第9話 スープ対決? いいえ、一方的な虐殺です
大広間に漂う香りは、甘美な拷問のようにルシエラ王国の一行を攻め立てていた。
「ぐぅぅぅぅ……」
静寂の中、マリアンヌの腹の虫が再び鳴った。
彼女は顔を真っ赤にして、ドレスの腹部を強く押さえつけている。
「う、嘘よ……。こんな、下品な匂いなのに……どうして体が欲しがるの?」
彼女の体は正直だ。
ここ一ヶ月、野菜の煮汁のようなスープと硬いパンしか食べていない彼らの体は、脂質と塩分、そして旨味(アミノ酸)を渇望している。
私は調理台の前で、冷静に腕を組んだ。
「さあ、殿下。そこに座ってください。毒かどうか、その舌で確かめていただきましょう」
特設カウンターの前に置かれた丸椅子。
それはまるで、断頭台への階段のようにも見えただろう。
フレデリック王太子は、脂汗を流しながら後ずさった。
「ば、馬鹿にするな! 誰が貴様の作った汚物など……」
「逃げるのですか?」
低い声が遮った。
宰相クラウスだ。
彼は氷のような冷ややかな瞳で、フレデリックを見下ろしている。
「貴殿は、これを毒だと断言した。ならば証明してみせよ。それとも、ルシエラの王族は、己の発言の責任も取れぬ臆病者揃いか?」
「な、なんだと……!?」
「逃げても構いませんが……その場合、我が国への侮辱罪として、即刻国交を断絶させていただきます」
外交カードを切られた。
フレデリックの顔色が蒼白になる。
食糧難にあえぐ王国にとって、帝国との国交断絶は死を意味する。
「……いいだろう!」
フレデリックは震える足で進み出て、椅子にドカッと座った。
「食べてやる! 食べて、その後に体調を崩せば、それが毒である証拠だ! その時こそ、貴様を処刑台に送ってやる!」
「はいはい。じゃあ、作りますね」
私はやる気のない返事をしつつ、手だけは高速で動かした。
丼にタレを入れる。
今日使うのは、帝国で手に入れた熟成醤油に、焼きアゴの出汁を合わせた、切れ味鋭いダブルスープ用のかえしだ。
そこに、三日間煮込み続けた『呼び戻し』製法の超濃厚豚骨スープを注ぐ。
ジュワァァァッ……!
丼の中でスープとタレが衝突し、爆発的な湯気がフレデリックの顔を直撃する。
「うっ、くさ……いや、なんだこの香ばしさは?」
彼はハンカチで鼻を覆おうとしたが、手が止まった。
至近距離で嗅ぐその匂いは、以前の地下室のものとは別物だった。
獣臭さは消え失せ、代わりにクリーミーでまろやかな、脳の芯を痺れさせるような芳香が漂っている。
「お待ちどうさま」
ドンッ。
目の前に置かれたのは、黄金色の脂が膜を張り、白濁したスープが満たされた一杯。
チャーシュー、煮卵、海苔、ネギ、メンマ。
全ての具材が「私を食べて」と誘惑している。
「……こ、これが毒……?」
フレデリックはゴクリと喉を鳴らした。
震える手で、箸を掴む。使い方は見よう見まねだ。
「いただきます、くらい言ったらどうですか?」
「う、うるさい!」
彼は意を決して、レンゲでスープをすくった。
そして、恐る恐る口へと運ぶ。
会場中の視線が彼に注がれる。
彼がスープを飲み込んだ、その瞬間。
カッ!!
フレデリックの両目が、飛び出んばかりに見開かれた。
「――ぶふぉっ!?」
彼はむせ返った。
違う。熱さでむせたのではない。
情報の奔流に、脳が処理落ちしたのだ。
舌の上で炸裂する豚の旨味。
醤油のキレ。
背脂の甘み。
それらが一体となって、枯渇していた彼の体に電流のように駆け巡る。
「な、な、なんだこれはぁぁぁッ!!」
彼は叫んだ。
「味が……味がする! 濃い! 強い! なのに、止まらない!」
彼はもう一口、レンゲを運んだ。
二口、三口。
止まらない。
レンゲを持つ手が高速運動を始める。
「麺もいってください。伸びますよ」
私が促すと、彼は無我夢中で麺を掴んだ。
ズゾゾッ!
盛大な音を立ててすする。
王族にあるまじきマナー違反だが、誰も咎めない。
なぜなら、その姿があまりにも必死で、あまりにも幸せそうだったからだ。
「う、美味い……! なぜだ、なぜこんなに美味いんだ!?」
フレデリックの目から、ポロポロと涙がこぼれ落ちた。
栄養失調気味だった彼の頬に、みるみるうちに赤みが差していく。
死んだ魚のようだった目に、生気が宿る。
「ああ、力が……力が湧いてくるぞ!?」
「殿下!? ずるいですわ!」
たまらず声を上げたのは、後ろで見ていたマリアンヌだ。
彼女はフレデリックが元気になっていくのを見て、我慢の限界を超えたのだ。
「私にも! 私にもそのスープをよこしなさい!」
「へいお待ち」
私はマリアンヌの前にも丼を置いた。
彼女はドレスの袖が汚れるのも構わず、丼に食らいついた。
ズルズルッ! ハフハフッ!
「んんっ~! 美味しいぃぃぃ!」
彼女は陶酔の表情を浮かべた。
コラーゲンたっぷりのスープが、彼女のカサついた唇を潤していく。
一口食べるごとに、彼女の肌にツヤが戻っていくのが、目に見えて分かるほどだ(※異世界の食材の効果は即効性が高い)。
「なによこれ……。私が毎日飲んでいた高級な美容薬より、ずっと効果があるじゃない!」
あっという間に、二人は完食した。
スープの一滴すら残っていない。
「ぷはぁっ……」
二人は同時に息を吐き、呆然と天井を見上げた。
その顔は、憑き物が落ちたように穏やかで、そして満ち足りていた。
会場から、パラパラと拍手が起こる。
それは次第に大きくなり、万雷の拍手へと変わった。
「素晴らしい食いっぷりだ!」
「やはり極楽亭のラーメンは人を幸せにする!」
「毒なんてとんでもない、これは万能薬だ!」
帝国の貴族たちが口々に称賛する。
その空気の中で、フレデリックがハッと我に返った。
彼は自分の空になった丼を見つめ、そして私を見た。
「……エレナ」
彼は立ち上がった。
先ほどまでの病的な顔色は消え、血色の良い健康的な顔になっている。
「誤解していたようだ。これは毒ではない。……素晴らしい『秘薬』だ」
「ラーメンです」
「どちらでもいい! エレナ、お前を許そう!」
「はい?」
フレデリックは、なぜか自信満々に腕を広げた。
「お前がこのような素晴らしい技術を持っていたとは知らなかった。これを隠していた罪は重いが……特別に不問にしてやる。さあ、ルシエラへ戻ろう!」
マリアンヌも立ち上がり、ナプキンで口を拭いながら同意した。
「そうよお姉様! 戻ってきなさい。そして毎日、私のためにこのスープを作りなさい。そうすれば、私が王妃になった暁には、専属料理長にしてあげてもよろしくてよ?」
会場の空気が、ピキリと凍りついた。
帝国の貴族たちが、憐れみを含んだ冷ややかな目で二人を見ている。
皇帝陛下に至っては、殺気すら放ち始めている。
だが、勘違いした二人は止まらない。
「さあ、レシピを出しなさい。この寸胴鍋も回収する。これは我が国の国宝になるべきものだ!」
フレデリックが鍋に手を伸ばそうとした、その時。
バチィッ!!
鋭い音が響いた。
私が、フレデリックの手をお玉で叩き落とした音だ。
「……いっ!?」
「触らないでいただけますか。汚れますので」
私は冷たく言い放った。
怒りはない。ただ、呆れと軽蔑だけがある。
「殿下、マリアンヌ。貴方達、何か勘違いしていませんか?」
「な、なんだと? 汚れるとは……」
「私は戻りません。レシピも教えません。そして、二度と貴方達に料理を作ることもありません」
「なっ……正気か!? 次期国王である私の命令だぞ!」
「ここは帝国です。貴方の権威など、ボアのフンほどの価値もありません」
私は彼らを睨みつけた。
「貴方達は言いましたよね。『泥水をすするような飯』だと。私のスープを下水に流せと言いましたよね?」
「そ、それは……毒だと思ったから……」
「言い訳は結構。私は忘れません。貴方達が私の尊厳と、私の料理を踏みにじったことを」
私は中華包丁を、まな板にダンッ! と突き立てた。
二人がヒッと肩をすくめる。
「ラーメンは、作り手の愛と情熱の結晶です。貴方達のような、食べる喜びも感謝も知らない人間に食わせる一杯はありません。……先ほどの一杯は、最後の手切れ金代わりです。さっさと国へお帰りください」
「き、貴様ぁ……!」
フレデリックが逆上し、腰の剣に手をかけようとした。
ガシッ。
その腕を、鋼鉄のような手が掴んだ。
クラウスだ。
その後ろには、殺気をみなぎらせたレオンハルトと、近衛騎士団がずらりと並んでいる。
「……我が国の『食賓』に対し、狼藉を働くつもりか?」
クラウスの声は地を這うように低く、絶対的な圧力を伴っていた。
「そ、宰相……。し、しかし、この女は我が国の……」
「彼女は今、帝国の宝だ。皇帝陛下の勅命により、彼女に仇なす者は、帝国への反逆とみなす」
クラウスはフレデリックの手を振り払った。
フレデリックは無様に尻餅をつく。
「ひっ……」
「衛兵! この不敬者どもをつまみ出せ!」
皇帝陛下の一声が轟いた。
「この素晴らしい宴の余韻が台無しだ。国境まで護送し、二度と帝国の土を踏ませるな!」
「はっ!!」
武装した衛兵たちが、フレデリックとマリアンヌを取り囲む。
「ま、待て! 待ってくれ! エレナ、頼む、あと一杯! あと一杯だけでいいんだ!」
「嫌ぁぁぁ! 私の美容スープ! 帰ったらまたあの不味い草のスープに戻るなんて嫌ぁぁぁ!」
二人は見苦しく泣き叫びながら、ズルズルと会場の外へと引きずられていった。
その姿はあまりにも滑稽で、そして哀れだった。
彼らが去った後、大広間には再び静寂が戻った。
だが、それは重苦しいものではなく、清々しいものだった。
「……ふん。興醒めな連中だったな」
皇帝陛下が鼻を鳴らし、そして私に向かってニヤリと笑った。
「だが、見事な味だったぞ、エレナ。奴らが悔しがる顔、実に良い肴であった」
「恐縮です、陛下」
私は深く頭を下げた。
すると、クラウスが私の隣に立ち、そっと肩に手を置いた。
「……大丈夫か?」
「ええ。せいせいしました」
私は彼を見上げた。
心配そうに眉を寄せている、その顔。
初めて会った時の死にそうな顔とは大違いだ。
「ありがとう、クラウスさん。守ってくれて」
「当然だ。……言っただろう。君は私の専属……いや、私が守るべき人だと」
彼は少し顔を赤らめながら、しかし力強く言った。
「君はもう、一人じゃない。この国の全員が……そして何より私が、君の味方だ」
その言葉は、どんな極上のスープよりも温かく、私の心に染み渡った。
私は自然と笑顔になった。
「はい。……あ、そうだクラウスさん」
「なんだ?」
「お腹、空いてません? さっきの一悶着で、小腹が空いたんじゃないですか?」
クラウスは鳩が豆鉄砲を食らったような顔をし、それから苦笑した。
「……ああ。君には敵わないな」
「店に戻ったら、〆(シメ)の一杯、作りますね」
「期待している」
会場では再び音楽が流れ始め、宴が再開された。
だが今夜の主役は、豪華なフルコースではない。
屋台から漂う、湯気と香りだ。
こうして、元婚約者たちの襲来という最大の危機は、圧倒的な「飯テロ」の前に粉砕された。
彼らは国へ戻った後、不味い食事に絶望しながら、あの一杯のラーメンの幻影を追い続けて痩せ細っていくことになるのだが……それは自業自得というものだろう。
私とクラウス、そして愉快な常連客たちの夜は、まだまだ終わらない。




