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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

狂える夜の魔女

作者: 青木 梨一

夜霧が地表を覆い尽くし、遠くの光さえ飲み込んでいた。風は止み、草一本揺れない。音が存在しないのではなく、音が生まれる前に殺されている──そんな静けさだ。


その沈黙を裂くように、一匹の獣が遠吠えをするような声が響いた。

骨と喉が擦れるような、耳の奥に残る甲高く不快な鳴き声。


霧の中を、一人の女性が歩いていた。軍服姿。軍帽を深く被り、白い髪を束ねて後頭部でまとめている。肌は不健康なほど白く、瞳だけが異様に赤い。


右腕は義手だった。

斧と機関銃が融合したような攻撃的な機械腕。金属の継ぎ目が呼吸のたびに微かに鳴った。


ここは帝国。

夜になると、骸獣と呼ばれる不死身の怪物が現れる土地。


骸獣は瘴気を放つ。瘴気は人の精神を狂わせ、やがて骸獣へと変貌させる。逃げ場のない夜の中で、正気を保てる者はほとんどいない。


帝国は禁忌とされた魔女研究を行い、骸獣に対抗できる強化人間を生み出した。

瘴気の世界でも正気を保ち、特殊武装で不死身の怪物を狩る兵。

その狩猟者の一人が、エーデルだった。


エーデルは足を止めた。


霧の向こう、何かがしゃがみ込んでいる。

白骨化した人間の遺骸を貪っていた。肉はもうない。骨だけの身体を、しかし確かに“喰って”いる。


白骨化した生物の遺骸を継ぎ接ぎ、まるで生命への冒涜が具現化したような獣──骸獣がそこにはいた。


骸獣は、まだこちらに気づいていない。

骨を齧る音だけが、静けさを汚していた。


エーデルは胸ポケットから小瓶と注射器を取り出す。

小瓶の中身は、赤──赤より赤い赫色の液体。照明もない霧夜で、なお濃く輝く血の色だった。


彼女は躊躇なく、自らの腕に針を刺し、赫を押し込む。


すると──


どく、どく、どく、と心臓の鼓動が身体の中心で暴れ出した。

耳の奥で血が鳴る。視界の端が鋭くなり、霧の粒が一つひとつ輪郭を持つ。瞳の赤色も、血のように鮮やかな赤になってゆく。


鼓動に呼応して、右腕の義手が“躍動”した。

金属が生き物の筋肉のように蠢き、内部機構が歯噛みするように唸る。武器が、狩りの時間を待ち望んでいたかのように。


魔女の血──赫血を摂取することで、強化人間は人間の限界を超える。不死身の怪物を唯一狩れる“狩猟者”へと変貌するのだ。


骸獣が、嫌な気配でも感じ取ったのか、遅れてこちらを向いた。甲高い耳障りな声で吠える。


それと同時に、エーデルは駆け出した。


静寂の白と、狂騒の赫が入り混じる。


骸獣の動きは獣というより、骨と瘴気の塊が跳ね回っているようだった。

痛みも恐怖もない。破壊されても、なお襲い来る。


エーデルは踏み込んだ。

斧を振るう。刃が骨を割り、裂け目から黒い霧が噴き出す。骸獣は大きく体勢を崩したが、四肢をばたつかせ、なおも喰らいつこうと前へ出る。


機関銃が火を噴いた。

乾いた連射音が夜を引き裂き、弾丸が頭蓋を砕く。骨片が霧の中に散る。

だが骸獣は倒れない。不死身だ。ここで必要なのは“殺す”ことではない。“狩る”こと。


エーデルは距離を詰めた。

骸獣の喉元へ、迷いなく踏み込む。


──その前に。


骸獣の爪が、横薙ぎに走った。

避ける判断は遅れなかった。だが、退くという選択肢は最初から存在しなかった。


鈍い衝撃。

次の瞬間、左腕が持っていかれる。


根元から、断ち切られた。


熱が弾け、感覚が途切れる。

血が噴き上がり、霧を赤く染める。

だがエーデルの足は止まらなかった。


視界の端で、自分の左腕が地面に落ちるのが見えた。

それを“確認”しただけで、思考は次へ移る。


まだだ。


エーデルは体勢を崩したまま、前へ踏み込んだ。

片腕になろうと、狩りは終わっていない。


機械腕の出力が唸りを上げる。

斧を振り上げ、骸獣の喉元へ深く叩き込む。


骨が軋み、接合が裂ける。

刃が首の奥──骸獣の“核”へ到達する。


骸獣は、そこで初めて声にならない音を漏らした。

叫びは喉の内側で潰れ、そのまま途切れる。


巨体が崩れ落ち、地面を打つ。

霧が揺れ、やがて静かに元へ戻っていく。


血に染まった世界。

獣の死骸の上に、エーデルは立っていた。


腕を失った左肩から噴き続ける血を、エーデルは肩の筋肉に力を込めて、無理やり止血する。


血が止まってからしばらくすると、彼女の左腕の断面が、蠢いた。赫血が血管を叩き、肉が盛り上がり、骨格が組み上がり、皮膚が閉じる。


再生。それは魔女の赫血による効果。

僅か数秒で、失われた左腕は再生していた。


強化人間は魔女の血液を摂取することで、代謝機能が限界を超えて上昇し、全細胞の生命活動が強制的に加速される。そうすることで異常なまでの膂力と再生能力を一時的に確保し、骸獣を狩るのである。


突如、エーデルの耳がぴくりと動いた。


骸獣の死骸が崩れ落ちた後の荒野に、微かな音が混じる。風でも、骨の軋みでもない。一定の間隔で、かすかに上下する音。


呼吸だ。

──人間の。


エーデルはその場で動きを止め、意識を音へ集中させる。

研ぎ澄まされた聴覚が、霧を透過するように距離と方向を割り出す。乱れてはいるが、狂気に侵された者の呼吸ではなかった。


「……生きている?」


低く呟き、エーデルは歩き出す。

荒れ果てた地面を踏み締め、瓦礫を避けながら、音の主へと近づいていく。霧は濃く、視界は数歩先までしか届かない。


やがて、地面に横たわる影が見えた。


少年だった。

荒野に投げ出されるように倒れ、意識を失っている。衣服は汚れ、頬は冷え切っているはずなのに、胸は確かに上下していた。


エーデルは一歩距離を保ったまま、目を細める。


「生存者か……?」


骸獣が放つ瘴気は人を殺し、狂わせ、獣へと変貌させる。魔女や、魔女の因子を取り込んだ強化人間でもない限り、この瘴気の中で人の形を保てるはずないのだ。


「……瘴気を浴びても、狂わないのか……」


不思議そうに呟き、エーデルは慎重に近づいた。

義手のシリンダーの中に弾薬が入っていることを確認しながら、少年の傍へ膝をつく。


そして、低い声で呼びかける。


「おい。おまえ。無事か?」


返事はない。

まぶたが微かに震れるだけで、意識が戻る気配はなかった。


エーデルは数秒、黙って少年を見下ろす。

ここに置いていくわけにもいかない。しかし、軍に引き渡せば、“検体”として扱われるのは目に見えていた。


「……放っておけないか」


小さく呟き、エーデルは少年の身体に手を伸ばした。

意外なほど軽い感触が、軍服越しに伝わる。


「生きているなら……連れて帰る」


そう言って少年を抱え上げ、エーデルは踵を返した。

霧の荒野に再び静寂が戻る。


血に染まった夜の中で、彼女は気絶した少年を抱え、拠点へと歩き出した。



「目が覚めたのか」


低い声が、薄暗い部屋に落ちた。


そこは簡素な造りの一室だった。どこにでもある宿屋の部屋──だが、エーデルはここを拠点として使っていた。

灯りは蝋燭が一本だけ。炎は弱く、壁に揺れる影を落としている。窓は厚手のカーテンでぴっちり閉め切られているが、その隙間からは昼の光が細く差し込んでいた。


家具は最低限しかない。

ベッド、机、椅子。それだけだ。


机の上には、義手のパーツや工具、弾薬が無造作に散乱している。金属の匂いと油の匂いが混じり、生活感よりも作業場に近い空気が漂っていた。


ベッドには、あの少年が寝かされていた。

目を開け、ぼんやりと天井を見つめている。焦点の合わない視線が、ゆっくりと揺れた。


一方のエーデルは、ソファに腰を下ろしていた。

下着姿の上からカッターシャツを羽織っただけの格好。右腕の義手は、先ほどまでの斧と機関銃が融合した武器ではなく、本物の腕のように自然に動く機械の腕へと換装されている。


エーデルは身を乗り出し、少年の顔を覗き込んだ。


「おい。聞こえているなら返事をしろ」


少し間を置いて、少年の視線が動く。

二人の目が合った。


「……ここはどこですか?」


かすれた声だった。


「ここはヴァルデン地方グラウシュタット市街の宿だ」


エーデルは淡々と答え、続ける。


「……お前は誰だ。……どうして、あの場所にいた?」


少年は口を開きかけ、言葉を探すように眉を寄せた。

だが、すぐに首を振る。


「……分かりません」


困惑が、そのまま声になっていた。


「過去のことが、何も……名前も、思い出せないんです」


エーデルは一瞬だけ黙り込み、少年を観察するように視線を走らせた。嘘をついている様子はない。混乱と空白だけが、その表情に浮かんでいる。


「……記憶喪失、か」


それ以上追及しても意味はないと判断したのか、エーデルはソファから立ち上がった。


「ひとまず、体を洗え」

「え……?」

「汚れている」


少年が何か言いかける前に、エーデルは言い切る。


「シャワーだ。話はその後にする」


そうして彼女は、戸惑う少年を促し、シャワー室へと向かわせるのだった。


数分後。


「……自分でできます」


そう言う少年の言葉は、あっさりと無視された。


エーデルは少年の背後に立ち、濡れた黒髪をタオルで乱暴になりすぎない程度の力で拭いている。水気を含んだ髪が指に絡み、白いタオルに雫が落ちた。


「じっとしていろ」


短くそう言われ、少年はそれ以上何も言えなくなる。

抵抗する気力もなく、されるがままに頭を預けていた。


エーデル自身も、すでに身体を洗い流していた。

骸獣は血液を持たないため、戦闘で返り血を浴びることはない。だが、瘴気の霧は別だ。まとわりつくような、掲揚しがたい嫌な死臭がある。肌や髪に染みつくような感覚があり、洗い落とさずにはいられなかった。


タオル越しに、少年の頭を軽く押さえながら、エーデルが口を開く。


「……おまえ、名前も思い出せないのか?」


少年は少し間を置いてから、小さく首を振った。


「……はい。何も」


その答えを聞いて、エーデルは一瞬だけ考え込むように視線を逸らした。

そして、さほど悩んだ様子もなく、言った。


「なら、フリードだ」

「……フリード?」

「今日からお前の名前だ。何か思い出すまで、私がお前を育ててやる」


少年──フリードは目を瞬かせ、驚いたようにエーデルを見上げる。


「……育てる、って……」

「瘴気で気が狂わない人間は貴重だ」


エーデルは淡々と続ける。


「獣狩りの時、私の戦闘をサポートさせられるだろう。荷物運びでもいい。役目はいくらでもある」


それが冗談でも脅しでもないことは、声音で分かった。

だが同時に、そこには突き放すような冷たさだけでなく、奇妙な決意も滲んでいた。


その時、部屋の扉がノックされた。


エーデルは手早く応じ、差し出された手紙を受け取る。

内容を一瞥すると、眉一つ動かさず、蝋燭に近づいた。

紙はすぐに炎を上げ、端から黒く丸まっていく。

燃え残りは指で払われ、灰となって床に落ちた。


「……どうやら今夜も、狂った獣を狩りにいかねばならないらしい」


エーデルは静かに呟き、蝋燭の火を見つめる。



フリードを、戦闘の補助要員として育てる。エーデルがそう決めた背景には、狩猟隊の人員不足があった。


狩猟隊は常に人手不足だった。

そもそも強化人間の数が少なく、骸獣狩りは基本的に単独行動になる。連携を前提とした部隊運用など、帝国の狩りの現場では夢物語に近い。


加えて、エーデル自身の問題もあった。

義手では、どうしても持ち運べる荷物に限界がある。赫血の小瓶、注射器、弾薬、予備の義手や工具──どれも欠かせないが、すべてを自分一人で抱えるのは無理があった。


だからこそ、ずっと探していた。

自分の右腕になれる存在を。


「……逃げることは教えない」


ある日、訓練用に借りた空き地で、エーデルはフリードにそう言った。


「まず覚えろ。戦うより、生き延びることだ」


木でできた剣をフリードに渡し、自分も同様に、義手で木剣を手に取る。


「構えが甘い。足を開け。視線は相手の胸だ」

「こ、こう……ですか?」

「違う。力を抜け。力んだら、死ぬぞ」


言葉は厳しかったが、投げやりではなかった。

エーデルは何度でもフリードの姿勢を直し、転べば手を引き、失敗すれば理由を説明した。


フリードは覚えが早かった。

特別な才能があるというより、必死だった。言われたことを一つも無駄にしたくないという目をしていた。


夜狩りから帰ってくると、フリードはいつも既にベッドで眠っていた。エーデルはいつものように上着を脱ぐと、フリードの寝ているベッドに入り、そのまま二人は夕方まで眠る。

骸獣は夜にしか現れないため、どうしても昼夜が逆転した生活を送ることになるのだ。


宿屋の狭いベッドで、肩を寄せ合って横になる。

最初は寒さをしのぐためだった。瘴気の夜を越えた後の身体は、思った以上に冷える。


「……近いか?」

「……いえ。平気です」


エーデルはそれ以上何も言わず、目を閉じる。

不思議なことに、フリードと一緒に眠るようになってから、ずっと見てきた悪夢を見なくなっていた。


実験台から見える景色。

金属の匂い。

血の音。


それはエーデルが幼少期に帝国の実験体として身体を弄られていた時の記憶だった。そこでは、エーデルは番号で識別され、人間のような扱いを受けることはなかった。


そんな悪夢は、フリードの可愛らしい呼吸にかき消されていく。


理由は分からないが、フリードと一緒に眠る時、エーデルは不思議と悪夢を見なかった。

だが、眠れるという事実は、何よりも大きかった。


拠点は定期的に移した。

一箇所に留まれば、軍や骸獣に目をつけられる。


荒れた街道を歩き、霧の町を抜け、壊れかけの橋を渡る。

フリードは文句を言わなかった。重い荷を背負い、転びながらもついてきた。


「……大丈夫か」

「はい。まだ、歩けます」


最初は頼りなかった背中が、少しずつ変わっていく。

肩が広くなり、足取りが安定し、夜の気配に敏感になっていく。


三年が経った頃。

フリードは十五歳ほどになっていた。


「今日から、狩りについて来い」


墓地の外れ。

瘴気が濃く、骸獣の気配がはっきりと漂う場所で、エーデルは言った。


「動くな。声も出すな。ただ、見ておけ」


フリードは頷き、言われた通りに身を低くする。

エーデルが赫血を注射し、心臓の音をどくどくと高鳴らせ狂ったように戦う様を、彼は固唾を呑んで見ていた。


骸獣が倒れた後、フリードは震える声で言った。


「……エーデル、傷が」

「心配はいらない」


エーデルは先程の戦いで大きな引っ掻き傷を受けていたが、それらはほんの十数秒で再生していった。


エーデルはフリードに荷物を預ける。──赫血の小瓶。注射器。弾薬。予備の義手と武器……。


「これからは、これを持って、私の仕事に着いてきて欲しい」

「……わかった」


フリードは渡された荷物を一つ一つを確かめるように受け取った。


エーデルは彼の存在を、軍には報告しなかった。

報告すれば、彼がどう扱われるかは分かっている。


エーデル自身が、幼い頃から“実験”を受けてきた。

同じ目に、フリードを遭わせる気はなかった。



「……フリード」


扉を開けると、少年──いや、もう少年とは言えない青年が、荷物を整理していた。

背中が広くなり、肩の線がはっきりしている。かつての細さはなく、狩りに耐える身体になっていた。身長も既にフリードと同じぐらいまで伸びていた。


「エーデル?どうかした?」


振り返ったフリードの目と、一瞬、視線が絡む。その視線を受けた瞬間、エーデルの胸がわずかにざわついた。


「……いや。話がある」


エーデルは咳払いを一つしてから、淡々と続ける。


「今日から部屋を、分けようと思う」

「……え?」


フリードは一瞬、言葉の意味を測りかねたように目を瞬かせた。


「お前も、もう年頃だ。男だ。いつまでも同じ部屋で寝るのは……よくない」


それは、もっともらしい理由だった。

実際、間違ってはいない。


「別に、僕は気にしてないけど……」

「私が気にする」


少し強めに言い切ると、フリードは口を噤んだ。

納得していないのは明らかだったが、それ以上は食い下がらない。


「……分かったよ」


そう答える声は、どこか寂しげだった。


その夜から、二人は別々の部屋で眠るようになった。


エーデルは一人、ベッドに横になり、天井を見つめる。隣にいるはずの呼吸音がない。それだけで、部屋が妙に広く、寒く感じられた。


目を閉じると、昼間の光景が脳裏に浮かぶ。


武器の手入れをするフリードの横顔。

自分を見るときの、あの視線。

最近、妙に長く感じる。

ただの信頼や尊敬ではない──そんな気がする。


拾った日、一緒にシャワーに入ったことを思い出して、エーデルには真逆の考えが思い浮かんだ。


……いや、私の自意識過剰かもしれない。むしろ、私の方が意識しているのかもしれないな。


鍛えられた腕。

背中の熱。

ふとした距離の近さに、心臓が速くなる瞬間。


八歳も年下だ。

しかも、自分が育てた相手だ。


「……馬鹿らしい」


エーデルは小さく呟き、目を覆った。


八歳も年下になにを欲情しているのだろうか。私は。

……こんなことを考えている暇があるなら、夜に備えて早く眠ろう。


だが、その夜──

久しぶりに、エーデルは悪夢を見た。


冷たい金属の感触。

拘束具の重み。

そして、呼吸のない暗闇。


目を覚ました時、胸に残っていたのは、恐怖よりも──隣にいないことへの、はっきりとした喪失感だった。


エーデルは天井を見つめたまま、静かに息を吐く。



あの夜、少年を拾ってから六年が過ぎた。


宿屋の中庭で、エーデルは武器の手入れをしていた。

分解した義手の部品を机に並べ、油を含ませた布で金属を拭う。慣れた作業のはずなのに、その日はどうにも指先が落ち着かなかった。


影が差す。


振り向かずとも分かる。

立ち位置の高さが、もう以前とは違う。


「……大きくなったな。フリード」


そう言って顔を上げたとき、彼女の視線は自然と少し上を向いていた。

いつの間にか、フリードの肩はエーデルよりも高くなっている。鍛錬を重ねた身体は厚みを増し、無駄な線が削ぎ落とされていた。

なにより、顔立ちが整いすぎているのが厄介だった。


「そういうエーデルは、若いままで変わらないね」


屈託のない声。

フリードは屈んで、エーデルの手元を覗き込む。距離が近い。以前なら気にも留めなかったはずの距離だ。


「ずいぶん軽口を叩けるようになったな」


エーデルは視線を逸らし、義手の部品を一つ持ち上げる。

自分の見た目が、拾ったあの日から変わっていないことは、誰よりも自覚していた。


「おまえには、もう説明したと思うが」


淡々とした声で言いながら、彼女は部品を元に戻す。


「これは強化人間の呪いだ。実験体として体を弄られたせいで、見た目がこれ以上老化することはない。……とはいえ、寿命は普通に訪れるし、むしろ“輸血”をするたびに削れていく。……白髪も増え、瞳も赤く染まり──なんにせよ、呪われた姿さ」


言い切ったはずだった。

だが、フリードは即座に首を振った。


「そんな卑下しないでよ」


彼は真っ直ぐ、エーデルを見る。


「エーデルは綺麗だ。世界でいちばん可愛いよ」


一瞬、空気が止まった。

エーデルは自分でも驚くほど、分かりやすく赤面していた。フリードにそんな顔を見られたくなくて、エーデルは慌てて立ち上がり、義手の調整具を乱暴に机へ置く。


「……からかうな」

「からかってない。本心だよ」


フリードの声は軽くない。

その真剣さが、かえって居心地を悪くする。


エーデルは腕を組み、距離を取るように一歩下がった。

だがフリードは、それに気づいたのか、さらに一歩近づく。


「最近、ちゃんと眠れてる?」


彼は顔を覗き込むようにして言った。


「顔色、よくないよ。無茶しないでね」


本気で心配している顔だった。

それが分かるからこそ、胸の奥がざわつく。


──これは、だめだな。


エーデルは内心でそう思う。

フリードが私に依存しつつある。

良くない。健全じゃない。


……いや。

フリードももう成人している。

大人だ。

そろそろ、独り立ちさせるべきなのだろう。


その考えに、自分が一番フリードに依存していることを、意図的に見ないふりをしながら。

エーデルは一度、息を整えた。


「……フリード」


名前を呼ぶと、彼は少し姿勢を正した。


「お前も、もう大人だ。そろそろ、独り立ちを考えろ」


言葉は、想像していたよりも冷たく響いた。


「……急に、どうして」


フリードの眉が寄る。


「今のままじゃ、だめだ。私に頼りすぎだ」

「そんなことない」


即答だった。


「僕は……」


言いかけた言葉を、フリードは飲み込む。

拳を握りしめる仕草が、無意識に出ていた。


エーデルはそれを見て、視線を逸らす。


「……今日のところは、まあいい」


話を切り上げるように、義手を装着する。金属が噛み合う音が、会話を断ち切った。


「今夜も獣狩りだ」


エーデルは背を向けたまま言う。


「行くぞ」


フリードは何も言わなかった。

ただ、その背中を見つめる視線だけが、以前よりもずっと強く、重くなっていた。


エーデルはそれを感じながら、歩き出す。

振り返らなかった。



瘴気を纏った空間では、生命は死滅するか、獣となって狂うしかない。

その理を当然のものとして受け入れたかのように、夜は気味が悪いほど静まり返っていた。虫の声も、風のざわめきもない。音という音が、瘴気に吸い取られている。


そんな静寂な死の空間へ、今夜も二人は足を踏み入れていた。


靴底が土を踏む音さえ、やけに大きく響く。

エーデルは歩調を落とし、周囲に意識を巡らせる。フリードは少し後ろを歩き、言われた通り、足音を極力殺してついてきていた。


やがて、視界が開ける。


そこは墓地だった。

墓石は無秩序に倒され、引きずられ、砕かれている。

地面には掘り返された穴がいくつも口を開け、そこかしこに白いものが覗いていた。

人骨だ。


土の匂いに混じって、瘴気特有の嫌な臭気が鼻を刺す。

ここでは、死ですら安らげない。


エーデルは屈み込み、地面に残された痕跡に指先で触れた。

引きずった跡。骨を噛み砕いた痕。掘り返された墓の深さ。


「……この痕跡」


低く呟き、立ち上がる。


「おそらく、今回の標的は相当数の人骨を食っているな」


フリードは息を詰め、墓地を見回す。

荒らされた光景に、無意識のうちに喉が鳴った。


エーデルは振り返らず、続ける。


「……だが、フリードがすべきことは変わらない」


歩みを止め、振り向く。

赤い瞳が、夜の中で静かに光る。


「フリードは動くな。ただ、見ていればいい」


その声は命令だった。

心配でも、信頼でもなく、狩人としての線引き。


「……分かったよ、エーデル」


フリードは小さく頷く。

それ以上の言葉はなかった。


骸獣は人骨を食う。

別に食わずとも、不死身の怪物が餓死することはない。

だが、人骨を喰らうことで、骸獣は力を得る──そう言われている。


今回の骸獣は、おそらくこの墓地を荒らし、埋葬された人骨を掘り起こして喰っているのだろう。死者の数が、そのまま強さになる。


とはいえ、こうした狩場は珍しくない。墓地、戦場跡、処刑場。骸獣は常に、死が積み重なった場所に引き寄せられるのだ。


二人は瘴気の流れを辿り、慎重に進んだ。

やがて、濃く澱んだ瘴気の溜まり場へと近づく。


エーデルは片手を上げ、合図を送る。

フリードは即座に足を止め、身を低くした。


二人は茂みに身を隠す。


その隙間から、骸獣の姿が見えた。


月明かりに照らされ、歪な影が地面に落ちている。

骨と瘴気が絡み合ったような巨体。墓穴の縁にしゃがみ込み、白いものを無造作に引きずり出し、噛み砕いている。


──ぱきん、と骨が折れる音が、やけに大きく響いた。


フリードは息を潜めたまま、その光景から目を離せずにいた。エーデルは静かに骸獣を見据え、距離と風向き、退路を瞬時に測る。


エーデルが、後ろ手に指を動かした。それはフリードへの合図だった。


茂みの影から、静かに一歩身を寄せる。

布擦れの音すら立てず、フリードは注射器を差し出した。透明な筒の中で、赫血が不気味な光を湛えている。


エーデルは受け取ると、躊躇なく腕に針を突き立てた。

赫が体内へ流れ込む。


瞬間、心臓が跳ねた。

どくり、と一度大きく鳴り、次いで鼓動が加速する。血が血管を叩き、耳鳴りのような轟音が頭の内側で膨れ上がる。


視界が赤く染まった。

闇が濃くなり、輪郭が研ぎ澄まされる。骨の軋み、瘴気の流れ、骸獣の呼吸──すべてが、手に取るように分かる。


血湧き、肉躍る。

理性が遠のき、代わりに“狩るための衝動”だけが鮮明になっていく。


エーデルは踏み込んだ。


次の瞬間には、もう骸獣の懐だった。

斧が唸りを上げ、横薙ぎに振るわれる。


刃が骨を断ち、首が宙を舞う。

骸獣の身体が理解するより先に、結果だけが落ちていた。


巨体が崩れ、地面に叩きつけられる。


「……他愛無いな」


吐き捨てるように呟く。

だが、胸の奥にわずかな違和感が残った。


──おかしい。


あまりにも、簡単すぎる。ここまで手応えがないのは不自然だ。骸獣を狩ったというのに、瘴気が弱まっていく気配さえない。


その感覚が言葉になる前に。


周囲の闇が、ふっと沈んだ。


光が失われるというより、夜そのものが一段深くなったような感覚。

瘴気の流れが乱れ、空気が重くなる。


その瞬間、少年の声が夜を裂いた。


「エーデル!上だ!」


反射的に、エーデルは顔を上げた。


そこにあったのは、骸獣の姿だった。

大きく開かれた顎。骨と瘴気が幾重にも重なった、巨大な骸獣。その大顎が、静寂を破壊する狩人の骨を貪るために、この機会を狙い続けていた。


落ちてくる影を見上げた瞬間、エーデルは悟った。


──今更、逃げても間に合わない。


身体は動く。だが、判断が追いつかない。赫血によって覚醒している超感覚が、距離と速度を正確に計算してしまう。

避けられない。間に合わない。これは──詰みだ。


……私は、ここで死ぬのか。


不思議と、恐怖はなかった。

胸の奥がひどく静かで、拍子抜けするほどだった。


案外、短い人生だったな。


次の瞬間、思考がほどける。

走馬灯のように、記憶が流れ込んできた。


冷たい金属台。拘束具。幼い身体は“道具”のように扱われ、何度も弄られた実験の日々。


狩猟隊に放り込まれ、血と瘴気の夜を越え続けた過去。誰とも組まず、誰にも期待されず、ただ“狩るため”だけに生きてきた時間。


そして──

霧の荒野で、倒れていた少年。

名前も持たず、瘴気に狂わず、怯えながらも必死についてきた背中。


フリード。


一緒に歩いた夜。悪夢を見ることなくぐっすりと眠れた昼。何気ない会話が次々と思い出されていく。


……フリードが、ちゃんと独り立ちするところを見届けられなかったのだけが、心残りだ。


そこまで考えた、その瞬間だった。


視界が、横に弾かれた。


衝撃。


身体が宙を舞い、地面を転がる。

何が起きたのか理解するより先に、巨大な顎が閉じる音が響いた。


──間一髪。


フリードがエーデルの身体を突き飛ばしたおかげで、エーデルは骸獣の両顎を、紙一重で回避していた。


「……っ!」


息を吐く間もなく、声が届く。


「エーデル!怪我はない?!」


フリードの声だった。


エーデルは反射的に身体を起こす。

感謝の言葉を──無事だと伝えようとして。


その瞬間、全身が凍りついた。


フリードが、倒れている。

いや──倒れている、だけではない。


両脚が、なかった。


膝から下が、根こそぎ失われている。断面からは血が、勢いよく噴き出していた。吹き出した血が地面を叩き、土と混じり、瘴気の中で黒く広がっていく。


フリードの身体は、すでに力を失っていた。

意識も、ない。


「……そんな……!フリード!!」


喉が引き攣れた。

叫び声が、夜の霧に吸い込まれる。


……だめだ。


強化人間でも、狩人でもない。

フリードは、私とは違う。

私なら、腕が落ちても再生する。

魔女の血を打てば、失った腕は戻る。

だが──フリードの脚は、生えてこない。

それどころか、このままでは。

出血が多すぎる。

今すぐ止血しなければ、死ぬ。


エーデルは駆け寄ろうとした。

身体が勝手に動き、思考が追いすがる。


──処置を。今すぐ。


だがその前に、巨大な骸獣と、目が合った。骨と瘴気で形作られた眼窩の奥からは闇が覗いている。


歯を食いしばる。選択肢は一つしかなかった。


「よくも!」


叫びは、理性の破断音だった。


エーデルは赫血に染まった身体を無理矢理に前へ叩き出す。

怒りが、恐怖を押し潰す。思考は削ぎ落とされ、ただ“殺す”ための動きだけが残った。


斧が唸る。

骸獣の脚部を叩き割り、骨の柱をへし折る。


続けて、機関銃が火を噴いた。

至近距離。骨も瘴気もまとめて穿つ。砕けた破片が、夜に飛び散る。


それでも、骸獣は倒れない。


ならば──


エーデルは踏み込んだ。

骸獣の懐へ、真正面から。


爪が振り下ろされる。

避けない。

受ける代わりに、斧を振るう。


刃が骨を裂き、瘴気が噴き上がる。

骸獣の胴体を切り刻み、関節を破壊し、動きを奪う。


「……まだだ!」


怒りのままに、何度も叩き込む。

骸獣が“核”を守ろうと身を捩るが、そんな抵抗はもはや遅い。


最後に、斧を深く突き立てた。


骨が悲鳴を上げ、瘴気が一気に霧散する。

骸獣の巨体が崩れ落ち、地面を震わせた。


静寂。


瘴気が薄れ、夜が息を取り戻す。エーデルは、即座に振り返った。


「フリード……!」


駆け寄り、膝をつく。血に濡れた脚の断面を見て、喉が詰まるのを無理やり抑え込む。


止血するために傷口を圧迫する。自らの軍服を裂き、包帯がわりに使用した。怪我は再生するため、治療器具など必要ないと考えていたのだ。エーデルの脳裏には既に後悔が廻っていた。


持てるものすべてを使い、必死に処置を施す。手が震える。

それでも、止めなければならない。


「……頼む、耐えてくれ……」


声が、掠れる。


だが、フリードの体温は、確実に下がっていく。

冷たい。さっきまで確かにあった温もりが、指の隙間から逃げていく。


呼吸は浅く、間隔が不規則だ。


エーデルはそれを感じ取り、胸の奥が締め付けられる。エーデルは血に染まった手で彼を抱き上げ、歯を食いしばった。



その後、エーデルはフリードを背中に抱え、夜の街を駆けた。


瘴気の薄れかけた空気を切り裂き、舗道を蹴る。

足音がやけに大きく響く。肺が焼け、赫血に強化された身体でさえ限界に近づいているのが分かった。それでも、速度を落とすという選択肢はなかった。


背中から伝わる重み。

そして──呼吸。


さっきよりも、浅い。

間隔が、長い。


「……っ」


歯を噛み締める。

走るたびに、フリードの身体が僅かに揺れる。その振動が、彼の呼吸を削っているような錯覚に襲われる。


急げ。急げ。まだ……間に合う。


だが、焦りは思考を乱す。

頭の中で、何度も同じ言葉が反響する。


──私のせいだ。


診療所の灯りが見えた時、エーデルはほとんど転がり込むように扉を叩いた。


夜中だった。医者はいない。

対応に出てきたのは、眠そうな顔をした看護師だけだった。


「お願いだ、すぐに……!」


言葉にならない声で訴え、フリードを床に下ろす。

看護師たちは状況を一目で察し、すぐに処置に取りかかった。血を失い過ぎていたため、フリードにはすぐに輸血が行われた。


夜が更け、窓の外が白み始めても、フリードは目を覚まさなかった。心拍はある。呼吸も、かろうじて続いている。だが、そのどれもが頼りない。


エーデルは椅子に座り、動けずにいた。


……全部、私の責任だ。


思考が、容赦なく押し寄せる。


フリードを、こんな目に合わせてしまった。

もっと周囲に注意を払っていれば。

あの墓地で、違和感を覚えた時点で、撤退すべきだった。

いや──

そもそも、狩場へ連れていくべきではなかった。


自分が育てるのではなく、フリードは、もっと然るべき人間に育てられるべきだったのだ。


……あの時、怪我をしたのが私だったら良かったのに。


胸の奥が、ひどく痛む。


私だったら、再生した。腕が落ちても、血を打てば戻った。

だが、フリードは違う。


再生しない。

いまから強化人間になったとしても、魔女の因子を取り込み仮に適合したとして、そのあとに魔女の血を摂取したとしても──

それはもう、手遅れだ。


欠損した部位は戻らない。

それは、誰よりもエーデル自身がよく知っている。


喉が震える。


私が、あの時喰われていれば……。

フリードは、無事だったかもしれない。

未来が、奪われることはなかったかもしれない。


……私が、フリードの幸せを……。


視界が滲む。


「……ごめんなさい……」


誰に聞かせるでもなく、声が零れ落ちた。


「ごめんなさい、フリード……」


謝罪は、何度繰り返しても足りない。

後悔は、止まらない。


朝の光が差し込み、診療所の白い壁を照らしても、

エーデルの中では、夜が終わらなかった。


罪悪感と後悔が、何度も、何度も押し寄せる。

それは、骸獣よりもなお執拗に、彼女の心を蝕んでいった。



窓から、眩い光が差し込んだ。


瘴気の夜とはまるで別の世界の光だ。

白く、柔らかく、温かい。

その光に混じって、鳥の囀りが微かに耳へ届く。


「……エーデル」


自分の声が、ひどく掠れて聞こえた。


少年の──フリードの視界には、白い天井が映っている。

ぼんやりとした輪郭が、次第に形を結び、意識が浮上していく。

消毒薬の匂い。静かな室内。ここは──病室だ。


ゆっくりと視線を動かす。


ベッドの脇に置かれた椅子。

そこに、エーデルが座っていた。


椅子に腰かけたまま、ベッドへ突っ伏し、眠っている。

いや、眠っているというより──疲れ果てて意識を失っているようだった。


頬はこけ、目の下には濃い影が落ちている。

悪夢にうなされていた頃よりも、さらにやつれた顔。


「……フリード……ごめんなさい……」


寝言だった。


苦しそうに眉を歪め、浅い呼吸を繰り返している。

その姿を見た瞬間、胸の奥がきゅっと締め付けられた。


心配してくれて、嬉しい。でも、ここまで追い詰めてしまったことが、ただただ申し訳ない。


フリードは、ゆっくりと腕を伸ばした。力はまだ戻っていない。だが、それでも、触れずにはいられなかった。


指先が、エーデルの頬に触れる。

そこに残った、冷えかけた涙をそっと拭う。


「エーデル……」


小さく、囁く。


「泣かないで」


言葉が震える。


「……生きててくれて、ありがとう」


息を吸い、続ける。


「僕を、育ててくれて……ありがとう」


声は、ほとんど吐息だった。


その瞬間。


エーデルの身体が、びくりと跳ねた。

息を呑む音がして、勢いよく顔が上がる。


赤い瞳が、大きく見開かれ──フリードを捉える。


「……フリード……?」


次の瞬間、表情が崩れた。


「フリード……!目が覚めて──!」


椅子が倒れそうになるのも構わず、エーデルは立ち上がる。

震える手でフリードの肩を掴み、顔を覗き込む。


「本当に……?見えているか……?分かるか……?」

「うん」


フリードは、弱々しく笑った。


「心配かけて、ごめん」


その言葉を聞いた途端、エーデルの堰が切れた。


「……っ!」


エーデルは、フリードの胸へ飛び込んだ。

力加減も考えられず、しがみつく。


「ごめんなさい……!全部、私のせいだ……!」


言葉が、溢れ出す。


「私が……私が犠牲になるべきだった……!生きててくれて、ありがとう……本当に……!」


声が裏返り、嗚咽が混じる。


「心配だった……!二度と会えないかと思った……!一週間だ……!一週間も、ずっと目を覚まさなかったんだ……!」


フリードの胸元を掴む指が、強くなる。


「もう……もう危険なことはさせない……!二度と、無理はしてほしくない……!」


涙が、止まらない。


「私が……私が一生、おまえを守る……!だから……ずっと、そばにいてくれ、どこにもいかないでくれ……!」


言葉にならない感情が、嗚咽となって溢れ落ちる。


「……エーデル。それはもう、愛の告白だよ」


フリードの声は、驚くほど穏やかだった。

エーデルは息を詰まらせたまま、なおも言葉を吐き出そうとする。

謝らなければ。止めなければ。守ると、言わなければ。


だが──


その途中で、言葉は途切れた。


フリードが、身を起こした。

そして、ためらいのない動きで、エーデルの口を塞ぐ。


触れたのは、ほんの一瞬だった。

唇が重なり、すぐに離れる。


けれど、それだけで十分だった。


エーデルの思考は、完全に止まった。


「……」


呼吸の仕方を忘れたように、彼女は固まっている。

赤い瞳が揺れ、視線の置き場を失う。


「ねえ、エーデル」


フリードは、少しだけ照れたように笑った。


「聞いてほしいことがあるんだ」


エーデルはまだ、キスされたという事実を処理できていない。喉が鳴るだけで、声が出ない。


フリードは、それを待つように、ゆっくりと言葉を紡いだ。


「僕ね……エーデルのことが、異性として好きなんだ」


静かな告白だった。

だが、その一言が、胸の奥を強く叩く。


「出会った時からだよ。なんて美しい人なんだろうって思った。……ほとんど、一目惚れだったんだ」


フリードは視線を逸らし、少しだけ息を整える。

そして再び、エーデルを見る。


「今この思いを伝えるのは、ずるいかもしれないね。怪我をして、寝てて……君が弱ってる時に、こんなことを言うなんて」


一瞬、唇を噛む。


「でも、今回のことで気づいたんだ。いつ言えなくなるか、分からないって。だから……言わせてほしい」


声が、わずかに震えた。

フリードは、真っ直ぐに言った。


「エーデル。愛してる」


エーデルは、しばらく何も言えなかった。


まるで、言葉の意味を一つ一つ、頭の中で噛み砕いているようだった。

理解が追いついた、その瞬間──


大粒の涙が、ぽろりと零れ落ちた。


「……っ」


堪えようとしても、止まらない。


「……私も……」


震える声で、ようやく言葉が出る。


「私も……好きだ……」


両手で顔を覆いながら、それでも、はっきりと告げた。


「私もフリードが、好きなんだ……」


嗚咽が混じる。


「おまえのことが……愛しくて堪らない……!」


胸が苦しい。嬉しくて、怖くて、どうしようもなくて。

涙が、指の隙間から落ちる。


「傷つけてしまって……ごめんなさい……。私は……最低だ……」


それでも、言わずにはいられなかった。


フリードは、黙ってエーデルを見つめていた。

その視線は、拒絶ではなく──ただ、まっすぐだった。


病室の中で、朝の光が二人を包む。

静かな空気の中で、ようやく言葉にされた想いが、確かにそこにあった。


しばらくの沈黙のあと、フリードが口を開いた。


「……ねえ、エーデル」


その声音は、先ほどまでの告白とは違っていた。

迷いがない。決意だけが、静かに滲んでいる。


「僕も、強化人間になりたい」


その言葉が落ちた瞬間、エーデルの表情が強張った。


「そんなの、駄目に決まっているだろう」


即答だった。

感情が言葉に先走り、声が少しだけ荒れる。


「お前はもう、二度と危険なことはするな。私が一生、守ってやる。私が責任をとって介護する」


エーデルはフリードの手を、強く握る。


「お前は無理に立ち上がる必要すらないんだ。戦う必要も、苦しむ必要もない」


それは命令であり、懇願だった。

これ以上、失うものが増えるのが怖かった。


だが、フリードは首を振った。


彼は、エーデルの手をそっと握り返す。

力は弱いが、その動きは確かだった。


「ねえ、エーデル。君と肩を並んで戦いたいんだ。君が義手をつけて戦うように、僕は義足をつけて戦う。……同じように、同じ場所に立ちたい」


言葉を選びながら、ゆっくりと続ける。

エーデルの赤い瞳が揺れる。

フリードは、まっすぐに彼女を見る。


「君が……君が僕を守り続けてきてくれたように。今度は、僕が守りたいんだ。大好きな君を」


一拍。


「……だめかな」


弱気な問いかけだった。

だが、その奥にある覚悟は、揺るがない。


エーデルは言葉を失った。

胸の奥が、ひどく痛む。


「……お願いだ、エーデル」


その一言が、決定的だった。


エーデルは目を伏せ、長く息を吐いた。

握っていた手に、力が戻る。


「……馬鹿者」


小さく呟き、フリードの額に自分の額を預ける。しばらく黙ってから、言った。


「義足が出来るまでは……。ひとまず、観念して大人しく私に介護されることだな」


フリードの顔に、ほっとしたような笑みが浮かぶ。


「うん。愛してるよ。エーデル」


その一言で、十分だった。


義手と義足。欠けたものを補い合いながら、寄り添って生きていく。

最後まで読んでくださりありがとうございました。

その後、エーデルがフリードを自宅に監禁して一生彼に歪んだ愛を注ぎながら介護していく未来になるか、それともフリードがエーデルと共に骸獣と戦う道に進む未来になるかは想像にお任せします。

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