仮面の伯爵様から求婚されたけど絶対結婚したくない理由
「さあ、愛しのアンジェリカよ。そろそろワシと結婚する気になったか」
アンジェリカの前に立つ、頭部の禿げあがった男が言う。皺の目立つ顔に下卑た笑みを浮かべている。
「いいえ、エルギン伯爵閣下。何度も言う通り、私はあなたと結婚する気はございません」
目を見てはっきり断る。彼がこのエフィンジャー家にやって来るのは今月で3度目だ。
しかし断っても断っても、ザカリー・エルギンには諦める様子が無い。楽し気でさえある。
「悪い話ではないだろう。ワシと結婚すれば、お前の家が収める予定の税もうんと安くしてやる。両親だって商売をやり易くなるというものだ」
「よく言う」とアンジェリカは思う。そもそも税を大幅に吊り上げたのはエルギンに他ならない。以前の3倍以上になっている。
「まあ良い。今日はお前の顔を見に来ただけだ」
エルギンの目がアンジェリカの顔からつま先まで、ねっとりした視線で舐めまわす。
しかも息を荒くして、エルギンは少しづつ近付いてきた。思わず顔をしかめそうになる。もう我慢の限界だと思ったその時。
二人の間に割って入った者がいた。エフィンジャー家の執事、カーティスだ。
彼はエルギンに睨まれながらも笑顔を返す。
「恐れながら伯爵閣下、必要以上にアンジェリカお嬢様に近づくのは止めて頂けますか?」
エルギンは暫くカーティスを凝視していたが「ふん」と鼻を鳴らした。
「随分と優秀な執事を飼っているようだな」そんな皮肉の後に続ける。
「だがアンジェリカ、覚えておけ。お前の家が人頭税を一か月以内に家族全員分おさめられなければ、強制的に取り立てを行う。そして差し押さえるのは、お前だ」
舌なめずりをしつつ、エルギンは部屋を出て行った。
「お嬢様、大丈夫ですか?」
カーティスは心配げに顔を覗き込んでくる。大きな黒い瞳は夜の空のように神秘的で、見つめられると吸い込まれそうになる。アンジェリカは慌てて目を逸らした。
「ええ。あなたのお陰で触られたりはしていないから」
笑って強がって見せたが、実は精神的にかなり追い詰められていた。一か月というタイムリミットが重くのしかかっている。
税の支払いが間に合わねば、生理的に受け付けないあの男の元へ、強制的に嫁がねばならなくなるのだ。
商業的に栽培している薬草は今年不作で、思ったような収益を上げられていない。その上金を借りることも理由あって出来ない状況だ。
このままではエフィンジャー家が人頭税を払える可能性は0。
アンジェリカはこれまでのことを思い出していた。
***
エルギン伯爵領は一つの島になっている。5万人近くの人が暮らしており、島だけで一つの経済圏が成り立っている。
エフィンジャー家は、このジール島で代々薬師の家系だった。何代か前から薬草の栽培を始め、それが軌道に乗り始めると、今度は回復ポーションの生成から販売までも行うようになった。「エフィンジャー」という姓を名乗り始めたのもこの頃からのようだ。
しかし数年前から急に逆風が吹き荒れている。
以前のエルギン伯爵は悪徳と呼べるところは何もなく、むしろアンジェリカの目には善良に映っていた。
商売の利益に応じて高くなる人頭税だって、今の三分の一程度しかなかった。
ところが今は人が変わったかのように悪徳だ。
各種税金は理由もなく増え、それに文句を言えば、ろくに裁判も経ずに粛清されてしまう。
また人が突然居なくなる事件も何件か起こっていた。その殆どが若い女性たちだ。
エルギンが攫っているのではと考えない人は居ない。
だが殺されるのが怖くて、誰も恐れて口にしない。街には暗い空気が漂っていた。
「この島から逃げましょう」
少し前、アンジェリカは朝食の席で父親に進言したことがある。だが父親、モリスは諦めを吐き出すようにため息をついた。
「無理だ。そんなことをしたらたちまち見つかってしまうよ」
「見つからないように出れば良いのです」
アンジェリカは食い下がる。
「この島が特殊な場所であることは分かっているだろう。あの領主は我々島民が勝手に出て行くことを絶対に許さないぞ」
このジール島には南と西の二か所に港があるのみ。その両港とも、積み荷や人の出入りを厳しく管理している。
島を出る人間の顔は一人ひとり改められ、もし不当に出ようとしたら即座に捕縛、粛清されてしまう。アンジェリカの場合、捕まれば即座にエルギンと結婚させられ、残りの家族は殺されてしまうかもしれない。
「それにどうやって暮らして行くのだ。外では安くて良いポーションが沢山出回っていると聞く。我々がここまでやって来れたのは、外のポーションが島に入って来ず、ある意味寡占的な状態だったからだろう」
確かにその通りだった。エフィンジャー家のポーションは伝統的に、ほぼ島内で消費されているが、外の物の方が遥かに効くらしいというのは島民も噂している。
これまでの歴代領主は「島内の産業保護」の観点から外のポーションを入れないようにしていた。エルギンもその政策を継いでいる。
エフィンジャー家の製品は殆ど競争のない市場で消費されてきた物に過ぎない。また外に土地も資産も持っていない。流通経路は0。この状態では例え外に出ても家族で仲良く路頭に迷う。資金が足りねば遠くまで逃走することも難しい。
しかしアンジェリカは外に出ることを諦めなかった。
それは勿論エルギンから逃げるためでもある。だがそれ以上に、彼女は重要な使命を負っていた。それはアンジェリカだけが握っている、エルギンの秘密に関わっていた。
◆
エルギンは煙草をくゆらせながら、ニヤニヤと微笑んでいた。もうすぐアンジェリカが手に入る。楽しみで仕方がなかった。
この島で、あそこまで良い女は見たことがない。あれでまだ18歳だというのだから驚きだ。
欲しくなった女は手に入れなければ気が済まない。だが相手は島で裕福な商家の娘。手荒な真似は手順を踏んで行う必要がある。
税を吊り上げ、経済状況を「合法的に」圧迫したのはそのためだ。また島内の金貸したちにも脅しをかけ、エフィンジャー家に金を貸さないよう仕向けた。
そして、彼は既にアンジェリカが島から逃げようとしていることに気付いていた。それどころかエフィンジャー家でどんな会話が行われているかも全て把握していたのだ。
「せいぜい足掻くだけ足掻け。その方が手に入れた時の反応が楽しめるというもの」とさえ思っている。
エルギンの目も、耳も、二つづつだけではないのである。
◆
「お嬢様、お呼びでしょうか」
エルギンに訪問を受けた翌日、アンジェリカの私室に入って来たのはカーティスだった。
「私に話とは何でしょう」
戸惑った顔をしている。アンジェリカが彼を部屋に呼びつけるなど、これまで無いことだったからだ。
「あなたにだけ話しておきたいことがあるの」
アンジェリカはカーテンを閉めながら言う。日差しが遮られ、薄暗くなった。
「私の脱出計画を聞いて欲しい。そして、エルギンの秘密についても」
カーティスの目が僅かに大きく開いた。
事態は切迫している。計画は失敗できない。本当は一人で全てをやり遂げるべきだが、やはり協力者がいる。
その人物は最も信頼する、このカーティス以外ではあり得なかった。
「脱出計画と言っても、逃げることなど本当に可能なのですか。この島から出るには厳しい検査を受けねばなりません。掻い潜るには港ではない海岸から出る方法になりますが……」
カーティスは顎に手を当てながら続ける。
「この島の海岸沿いは、断崖絶壁で波も荒く、それこそ命がけになってしまいます。もしその予定であるのならば賛成しかねます」
アンジェリカは頷いた。
「ええ、だから堂々と港から出て行こうと思うの」
カーティスは目を丸くする。
「そ、そんな方法があるのですか。にわかには信じられません」
思わず小声で喋っている。
アンジェリカは脱出を決めてから様々な手段を探ってきた。その中で目を付けたのが巡礼船だった。
このジール島はオリオン教という宗教の、一つの聖地となっている。巡礼船とはこの地に向けて信者たちを運んできて、また、滞在していた信者たちを運び出す船のことだ。
オリオン教は王国で大きな影響力を持つ。巡礼船も一応は検査されるのだが、顔はざっと見られて終わり。何ならローブを被ったままでも咎められない。
オリオン教会は港の使用料として、かなりの額を伯爵に支払い続けている。いわば「上客」なのだ。
それもあってエルギンは教会と揉め事を起こすことを恐れ、嫌ってもいる。
アンジェリカがカーティスに話した計画は、ある信者の代わりに巡礼船に乗り込むというものだった。
巡礼船がやって来るのは今から8日後。そこに変装をし、彼女のふりをして乗り込むのだ。
アンジェリカは教会に通い、仲良くなった女性に代わってもらえるよう、約束を取り付けていたのだ。
「ですが、本当にそのオリオン教の信者というのは信用できるのですか?」
カーティスは険しい顔をしている。
「ええ、私、人を見る目はあるもの。彼女は絶対に裏切らないと思うわ」
彼は暫く黙っていたが、やがてふっと笑顔になった。
「分かりました。アンジェリカ様が無事に島を脱出できるよう、命がけで助力致します」
カーティスは軽く頭を下げた。
彼と出会ったのは12歳の頃。散歩中、草むらで一人の少年が倒れているのを見つけた。
衣服は濡れ、髪はごわごわしていた。
後で彼から聞いた話では、乗っていた船が難破してこの場所に漂着したのだという。そこをエルギンの私兵に追い立てられ、どうにか逃げ切ったが力尽きて倒れていたようだ。
アンジェリカは薬師を生業にする家系のせいか、怪我人を放っておけなかった。力がある方ではなかったが彼を背負い、急いで家へ連れ帰った。
そして使用人と協力して甲斐甲斐しく世話を焼き、回復するまでほぼ付きっ切りだった。
結果、元気になったカーティスは「一生お嬢様にお仕えいたします」と忠誠を誓っており、今でも時々犬が人間になったのでは、と思う程忠実だ。
「それで、エルギンの秘密とは一体何でしょうか。まさか裏で違法な薬物の売買を取り仕切っているとか……」
「それのことね」
アンジェリカは一度、髪をかき上げた。艶やかなブロンドがさらりとなびく。
「あのエルギンは、本物のエルギン伯爵ではないの」
カーティスは眉をひそめた。
「どういう、ことでしょうか。」
探るように聞く。
「そのままの意味よ。あの男はエルギン伯爵とは別人なの。私は以前、本物のエルギン伯爵を見たことがあるけれど、今とは似ても似つかない顔だったわ」
それは恐らく現エルギンの側近以外、アンジェリカしか知らない事実だった。
本物のエルギン伯爵はあまり領民の前に姿を現さず、出てきても顔を覆うマスクを付けていた。酷い火傷痕があるためだという噂だった。
アンジェリカがまだ小さい頃、本物のエルギン伯爵が薬草畑の視察に来たことがあった。その際偶然、彼がマスクを取る瞬間を目撃したのだ。火傷痕は確かにあった。偽エルギンには決して無かったものだ。
素顔を見られた彼は、アンジェリカに怒ったり怒鳴ったりせず優しく接してくれた。薬草の摘み取りを手伝ってくれさえしたのだ。
民思いだった彼が今どうしているのか、考えれば気持ちは暗くなる。
どうして彼が狙われ、そして偽物に成り替わられてしまったのか、詳しいことは分からない。ただ、常に仮面を付けていたことや、他領から孤立した島の領主であったことが原因なのかもしれない。
成り替わる過程で何人殺されたのか考えただけで背筋が冷たくなる。
今の偽物も限られた人間としか顔を合わさず、街に出る時には必ずマスクを付けているようだ。では何故アンジェリカには素顔を晒すのか。
恐らく、「絶対に逃がさない」という意思表示だ。その自信もあるのだろう。
本当の領主のためにも、消えた娘たちのためにも、アンジェリカは絶対にあの偽物を告発せねばならない。
二人は小声で打ち合わせを始めた。
◆
一方のエルギン。……彼は偽物であるが、便宜上、まだそう呼ぶことにする。
「成程な、つまりあの娘は巡礼船で外に出ようとしているのか」
革張りのアームチェアに深く腰掛けたエルギンは、頬杖をついたまま言った。
「はい、その通りでございます」
机を挟んで立っている彼の側近が頷く。驚きはない。結婚を逃れる手段は結局、脱出するしかないのだから。
「入港日に西の港を固めろ。入って来る巡礼船の近くに兵を隠れさせておくのだ。そして出港直前で出て行って、一斉に検査をしろ」
エルギンは煙草に火を付けた。白い煙が、ゆらゆらと立ち昇っていく。
「ですが、そうすると教会から反発があるかも知れません」
「罪人が逃亡しようとしている緊急事態だ。言い訳なら幾らでも効く。それに……」
肺に入れた煙をふっと吐いた。
「勝ちを確信したあの娘の、直前で捕まった時の絶望した顔が見たいからな」
エルギンは肩を上下に揺らしつつ、歪な笑みを浮かべた。
「同時に奴の実家も押さえるぞ。万が一、西の港にアンジェリカが見つからなかったら奴の両親を捕らえて居場所を吐かせるのだ」
「はっ、その通りにいたします」
側近の男は頭を下げた。煙の向こうの男の様子を見て、エルギンはくつくつと笑い始める。
「まさかアンジェリカも、お前が監視とスパイ行為に及んでいるとは思わんだろう。なぁ、カーティスよ」
頭を上げたその人物は濃い青色の髪に神秘的な黒い瞳をしている。
アンジェリカが最も信頼する執事、カーティスだった。
エルギンはアンジェリカに目をつけた時から、ずっとカーティスを勧誘し続けていた。最初は拒んでいたが、次第に吊り上がって行く報酬に、ついには抗しきれなかったようだ。
今では最もエルギンに忠実な部下の一人である。
アンジェリカが脱出を決行する日が待ち遠しい。エルギンは彼女のことを思い浮かべ、舌なめずりをした。
◆
辺りは夕闇に包まれている。アンジェリカは他の信者たちに紛れ、何とか港に到着していた。
海の方を見やると、巡礼船らしき、真っ白な船体が薄暗い中にもはっきり見えた。
ローブを目深く被ったアンジェリカ。傍目には信者の一人に見えるだろう。何人か兵士は見かけたが、誰もアンジェリカに目も止めない。
オリオン教の影響力を伺わせた。
アンジェリカは慎重に歩を進める。早歩きしたいが変に目を付けられては堪らない。
歩いていくうち、小さかった巡礼船が、どんどん大きく見えてくる。
緊張が、これまでの人生で体験したことが無いほど高まり、胸の動悸が早くなっていた。
今にも走り出して船に駆け乗りたい衝動に襲われる。この瞬間にも声を掛けられ、バレて捕まってしまうかもしれない。変装してはいるが気付かれない保証はどこにもない。
足が震えた。
冬にも関わらず汗が全身に浮いている。必死に息が上がっているのに気づかれぬよう、俯いて向いて歩いた。
「お嬢さん、お名前を」
しゃがれた声がした。
一瞬、心臓が止まるほどの衝撃を受けた。
ハッとして顔を上げる。
アンジェリカと同じ、濃紺のローブを着た老齢の女性が立っていた。フードの部分が金色の刺繍で縁取られている。オリオン教司祭の印だ。
オリオン教は女性でも司祭になることが出来る珍しい宗教であり、それが信者を数多く獲得した要因でもあった。
「わ、私は、フィロメナと申します」
アンジェリカは震える声で偽名を言った。もう平静を装うことが難しいほどに身体がしびれている。まるで全身が脈打つのが聞こえるようだ。
司祭の女性は名簿らしき紙とアンジェリカを暫く交互に見ていたが、やがてゆっくり、頷いた。
「分かりました。船にお乗りください」
安堵が薄く身体を覆う。
その時。
「あっ」
アンジェリカは段差で躓いた。油断してしまった。船体を掴んだために転倒は免れたが、一瞬フードが脱げ、素顔が晒されることとなった。
慌ててフードを被り直し、急いで船に乗り込もうとした、その時。
後ろから複数の、慌ただしい足音が聞こえてきた。
アンジェリカは泣きたくなりながらも振り返った。
◆
巡礼船の到着予定時刻を過ぎていた。既にアンジェリカは捕縛され、こちらに移送されている頃だ。
エルギンの机の上には、指輪の入った小箱と、薔薇の花束が置いてある。港でとらえたアンジェリカはここに連れて来るよう命じてあるのだ。
ついにあの娘が我が物となる。そう考えただけで酷く興奮した。昨日は一睡も出来なかった。
勝手に脱領しようとしたのだ。これは純然たる罪。領主の元に連れ出されるのは自然な流れだ。
寝所で彼女がどのような表情を見せてくれるのか、想像しただけで笑みがこぼれる。
ノックの音がした。
「入れ」
ついに来たか。エルギンはドアの向こうを凝視する。しかし入って来たのは側近のフェベ一人だけだった。
肩透かしを食らい、ため息をつく。
「それで、アンジェリカは今どこに居るのだ」
エルギンは煙草を深く吸い込んだ。
「そ、それが、分かりません」
思わずフェベの顔を見る。怯えと焦りの色が浮かんでいる。
「分からない、だと? ちゃんと巡礼船は調べたんだろうな!」
「はい。何度も全員の顔を検めました。しかし船に乗り込む者の中に、アンジェリカと思しき者は見つかりませんでした」
「何をしているんだ間抜け! 実家の方は!? あいつの両親は捕らえたのだろうな!」
思わず立ち上がり、机をバンバン叩いていた。
「いえ、それが……」
エルギンの迫力に押され、小声になりながフェベが言う。
「彼女の実家にも兵を向けましたが……、もぬけの殻でして」
エルギンは唖然として口を大きく開けていた。沈黙が部屋を覆う。
「た、ただ、アンジェリカ嬢の足取りは推測出来ます」
少しでも失点を取り返そうとするように、フェベが前のめりになる。
「じゃあどこに居るんだ」
エルギンは荒くなった息を整えるように深呼吸をしつつ、どかりと椅子に座り直した。
「5日前にエルギン伯爵領を出ているかと」
「は!?」
「じ、実はその日も巡礼船が来ていたのです。予定にない入港でしたが、信者の数の増加で、入港の回数が変わることはよくあった上、そういう時は料金が多めに支払われていました。ですから担当者は気にしていなかったそうです。
エフィンジャー一家の目撃情報も、今のところ5日前からありませんし、当日、アンジェリカ嬢に背格好の似た信徒を目撃した兵もいたと聞いています。ですから……」
5日前。その数字を聞いてエルギンの脳裏にはある人物の顔が過った。アンジェリカを監視していたはずのカーティスだ。
彼がエルギンに「アンジェリカは巡礼船で逃げるつもりです」と報告したのも5日前の夜。恐らく出港した直後。彼がアンジェリカの本当の計画を知らないわけがない。
エルギンはまんまとハメられたのだった。
「くそったれ!」
エルギンは指輪の入った小箱をたたきつけた。小箱が壊れ、ダイヤの指輪が金属音を立てて床に転がった。
◆
カーティスは二重スパイだった。エフィンジャー家の情報をエルギンに伝える傍ら、あちらの情報もエフィンジャー家に流していた。エルギンの信用を得るため普段は本当の情報を伝え続けていた。しかし、このいざというタイミングで誤情報を流し、まんまと出し抜いた。
「8日後の船に乗る」という会話をわざわざしていたのは、部屋に魔道具が埋め込まれていて、会話を盗み聞きされている可能性を考慮し、念には念を入れてのことだった。
本当に大事な情報交換は、家族しか分からない暗号を通して行われた。
アンジェリカが船に乗り込もうとした時のこと。
後ろから慌ただしくやって来たのは、オリオン教のローブをまとった家族や使用人たちだった。最初から家の者全員で逃げるつもりだったのだ。
カーティスの手引きの元、怪しまれないよう別々に来る予定だったのだが、彼らは恐怖を我慢できず、港で集団になり、船を見つけた時には走り出してしまったらしい。
アンジェリカも肝を冷やした。あの時実際兵士が様子を見に来たのだが、司祭と、そして見守りに来てくれていたカーティスの機転で乗り切れた。
司祭は
「この者たちは皆同じ村の出身者たちで、手紙で、村がモンスターに襲われたと知ったようなのです。だから早く帰らねばと気が急いていたのでしょう」
と言ってくれた。カーティスは
「司祭様もこう言っておられる。お前らもオリオン教と揉めたくないだろう。連中、気に入らない人間は全て粛清するという噂だぞ」
と兵士たちに引き上げるよう誘導してくれた。
実はアンジェリカが仲良くなったオリオン教の信者は二人いた。そのうちの一人が司祭だったのだ。
彼女は話を聞くなり「力になりましょう。神の名において、人道は最も優先されるべきなのですから」
と快く言ってくれたのだった。
こうしてアンジェリカたちは無事エルギンの魔の手を振り切った。カーティスとも数日後に合流できた。
ただ命あっての物種とはいえ、エフィンジャー家は本土に資産の一切を持っていない。全てを一から始める必要がある。
しかしへこたれている場合ではない。アンジェリカたちは翌日からすぐ、持ち出したポーションの販売を開始したのだった。
◆
数ヶ月後、アンジェリカたちは島に戻ることになった。
エルギンに連れ戻された、のではない。エルギンが捕まったのだ。
アンジェリカの通報を受けたエルギン領の隣領領主は、直ちに国王へ宛てた手紙を出した。
そこからエルギンが捕まるまでは早かった。監査のため、島へ訪れた武官の一人が、本物のエルギン伯爵の顔を知っていたからだ。
偽物の本名はデジレという詐欺師だった。彼はエルギン領を訪れ、その特殊性を見た時、入れ替わりのアイディアを思いついたらしい。
そしてエルギン伯爵に取り入り、数年後、本当に入れ替わってしまったのだ。
成り替わられた本物の方は地下牢で発見された。
生きていたのだ。
伯爵は莫大な財宝を代々に渡って受け継いでいた。デジレはその情報を掴んでいたが、どうしても見つけられなかった。見つけるには伯爵に場所を吐かせるしかなかったが、彼はどんなに酷い拷問を受けても言わなかった。故に殺せなかったのだ。
いずれエルギン伯爵が回復すれば、また領主として復帰することだろう。
そして行方不明になっていた少女たちも、伯爵家屋敷から生きて発見された。
ただ屋敷の庭の一角からは複数人の遺体も見つかった。デジレが伯爵に成り替わる際、邪魔になり排除された人々だと思われた。
デジレの身柄は直ちに拘束された。その際最後まで何か喚いていたようだ。
彼の身柄は王都に移され、市中を引き回された後、散々に罵声を浴びながら斬首された。
一方、エフィンジャー家のポーションはたちまち有名になっていった。どうやら品質が外のポーションより遥かに優っていたらしい。それはアンジェリカの予想の真逆だった。
エフィンジャー家では肥料にも魔力を込め、その配合比率も繊細に決めている。ポーションを生成する過程でも魔力を流し込む。その考え方自体が彼ら独自のものだったらしい。
思い返せば、エフィンジャー家のポーションが外に比べて劣っていると噂が流れ始めたのは、デジレが入れ替わったタイミングと一致していた。
彼はエフィンジャー家のポーションが外のものより質が良いことを当然知っていて、少量だけを高値で他領に流して外貨を得ていたようだ。
まとまった外貨を稼ぐため、それでいてエフィンジャー家に他との繋がりを持たれないためにも、どうしても外に出したくなかったのだろう。
デジレがアンジェリカとの結婚にこだわったのは、人質としての意味もあったのだ。
今、アンジェリカたちは以前よりも忙しく働いている。ポーションの市場価値が高まり、高値で取引されるようになったのだ。生産が間に合わず、急いで人手を増やしているところだ。
このままいけば島で一番の資産を得ることになるだろう。
だがそれよりもアンジェリカには嬉しいことがある。父親がカーティスとの結婚を認めてくれたことだった。
カーティスは使用人という立場だったし、二重スパイという複雑な立場でもあったため、これまではどうしても婚約することができなかった。
しかし今回の件を通して、モリスはやっとカーティスを心から信頼したらしい。
仕事は大変ではあるが、もうデジレの恐怖に怯える必要もない。張り詰めた緊迫感からも、先の見えない不安からも解放された。ただ愛する人と暮らしていけることが、こんなにも幸せなのだ。
それが何より一番の収穫だった。
おわり




