目の前の景色を見据える先導者の前に顕れていた。
どうしたことか、枯れ果て荒廃していた山肌が、ある場所を境に深緑を繁らせて鬱蒼とその息を吹き返している。
虫達の紛れる草間を探れば、その表面には多種多様な彩りが咲き乱れて混生し、緑陰の木立の向こうでは光る丸い、恐らくはこの山の動物達の眼光が、不意に現れた人間の様子を呆気に取られて恐る恐る窺っているのが判る。
「……これは」
「…………」
不可解な光景に驚きを隠せない者の傍らでは、第六感により視力以上の感知能力を備えているアカズの巫女が、その周辺にある生と死の隔意とも言える同じ場所に漂っているも交わらない面妖な気配に、状況を捉らえ切れず困惑している様子である。
すると、そこへ羽虫が目の前を横切り、止まった葉を渡ると、それを呆然と観察させていた若者にある法則性を気がつかせた。向こう側に見える生物は不思議な事に、まるでそこに目に見えぬ壁があるかの如く、境目からこちら側、二人が登って来た老化した禿山へは一切出て来ることが無いのである。
外とは隔絶される不思議な山奥で、風に靡かされその境界を侵す際の植物は、生死を揺らめき毎に隔てられ具有していて、葉先であろうと、太い幹や、走る根であろうと、ゆらゆらと漂うようなその境界線を侵せば直ちに枯死を見せ、又、風向きを頼りに生へと戻るという、表層的な幻覚を見せつけていた。
それは、二人の背後から燃やす暁の輝きでさえも、そこへは侵入出来ずに遮断されて途切れ、その絶対的な規則に従わせている。
少しだけ聴こえた小鳥の囀りの方に耳を傾ける巫女が仰いだ向こう側の空は暗く、夜のそれであった。
そんな昼夜が共存する中にあって、呆然と居る二人へと相変わらずに異質を連れて来る風だけが、法則の境を越えその夜の奥から柔らかく吹き付けていた。現実と目的を引き戻すそれは、この異常の誘因を探る為にも先へ進むべきであると促し、選択の余地の無い猶予う二人へ更なる緊張を供に増やして、夜の側へと足を踏み込ませようとする。
すると風は歩調を合わせる二人に新たな感覚を運んで来た。身体を蝕む風……。
「これは……瘴気……」
平然と風に紛れて明らかに人間だけを襲う悪意は、邪気の従える刺客か、変わらぬ周囲の豊かな自然の中で、若者の黒い袖口で隠す口元へ摺り抜け、先ずは手足の末端から痺れ毒を塗る。
そこへ突然背後から巫女が体を密着させ耳元へ囁いた。
「この間合いを保ってくださいまし」
巫女はそう言って緑陰を仄かに照らす青白く輝いた左の薬指を掲げると、宙に見慣れぬ書体の一文字を綴る。すると、同時に文字を中心として青白い被膜が二人を半球状に覆い、そしてその色が周りの景色に溶け込み透明に変わると、程なくして、毒気により若者に訪れた焦燥感は落ち着き始め、四肢末端の麻痺も解けた。
巫女はどうやら瘴気を防ぎ中和する為の結界を周囲へと張り巡らせて、首筋に吐息の掛かるこの至近距離こそが、その有効範囲のようであった。
「……済ま……ない」
瘴気による毒を遮断し、最小限の被害で済んだ若者が鼓動を高める。弛緩した血脈が拡張する為か、甘い香りを運ぶ柔らかな少女の肢体に触れた為なのか、僅かに紅潮する頬で、それとは反対に衣の下の身体を少し緊張させた。
背後に添う巫女の白い喉元がグルリと動く。
更に縮まる歩幅で進む山道で、夜と暗緑に隠され足場は、最早視力のみで辿るのは困難ではあったが、山頂より吹きおろす瘴気を運び続ける風が、共に源よりの邪気をも運んでいたので、道を外れて森へと迷い込む事は無く険路を辿ることが出来た。
それから数刻。依然として瘴気は纏わり付き、結界に侵入する事を試みている。周囲は相変わらず鬱蒼と植物が叢生していたが、そこには、いつの間にかもう動物や昆虫の姿は見えなくなっていた。此処は彼等の領域では無いのであろうか。
若者はその理由を頭の片隅で考え始めると、次には警戒心と集中力が薄れている事に気付かされたが、既に遅く、若者は意識自体を次第に薄れさせ、その害意の支配を許し始めていた。やがて再び朦朧とする視界、そして、足を縺れさせるように何かに躓くと、華奢な白い手を離して、倒れ込むようにして両手は黒土の地面を支えた。
「如何なされましたっ!」
道標を不意に失ったアカズは、正面の空虚を見つめながら、手探りに当惑したが、返事はすぐに下方より返って来た。
「済まぬ。根に躓いただけだ……問題……無い……」
「そう……ですか。しかし、お気を付け下さい。先程からごく些細なものですが邪気が無数に漂っております」
「あぁ……わかったよ。成る程そういうことか……」
若者が黒い袖で顔半分を覆いながら、気を取り直し、忠告する巫女との間を隔てる障害物へと目を向けると、調度そこへ推し量った木漏れ日の様に緑陰へ差し込む月明かりが、輪郭から実態へ、その姿を際立たせた。
木の根だと思っていた足を掬うそれは、切断された首から上の、ひしゃげた鹿の妖魔の死骸であったことを明かす。
脇には歯型を残し噛み千切られた痕のある胴や脚部も散乱していて、腐乱に所々融けだし土へと染み込む体躯は、白骨化が始まっており、そして、天へ昇る腐敗臭と共に立ち昇るそれこそが紛れも無く、二人の歩みを阻害している瘴気なのであった。
若者は再び巫女の柔らかな手を取り、天上の明かり取りを頼りに辺りを見渡し目を凝らすと、同じような残骸が草木の陰に、薮の合間に、早贄の様に枝に串刺されていたりと、凄惨に朽ちていた。そのどれもがゆらゆらと漂う瘴気を、陽炎の如く目に見えて発生させている。
「他よりも強い瘴気はこの為か……」
「……このような場所に長居は無用です。力を奪われるその前に、一刻も早く根源を払わねばなりませぬ」
「……そうだな」
二人は怨差を詠みながら直に絶えるであろう幾つもの骸を傍目に抜け、瘴気に侵されぬうちにその発生源を後にすると、異界に惑わされぬよう慎重に山頂から届く邪気の道筋を辿った。
暫く行くと、暗緑の斜面が視界の下半分に途絶えて、上半分には裾を斜面に溢れさせる霧が立ち込める光景が見えてきた。
その霧は、夜を写した訳では無い黒い色をしていて、中には鳥居の陰影が、木立を切り開かれた場所で月明かりを受け、微かに浮かび上がって見える。息を切らしそこを頂上と確認する二人。
「蜃気楼か幻の類でなければよいがな……」
そう言ったものの、近づくに連れ徐々に強まる邪気は、第六感に既に確信を与えていて、腰に差す刀の柄にかけ、聖なる数珠を握るそれぞれの手には自然と力が入る。全身を目玉に死角を無くし、鼓動を高めた高揚する心身に緊張を走らせ、黒い霧等には動揺せず、体の強張りは鼓舞する臨戦体勢の証である。それだけの修羅場は各々にくぐり抜けていて、巨石の鳥居をその戦意の下に通過した。
突風が二人へと吹き付ける。霧により足場が濡れている点を差し引いても地を踏ん張る足は風下へ退けられ、羽根を生み襲い来る小石や鋭利な枝切れは、強度を落とし範囲を拡げられた巫女の結界に弾かれたが、その強風は周囲の木々を湾曲させて軋ませ、枝葉は、その新緑を晩秋の枯れ葉の如く簡単に剥がされて騒いでいる。
耳には高音の風鳴りが聞こえるほどで、まるで低く重たい不気味な叫喚であった。
そして二人が鳥居の真下にまで後退した所で風は止むと、吹き付けていた黒い雨を、纏わり付いていた瘴気と共に一斉に晴れ明かした。
風を防ぐように顔を覆う両の腕の隙間から細めていた目で覗くと、足下から延びる石畳の参道の上に立ち塞がるものがあった。風により澄んだ夜空と、奥に佇む古い社を背景に、黒い胴を六足で支え、鋭く長い牙を両頬に、眉間からは非対象な二本の角を生やした巨大な猪の妖魔の姿が、待ち構えるようにしてそこにはあった。
「この妖魔……本来の主であったとされるものと特徴が一致する……」
「しかし異質な邪気は確かにこれから……ならば異界の妖魔というのは……?」
二人の疑問を差し置き、風鳴りよりも重たく低い口を利く妖魔。
「ショウコリモナクニンゲンメシカシチョウドヨイキサマラヲカテニセンノタマシイクロウテクレルッ!」
黒い胴体に浮かび上がる無数の人の形をしたシミが、眉間の角と共に明滅する。その顔は猪神と言うより、激昂と紅潮でまさに鬼の形相である。
「あのシミは魂を喰らった証拠。では麓を襲ったのも……」
「見た目通りに鬼を宿したか……何れにしても話せる相手ではないな」
「コノチニテイシヅエトナレッ!!」
丸い目をギョロリと光らせ、咆え唸り山を揺らすと、巨獣は石畳の地を蹴り刳り猛然と突進して人間へと襲い掛かった。
巨大な矛が、体格任せの突進力で石造りの鳥居を石柱ごと突き崩す。退治屋の二人が左右へと分かれその初撃を避けると、途端に抜け殻となりその場に残された結界は青白い色を取り戻して再び具象化し、半球の格子状から範囲内へ踏み込んだ獣を捕縛しようと収縮を始める。
そこへ刀を抜き振り翳し、高くへ跳び上がる退魔の殺意は、月光を逆光に、落下する己の体重をも力に変え、崩れ落ちた瓦礫ごと結界の中の獣を両断すべくその刃を振り下ろした。
手応えを刀の柄に感じると同時に視界が一層暗くなる。肉を裂く感触とは違い、切断されたのは石塊のみであった。
「速いな……」
目を細める殺気が、巨大な円形の影に呑まれる中から見上げると、妖魔は背から翼を生み羽ばたき空中へと逃れ、捕縛の結界を弾き、パラパラとその粉々の粒子を降らせていた。そしてそのまま初めに対峙した位置まで後退する巨獣。
しかしその暇をも与えぬと、若者は手首を反すと、振り向き様にすかさず一足飛びで間合いを詰め、下がる刀刃を巨獣の着地点へと切り上げる。一方の巨獣は、その若者の間合いを嫌い、巨大な羽で風を起こし、切り込む気勢を殺いだ。
「くっ……」
獣の思惑通り調子の外れた刀は空を斬る。
「アサハカナリニンゲン」
風圧を利用し後ろ脚を支柱に、その巨体をのけ反らせると、巨獣はその巨象の前脚で反対に間合いに入り込んできた人間を、巨躯に任せ押し潰そうと全体重をかけた。轟きと共に参道が減り込み砕け、舞い上がる粉塵。
「イキガルカラヨ……」
しかしながら晴れる粉塵の中で人間は圧殺を免れて、無傷で仰臥していた。巨獣は短絡な怒りに任せて何度も潰しに掛かるが、粉塵が舞い上がるだけで、人間にその力は届きはしない。
そしてその己の脚と人間の間に、巨獣は漸く淡い輝きの光を、その淀んだ黒目に認めた。
「コノチカラ……コノヒカリハ−−」
巨獣の台詞を遮る様に、前方の参道の脇からか細い声が聞こえた。
「障壁結界術……あなた程度では破れませぬ……」
巨獣が睨みつける怒気の先では、白装束の巫女が数珠を正面に翳して聖なる気を漲らせていた。その接ぐんでいる口元からは、発せられたか細い声と同様の研ぎ澄まされた冷淡な瞳を、目隠しの下に連想させ、先程までの慈悲深そうな頼りなさは消え去り、佇む雰囲気は、蛇が獲物を狙うような冷酷さに満ちている。
「キサマガ……」
巨獣は右の頬から生える牙を巫女目掛けて勢いよく射出させた。だが巫女の朱い目隠しが見えざる力に靡くと、牙は巫女の眼前で空間に溶け込む様に燃え尽き、黒く炭化し宙へ消え去った。
「グヌヌヌ……」
毛を逆立て苛立つ相手の気を取られるその隙を見逃さなかった地の中の殺意。
上体を起こし一瞬で水平に刀を一閃し薙ぎ払うと、巨獣は突然の灼熱痛、その痛みに怯み、凶器としていた両前脚を、続く右側の中脚をその刃と剣圧に切断され、不気味な青黒い血と共に撒き散らして、その巨体を横倒しに崩し大地を震動させた。
ゆっくりと窪みから抜け出し、切っ先を崩れた妖魔の眼前に据える退魔の者と、傍らへ寄り添う封魔の巫女。
「では……私が封滅致しまする」
口ほどにも無いとでも言いたげな見下す二人の蔑みの視線を浴びる妖魔は、その侮蔑へ悔しさを込め大口を開けて咆哮した。
「ニンゲン……ニンゲンゴト……キグアァァアーーッ!」
鳴動する空間と大地。獣の糾合はその喉の奥に、突如として大量の純白の光を集束させ、巨大な力を生み出した。
そしてそれは妖魔本来の邪気では無く、清浄なる気、巫女と同じ聖気を源にしていた。
「なっ……」
咄嗟に身構える若者だったが、不意を突いた白い光は、どんどんと膨張していき、畏怖すら纏う圧倒的な強大な力を示して、防ぐことはままならないと目の前の人間へ覚悟を余儀なく強迫した。
巫女は、その光を感じると、表情を隠す朱い絹の下で薄く笑みを浮かべて、映らぬ筈のその目を細い月の様にそっと開く……。
妖魔から溢れ拡がる白い輝きに風が吹き上がる。それは喜怒哀楽。各々の感情が交錯した刹那でもあった。
「……………………!」
白く染まる世界。全てが輝きに呑まれ破滅と共に消し飛んだかに思われる眩しさに包まれた。
しかし景色はもう一度戻ってきた。断末魔の中で己の自我に喰われた妖魔の姿だけを、跡形も無く消し飛ばしていた。
「……な……なに……が」
白い畏怖の中で確かに直面した死から生還して困惑する若者を、隣で落ち着き払う巫女が静かな調子で諭す。
「……我の力にございます」
「そうなの……か」
横目に見る巫女の応えに、唐突に死線を跨がされ混乱に立ち竦み、未だ我に帰れぬまま、若者はそうとしか答えられなかった。
辺りを見渡すと破壊の爪痕は、戦闘時には及んでいなかった場所に迄見て取れた。 根こそぎ薙倒されている大樹。幹が千切れたように切り株を残し倒れる木々、その隙間には参道か鳥居の残骸か判らぬ石片や枝切れ等、辺り一面に山頂の景色が散乱していた。
それはまるで嵐の後の様で、巨大な風の力によるものだということを容易に予測させる光景は文字通りの瓦礫の山となっていた。二人を中心に、地面の砂土には同心円状の波紋が微かに刻まれている。
ゆっくりと景色を掠う瞳が、積み重なり倒れた木立の合間から覗く、見覚えのある柄を見つけると、若者は己のその手から離れていた感触に漸く気がつき、近寄り、足を掛け、倒れた幹を刺している愛刀を引き抜いた。
握る柄は、鍔と刀身へカタカタと末端から震える音を伝え、自らに再度その動揺を認識させる。若者は、それを強く握り潰し、そして無理矢理に払拭するよう刃をその場で振り払うと、今度は変わって力強い握力に微動する刀を鞘へと納めた。
若者は死線を越える経験など過去に何度も体験していた筈だった。しかし今しがた感じたものへは、それらと比較しても違和感を覚えて拭えなかった。それは或いは一連の疑問と繋がるものなのか。崩壊した自然の復活する異空間、この空に広がる夜を始まりにして、依頼主の話とは異なる邪気の根源であった妖魔の姿、その邪悪なる筈の存在が放とうとした聖なる力、白い輝きに感じた不吉な畏怖。
無理に解いた緊張が、星の瞬く夜空を映し、ゆっくりと深呼吸させるることで漸く身体自体を弛緩させた。そして同時に平常心を取り戻しつつある思考は、あの状況にも全く動じずにいた白い巫女への疑念を湧かせた。
あの落ち着きは、獣の放った力が自らと同じ力に起因していたからという理由では、余りに説得力に乏しく、自らが終幕を下ろしたと言ったそれまでとは明らかに違う操る力の質、その暴風も然別。
様々な疑心は視線を落とし改めて呼吸を整え、この場で唯一その答えを問える巫女へと目を向けると、巫女は参道であった先で周囲同様瓦礫となっている朽ち果てた社跡へと向かっていた。
「……千の魂とはよく言ったものじゃ……」
重なる瓦礫の中から影を抜き出す巫女、その手には漆黒の黒い光が握られていた。
「巫女殿……それは?」
背後から声をかけた暗鬼の疑心に、冷然の巫女は振り返り歩み寄ると唇を動かさずに答えた。
「……ソナタナラバ」
「私……ならば?」
すると、巫女のうなじを通して両肩の前に垂れ下がる左右対象、両端対となり先端に赤い鈴を着けた一本の絹の切れが、二匹の白蛇と変わり、不意に若者の喉元へ噛み付こうと飛び掛かった。
急所への急襲を咄嗟の反射が左腕で庇う。
「くっ……何を……」
「何処へ憑かれようと同じじゃ……」
振り解こうにも、若者には退魔の力はおろか筋力すら入らず、全身の力は抜けていき、下肢から崩れる様に背後へ仰向けに倒れると、その上へ、白き巫女が馬乗りに覗き込み、顔を近づけ押さえ込んだ。
こめかみに金色の装具で固定されている朱い目隠しの下から露になる表情。見開かれた禍々しい瞳が赤く輝いていた。
「……貴……様……人では……無い……な」
「我が名は白神。清廉なる純白を平伏す神なり。そちには悪いが、暫くこの力を隠す為の殻となってもらうぞ」
「純……白を……」
吐息が混ざり合う間隔で、若者が問いを終える間もなく、白神を名乗る者はその手に握る黒い蒸気を立ち昇らせた漆黒の玉珠を、双蛇が開いた腕へと傷口を十字に裂いて押し込めた。皮膚を割り、血肉を裂く痛みに、若者の叫喚は暗闇の空をも割るほどに響き渡った。白神は恍惚の笑みを浮かべる。
すると、夜空は実際に亀裂を生み歪んだ。
それは重力に捕われたように下方へと引き寄せられていく。そして空ばかりでは無く、周囲の瓦礫の光景は勿論、山肌で息を吹き返していた深緑の景色も、虫も植物も動物も死骸も、臭気も空気も月の輝きも、不思議な境界から此処に至るまでに目にし存在していた全て。何もかもが、腕に減り込み埋め込まれた黒い輝きへと吸い込まれていった。
同時に玉の宿主の脳裏には、幾つもの嘆きや悲しみ、怨みなどの負の感情が感知出来る処理能力を超える速さと量で流れ込み、暴れ狂うように駆け巡りその脳内を発狂で満たしていった。
そうして全ての景色が吸い尽くされると、枯渇に荒廃し、寥寥とした本来の姿へと戻る山の姿。
旭光が自分を見上げている白に影を落とし、陰る割れた砂地に縛られる四肢、その左腕の中では影より一層黒い玉が蠢く度に、血流を送る心臓の如く鼓動していた。
宿主が気づくと砂に沈む頬には、零した涙と鼻血や唾液が伝い筋を作り乾いていた。
「白い……力……」
朦朧とする意識の中、潰れた喉から絞り切るように声を上げ問いを繋ぐ。その懸命さに傍らに立つ者は優しく、しかし高圧的に見下し、先程までとは違うどこか荘厳を秘めた調子で答える。
「そうじゃ。そちも見たであろう。先程の畜生の放とうした力。あれこそが白の神力の一つ、白兎の力ぞ」
「……は……く……」
頭上に立つ白い塊に赤い点。目は霞み輪郭もぼやけて映る。
「我と同じく清廉なる無垢。白の神として生まれた白兎。じゃが奴は臆病者。己の力が近づく者に謀られ、利用され、略奪されることを恐れると、その身を千に分散させ世に散らした……。力あってこその均衡だというのに、生温い平和を望むあまり保身に呑まれたのじゃ。結果、ああして畜生如き低俗なものにすら取り込まれてしまう……兎の本懐か、あぁ、浅慮とは正にこの事……」
相手の状態や理解などは構わず一方的に概説する白神。その慨嘆の溜息に朱い目隠しが靡く。
「……な……ぜ」
そして心を読むのか、不思議と短い語句からもその対象から真意を汲み取る。
「好機じゃからに決まっておろう。単純な話じゃ、我という神が他の神の力を手にすれば、その他の神をも凌駕し支配し得る力を得られるであろう?」
「…………。」
神の戯れか、理由など人間には理解出来なかった。若者は、ただ、最後の力を振り絞り、力無く黒い腕を僅かに浮かせるしかなかった。微笑が覗くと、腕は又すぐに砂に沈んだ。
「その玉は十種に別れた神宝の一つ『死返玉』。この山を蘇らせて見せていたのは封を解かれていたその玉の御蔭じゃ。……そちは良くやってくれた。じゃが、我は初めて逢った時分から確信していたのだぞ。我が吐息に混ぜし瘴気にも屈せず、その強靭な精神。畜生との戦いでもその身体能力を遺憾無く存分に見せ、そして魂……期待通りに壊れること無く耐え抜き、神宝をその身に見事宿してくれた。……今回の茶番、領主共が大方その神体を用い争いにでも利用しようとしたのじゃろ。そちは担がれたのじゃ……しかし幸か不幸か、そちのその勇壮なる純心が、神宝と我の下へと導いた。……いや、我に取ってこれは幸か……ならばそちも同じであろう?」
どうやら始めから全ての状況を見抜いた上での計り事であり、自分を利用し傷つけ、この結果すらも白神は全てを予期していた様子であった。しかしそれよりも、若者は黒い闇間に見た人間の強欲に対しての憤りを感じていた。それは或いは既に自らの一部となっていた神宝の意思であったのかも知れない。
「じゃが、それも我に取っては他者に囚われ弱体化してしまった兎を留め置く為の檻に過ぎぬ。それら神宝へ捕らえおけばその無尽蔵の力を吸いやがて力を充たす。それを喰らわねば意味を成さぬからの……宝の中核が白く変わればその証拠。その時分まで兎の殻として、その力、そちに預けるぞ」
地表から虚ろを見詰める人間に投げ掛ける微笑の後で、装束を翻し背を向ける白神。若者は自らの死を間近に感じ、迎えれば、もう会うことも無いという解放の安堵感を覚えたが、しかし同時に、心残りが何故か芽生えていた。それを読み取ったのか数歩歩んだところで白神が振り返る。
「案ずるな、案ずることは無い。また会える……」
あやすようにそう囁くと、愛玩を愛でるように髪を優しく撫で、変色する唇にそっと口づけた。それは冷たく変温した唇よりも更に冷たく、その甘美な甘い吐息の残り香は、白い空間を開き中へと消えていく白神の後を、山を掠う一陣の風に連れられて追っていった。
舞い上がる砂塵が陽光に照らされキラキラと反射して宙に星を漂わせる。そんな煌めきと静寂の中で若者は絶命した。
何もかもが枯れた地には、漆黒だけが鼓動していた。
次に若者が目を覚ましたのは暗然と旭日の中であった。辺りに散る羽織りに家紋を刻んだ数人の骸は、若者の手に持つ刀に血を吸われていた。
そして、太陽が天に一番近づく頃、山頂からの憎しみに燃える眼下の国は、蒼穹から現れた黒い球体に飲まれると、その歴史を永遠に失った。