第8話 元婚約者たちの襲来
一方その頃。
国境を隔てた南の国、ルシエラ王国。
かつて私が暮らしていた公爵邸、そして王宮は、重苦しい空気に包まれていた。
「……ゲホッ、ゲホッ! なんだ、今日のスープは。味がしないぞ」
王宮の食堂で、フレデリック王太子がスプーンを投げ出した。
皿に入っているのは、彼らが「上品」と称していた、ただ野菜を煮ただけの澄んだお湯だ。
「申し訳ございません、殿下。しかし、料理長も最善を尽くしておりまして……」
侍従が青い顔で頭を下げる。
フレデリックだけではない。
同席している国王も、王妃も、そして私の義妹であり、今は王太子の婚約者となったマリアンヌも、一様に顔色が悪い。
肌はカサつき、髪はツヤを失い、目の下にはクマができている。
ここ一ヶ月ほど、王城では原因不明の「無気力病」が蔓延していた。
風邪をひきやすく、治りにくい。
常に体がだるく、イライラする。
「ああ、私の美しい髪が……。なんだか最近、パサパサしてまとまらないわ」
マリアンヌが自身の金髪を触りながらヒステリックに叫んだ。
「お姉様がいなくなってから、何もかも上手くいかないわ! あの女、屋敷を出て行く時に、何か『呪い』をかけていったに違いないわ!」
「その通りだ、マリアンヌ」
フレデリックが血走った目で同意する。
「エレナめ……。あいつが地下で作っていたあの悪臭を放つ毒薬。あれが何らかの『結界』のような役割を果たしていたのかもしれん」
彼らは知らない。
私が夜な夜な煮込んでいたスープの試作品(失敗作含む)を、使用人たちがこっそり賄い料理として食べていたことを。
そして、私が「余り物で作った薬膳スープ」と称して、父やマリアンヌの食事に、こっそりと生姜やニンニクのエキスを混ぜていたことを。
私の作る「滋養強壮スープ」が、この虚弱体質な王族たちの健康をギリギリで支えていたのだ。
それがなくなった今、彼らは栄養失調と免疫力低下の波にのまれていた。
そこへ、早馬にのった密偵が飛び込んでくる。
「報告します! 追放されたエレナ・フォン・ワイズマンの動向が掴めました!」
「ほう! 野垂れ死んでいたか? それとも貧民街で乞食でもしていたか?」
フレデリックが下卑た笑みを浮かべる。
しかし、密偵の報告は予想を裏切るものだった。
「いえ……それが……隣国ガルディア帝国にて、国賓級の待遇を受けているとの噂です」
「は?」
食堂が静まり返る。
「なんでも、帝都の路地裏で『万能の薬』とも『魅惑の毒』とも呼ばれる液体を配り歩き、帝国の宰相はおろか、皇帝までもを洗脳して支配下に置いたと……」
「な、なんだと!?」
フレデリックが椅子を蹴倒して立ち上がった。
「洗脳だと!? やはりか! やはりあのドロドロしたスープは、人の心を操る禁断の魔法薬だったのだ!」
彼の脳内で、勝手な妄想が膨れ上がっていく。
エレナは毒薬使いの魔女。
その毒を使って帝国を乗っ取り、やがてはこのルシエラ王国に復讐しに来るに違いない。
「おのれ、エレナ……! 私のマリアンヌを虐めるだけでは飽き足らず、世界を混乱に陥れるつもりか!」
「きゃあ、怖いわフレデリック様! 私、お姉様に殺されるの!?」
「安心しろ、僕が守る! ……そうだ、逆転の発想だ」
フレデリックはニヤリと笑った。
「その『薬』があれば、我々の体調不良も治るのではないか? 奴は我々に飲ませるべき『良薬』を盗み出し、代わりに毒を置いていったに違いない」
「さすがですわ、殿下! きっとそうです、お姉様は泥棒なんです!」
「よし、直ちに帝国へ向かうぞ! 『友好親善』の名目でな。そして魔女エレナを捕縛し、そのレシピと薬を回収するのだ!」
こうして、勘違いと思い込みを煮詰めたような馬鹿者たちが、国境を越えようとしていた。
◇
一方、ガルディア帝国。
屋台『極楽亭』は、今日も大繁盛していた。
「はい、ラーメンお待ち! 替え玉もすぐ茹でるからね!」
「親父さん、こっちに餃子二枚!」
「俺にはチャーハン大盛りだ!」
客層はすっかり多様化していた。
仕事帰りの官僚、夜勤明けの兵士、そして噂を聞きつけた貴族たちまでもが、屋台の長椅子に肩を並べて麺をすすっている。
「ふう……。今日も忙しいわね」
一息ついた私は、額の汗を拭った。
屋台の隅の「指定席」には、今日もクラウスが鎮座している。
彼は慣れた手つきで餃子を酢コショウにつけながら、難しい顔で書類――ではなく、メニュー表を眺めていた。
「エレナ。……鼠が入り込んだようだ」
「鼠? 衛生管理はバッチリですよ?」
「いや、物理的な鼠ではない。……ルシエラ王国からの『害獣』だ」
クラウスは眼鏡の奥の目を鋭く光らせた。
「君の元婚約者たちが、国境を越えた。名目は『皇帝陛下への謁見』だが、狙いは十中八九、君だ」
「うわぁ……」
私は露骨に嫌な顔をした。
せっかく平和にラーメンライフを送っているのに、なんでわざわざ不味い飯の国からやってくるのか。
「追い返せないんですか?」
「外交ルートで来た以上、無下にはできん。明晩、皇城で開かれる歓迎舞踏会……そこで彼らは接触を図ってくるだろう」
「舞踏会? 私、そんなの出るつもりないですよ」
「残念ながら、陛下からの勅命が出ている。『余の自慢の料理人を他国の人間に見せつけてやりたい』そうだ」
あのおじいちゃん皇帝、私のこと新しいオモチャか何かだと思ってないか?
ため息をつく私に、クラウスは真剣な表情で言った。
「安心しろ。私の目の黒いうちは、君に指一本触れさせない。……それに、君には最強の護衛がいる」
「護衛?」
「ああ。君のラーメンに餌付けされた、帝国の全兵士がな」
屋台を見渡すと、食べていた兵士たちが一斉にサムズアップ(親指を立てる仕草)をした。
頼もしいけど、ラーメンの力って怖い。
◇
そして翌夜。
ガルディア帝国皇城、大広間。
シャンデリアが煌めく会場には、着飾った貴族たちが集まっていた。
しかし、普通の舞踏会とは少し様子が違う。
会場の端に、巨大な「屋台スペース」が特設されているのだ。
「いいかお前ら! 麺が伸びないうちに配膳しろよ!」
陣頭指揮を執るのは、なぜかコックコートを着た近衛騎士団長レオンハルト。
彼もすっかりこちらの世界(料理沼)の住人だ。
私はドレスではなく、清潔な白の調理服に身を包み、大鍋の前でスタンバイしていた。
今日のメインディッシュは、皇帝陛下リクエストの『とんこつ醤油ラーメン・全部乗せ』だ。
そこへ、入り口の衛兵が高らかに告げた。
「ルシエラ王国より、フレデリック王太子殿下、並びにマリアンヌ嬢、ご到着!」
会場の扉が開き、見慣れた二人が入ってきた。
彼らを見た瞬間、帝国の貴族たちがざわめいた。
「おい、見ろよあの顔色」
「幽霊か?」
「肌がカサカサじゃないか。王国の食糧事情はどうなっているんだ」
当の本人たちは、自分たちが哀れみの目で見られていることに気づいていない。
フレデリックは胸を張り、マリアンヌは私の姿を探してキョロキョロしている。
そして、屋台スペースにいる私を見つけた瞬間、彼らの表情が歪んだ。
「いたぞ! 魔女エレナだ!」
フレデリックが大声を上げ、ツカツカと歩み寄ってきた。
音楽が止まり、会場の視線が一点に集中する。
「久しぶりだな、エレナ! こんな煤けた場所で、召使いのような格好をして……。やはり追放されて落ちぶれたか!」
彼は私の調理服を見て、嘲笑した。
この国では、この白衣こそが「美食の探求者」の証なのだが、彼にはただの下働きに見えるらしい。
「ごきげんよう、殿下。お久しぶりですが……随分とやつれましたね? ちゃんとご飯食べてます?」
「黙れ! 誰のせいだと思っている!」
マリアンヌが私の前に進み出た。
彼女の髪は本当にパサパサで、厚化粧でも隠せないほど肌荒れしていた。
「お姉様! 返していただきますわ!」
「何を?」
「私たちが飲むはずだった『美容薬』と、殿下が飲むはずだった『強壮薬』よ! 貴女、それを盗んで逃げたでしょう!?」
「はあ?」
言っている意味が分からない。
私が首を傾げていると、フレデリックが私の背後にある寸胴鍋を指差した。
「とぼけるな! その鍋だ! その中に入っているドロドロした液体! それこそが、民を洗脳し、体を活性化させる禁断の魔法薬だろう!」
彼は会場の貴族たちに向かって演説を始めた。
「帝国の諸君! 騙されてはいけない! この女は魔女だ! その鍋の中身は、中毒性のある毒物なのだ! 一口飲めば理性を失い、この女の奴隷にされてしまうぞ!」
会場が静まり返る。
誰もが、ポカンとした顔でフレデリックを見ている。
やがて、誰かが「ぷっ」と吹き出した。
それを皮切りに、クスクスという笑い声がさざ波のように広がる。
「なんだあの男」
「毒物だと?」
「あの至高のスープを捕まえて、毒物とは……」
「やはり王国の人間は舌が死んでいるらしい」
嘲笑の空気に、フレデリックは顔を赤くした。
「な、なんだその態度は! 私は警告してやっているのだぞ!」
「騒がしいな」
凛とした冷たい声が響いた。
人垣が割れ、黒い礼服に身を包んだクラウスが現れた。
その横には、不機嫌そうな顔をした皇帝陛下もいる。
「ようこそ、ルシエラ王国の皆様。……ですが、我が国の『食賓』を魔女呼ばわりするとは、外交儀礼を欠いているのではありませんか?」
クラウスの眼光は、氷のように冷たい。
フレデリックは一瞬ひるんだが、すぐに虚勢を張った。
「宰相クラウスか! 貴様も洗脳されているのだな! 目を覚ませ、今すぐその女を捕らえ、鍋の中身を処分するのだ!」
「処分、だと?」
皇帝陛下が、ピクリと眉を動かした。
場の空気が凍りつく。
皇帝にとって、ラーメンを奪われることは、国を奪われることに等しい(と最近思っている)。
「……エレナよ」
皇帝が私に声をかけた。
「はい、陛下」
「こやつらは、言葉で言っても分からんようだ。……実食させて分からせてやれ」
「承知いたしました」
私はお玉を構えた。
言葉はいらない。
圧倒的な「旨味」の前では、どんな詭弁も無力化する。
「殿下、マリアンヌ。毒かどうか、その舌で確かめてみなさい」
私は蓋を開けた。
瞬間、会場全体に解き放たれる、熟成された豚骨の香り。
それは数日前に私が屋敷で作っていたものより、遥かに進化し、洗練された「極上の香り」だった。
「ひっ……!」
マリアンヌが鼻を押さえる。
だが、その体は正直だった。
彼女のお腹が、静寂の中で「グゥ~」と鳴り響いたのだ。
さあ、公開処刑……いいえ、実食タイムの始まりよ。




