邂逅月夜(ワクラバツキヨ)
光を見上げ
鬼神を越えよ
夢現
至る月は幻である
−−今か昔か、そよぐ風が何処かの花弁を際限無く天まで運んでいく。
それは時代と巡り、やがて悠久の宙で永遠に止まると、重なるこの星を隠した。
それは地球が逆巻く頃。しかし季節は、ゆっくりと廻り続けて、彼女を顕形していた……。
満月から十六夜へ。朝の訪れぬ次元の歪んだ夜に、月光が退廃の野を見つけだして、照らし出すその地に、人知れず顕れたのは寝殿造りの御殿。
光の中、影を持たずに映える眩惑で視線を誘掖するのは、左右両端の門柱に、呪符でがんじがらめにされた鬼の石像を、暴れださぬ様に封じ込めるが如く括りつけている朱塗りの門。
そこは、総ての始まりとして来訪者の目を引き迎える御殿の入口である。 辺りの空気さえ震撼するほどの満ち溢れる荘厳を湛え、それは、風に乗り門前を通り過ぎる一枚の枯れ葉さえも震わせて割った。
そんな畏縮を強要して堂々と佇んでいるこの門を抜ける際には、それを形成している正体なのか、ヌメリとした得体の知れない生暖かい空気に纏わり付かれ、一歩を踏む毎に、あらゆる負の感情を心底から芽生えさせられた。
精神の薄弱な者では、包み込むようなその畏怖に、魂と躯を分離された末、この場で殻となり、朽ち果て、まるで相応しい者を判断し喰らうように、この朱い凶門は、言わば来訪者の選別と撹拌を行い、敷居を跨ぐ資格を問う場として、地表近くに浮かぶ赤い月のような禍々しさと狂気を内包しながら、粛然と聳えているのであった。(しかしながら、今この場には、亡き骸は見えないし、選別の理由は、未だ解らない)
そして、それを耐え抜いた者だけが、四季を抱き、池を携えた彩色豊かな花が咲き乱れる鮮やかな前庭へと、客人として迎えられ、足を踏み入れることが出来た。
庭園では、蛍が光を映す水辺を渡り、鈴虫や夜光虫達は鳴き声を、草木掠める風へそよがせ、虚を衝く静を呈示している。
畏怖に覆われていた赤い凶門を抜けた後では、平然に居るそれらは、尚のこと安堵感を齎し、訪れた者の心を優しく包む一時の身体と精神の弛緩、眠気すら誘う心地良さを与えた。
そのつかの間の安息は、池の辺に一本だけで咲き誇る桜の木の下へ、時間が躊躇うようなゆったりとした動態でひらりと舞い落ち積み重なる花びらにも、一層際立たせられていた。
それは、本当に催眠をかけて笑うようで、夢魔のような妖しくも美しい色合いを落として見せている。
そんな自然が静寂を詠む中、前方に広がり、月光の降り注ぐ真下に据えられた正殿の前から選別された者の声が聞こえた。
声の主である訪問者を、二つの灯籠が悠然と迎えている。左は御霊、宙空に青白く輝き、右は、瞳を赤く燃やす木製の傀儡である。そして客人は……。
「はぁ、はぁ……や……やくそくだ……カグヤ殿と……やらに……御目通り願おう……か……」
満身創痍のその姿。右手で押さえる左肩の傷口から流れる血筋は、力無く垂れ下がる腕から、指先まで至りて滴り、それは、握り零して地面を刺す、毀れ果てた刀と、刃の鈍い輝きを映し込む血溜まりとなって、恰も大地を刺し殺したような様相を見せていた。
身につけている鎧兜は、所々斬り痕、刺し痕等に破損していて、これ以上は防具としての意味を成さない程で、ただ、その傷だらけの体へ義務的に張り付いている様子である。
「ほぉ、見事なものじゃのぉ……」
御霊が翁の声で感心した。
「じゃが、まだわからん……」
嫗の声の傀儡が、御霊か、鎧武者の発言を窘める。
「何……だと?」
猜疑の後へ迫り、不安定な足取りで不可思議な存在に一歩、詰め寄る声。だが、緊張が抜け弛緩した脚には、思うように力が入らず、強張るばかりで、大地から疲弊を与えられた代わりに精神力を吸われたような、そんな脱力感を覚えて、身体を前のめりに崩してしまった。
咄嗟に、傍で地に刺さる刀に手を掛け、体重を支え、膝をつき、倒れ込むのは免れたが、己の影を見入る息遣いは絶え絶えであった。
眼前の白く、時には、重たい赤の混ざる砂の敷かれた庭のその地面は、ぼやけて映り、一つ一つの輪郭の確認などままならないほどに曖昧模糊としていた。
すると不意に、右耳に感じていた空気の流れる音が変わり、右視界の片隅が、死角から急接近した影を認めると同時に、息遣いの度、上下動していた右肩へと突然の刺激が走った。
「ぐっ……」
そのまま不意に突撃して来た何かに、音を立てて押し倒される甲冑。だが、一瞬反応が遅れはしたものの、反射的に肩を竦めて首への致命傷は避け、相手の思惑からは外れた様だ。そして影の正体を、首から上、頭部だけの猪の妖魔だと網膜が視認するや、左手に握り続け杖としていた刀で、倒れ込み様にその脳天から串刺しにした。
引き抜く際の妖魔の断末魔の中、吹き出す青い血飛沫は宙に舞うと、金色の月光に透け緑となり、白い砂の庭へと溶け込み、重たい赤い斑点を、又、幾つか増やした。
「残って……いたか……」
再び刀を杖に戻して力無く立ち上がり、肩に突き刺さる二本の牙を、妖魔の顔面から斬り離し、端を掴み二本ともに抜き出す。
幸いにも、刺された部分の肩当ては活きていて、流血も少量に、深手には至らずに済んだようだ。
「見事じゃ若者……さぁさ、こちらへ」
嫗の声が是認に呼び付けると、牙をその辺へと放り、足元に転がる猪の生首を蹴り飛ばし、若者は進み出た。
牙は白砂が受け取ったが、首が落ちた先からは、もっと鈍く篭った音が聞こえた。
どうやら、何かが山積みとなった塊の上へ落ちたようで、いや、寧ろ、目掛けてそこへ蹴り飛ばしたようでもあった。
「約束通り、カグヤ様への御目通りを許そう。そこへ直りなされ……」
二基の灯籠に挟まれ、正殿の正面に位置する場所で、若者は、カグヤと呼ばれる者の姿を、胡座で着座し待った。
−−暫く……。
御殿へ差し込む月明かりが雲間に隠れては現れを繰り返して遊び、何度目かに正殿が照らし出された頃に、白砂の庭と高床式の寝殿を繋ぐ、三四段の階から奥を隔てていた蔀戸が、ゆっくりと釣り上げられた。
吐息のように漏れる気配が、外気に触れた室内の香に混じり、ふわりと裾を拡げ溢れた。
御簾の下がる奥の間へ、若者の注意を導く様に月光が差し込んでいくと、漆黒の浜床の際まで視線を案内して、立ち止まり、それより先、明かりの輪郭が僅かに照らした室全体の和らいだ暗闇に浮かんだのは、几帳に囲われた御帳台であった。
様々な紋様、模様、または詞が、垂れ下がる一枚一枚、それぞれの目隠しに飾られている。そして、広さ二畳程の厚畳の縁から着物の裾が覗き、隙間より幾重かに重なった色彩を、おそらく端座した姿勢であると、香の吐息と同様に八方へ拡がるのを、虚ろに確認させた。他は、障外に隠され、御顔などは未だ暗香疎影の陰の中。
しかし、その一尺の隙間から漏れる吐息は大変に妖艶で、生けとし生ける物全てが虜になるような、甘美で気怠くも、鋭利に苦み走る毒味の果実の様な、心を内から掻きむしる香りを運んで来る。
「さぁさぁ、解呪を求める者よ。そちの呪い品を此処に置いて見せよ」
カグヤなる者の方より発せられるその芳香に心を奪われていた若者は、嫗の問いに漸く気が付くと、目の前にいつの間にか出現していた漆塗りの黒い台が、腰程の高さに置かれて贄を待つので、立ち上がり一歩、二歩と近付いた。
すると何かしら呪わしい品を出すのかといった翁と嫗の窺いに反して、若者は何処から何を取り出す仕種をするわけでも無く、ただ左腕をくの字に折り曲げ台に乗せ、もう一度跪くだけであった。二基の灯籠が、覗き込む関心を焔を揺らすことで表す。
「これだ……」
若者がこびりついている乾いた血をひび割りながら、左腕の衣の袖を巻くし上げると、螺旋状に巻かれた包帯の下で何かが蠢いて、それは腕の形をも変形させていた。 止め具として手首に巻かれているすっかり錆びついた鈴付きの腕輪を外すと、包帯はスルスルと滑らかに自ら意思を持ち自然と解かれていき、宙に踊る一匹の白蛇に変わった。
「邪眼に憑かれよったか。ホッホッホ……」
露にした腕の表皮が瞼を開くが如く割れた。十字に裂かれた皮膚からは翁が嘲笑した通り赤い瞳が覗いて、久しぶりに目にした外界の光景を確認するかのように縦横を黒い裂け目に沿って蠢く。
「さて、それは如何したものじゃな」
嫗が儀礼的に尋ねると、若者は思い返し呟く様に語り始めた。
「……あれはいまから三百年程前の事だ。退魔を生業としていた私は、或る国の大名から山に住み着いた妖魔を退治してほしいとの依頼を受けた。そこには既に同様の依頼を賜っていた封魔を生業とする肌の白いアカズの巫女がおり、我等は共に元凶を滅すべくその山へと向かうこととなったのだ。家臣どもの話によればその山は霊山であったが為、周囲に放たれる霊気に当てられた妖し共が元来集まりやすい場所ではあったそうだ。だが、山の主であった妖魔と大名側とが契約を結ぶことで、麓の村や里がむやみに妖しに襲われることは無く、人間と妖しの間にはある程度に未干渉の均衡が保たれていた。ところが或時、何処からとも無く不意に現れた異界の妖魔が契約を交わしていた旧主を殺し、その座を奪ってしまうと、それは麓の人間ばかりか支配下に置くべき山の妖し共まで餌として喰らい始めてしまったのだという……。なにしろその国では、他国との戦に妖し共の力を借り支配を強めていたものだから、民を失うこと以上に国力の切り札ともあったその兵力をみすみ損失させるわけにはいかずに、妖魔討伐に我等を呼んだわけであったのだ……」
事の顛末を語る言葉を黙って聞く焔。興味を示しているのかどうかは揺らめくだけの表情からは窺い知ることは出来ないものの、二基の灯籠の間では何やら感づくところがあった様子である。それには気付かずか、構わずに若者は話を続けた。
「……閑散とした麓の村を尻目に山へと入ると、山中では食い散らされた動物や妖しの骸がそこかしこに散らばり、腐敗した残骸、噴き出した血が未だ艶めく死骸、死に際に恨みを詠むだけの形骸……死臭は道標の様に順を追い山頂まで続いて、それはまるで我等を手招くかの様な場景でもあった。やがてアカズの白い手を引き辿り着いた山頂は霧深く、依頼通りの妖魔が待ち構え、そして我等が姿を認めるなりこう言ったのだ。『ウラミノカテキサマガセンバンメダ』……と」