第5話 次は「餃子」と共に
ガルディア帝国の宮廷において、その日、未曾有の椿事が起きていた。
「おい、見たか? 宰相閣下が……笑っていたぞ」
「馬鹿な。あの『鉄の宰相』だぞ? 眉間の皺で蚊を撃ち落とせると噂の閣下だぞ?」
「いや、本当なんだ。しかも、今日の閣下は処理速度が異常だ。三日分の書類が、たった半日で片付いてしまった」
廊下の隅で囁き合う文官たちの声を、私は執務室の中で聞き流していた。
今の私、クラウス・フォン・アイゼンベルクにとって、彼らの雑談などどうでもいい。
時計の針を見る。
午後五時半。
定時まで、あと三十分。
「……よし、終わった」
私は最後の書類にサインをし、ペンを置いた。
完璧だ。
かつてない集中力だった。
脳が冴え渡り、体中にエネルギーが満ち溢れている。
全ては昨夜、あの路地裏で摂取した「ラーメン」という奇跡の食事のおかげだ。
「閣下、これより軍事会議の資料作成が……」
部下が恐る恐る入室してきた。
私は立ち上がり、コートを手に取った。
「その件なら既に終わらせてある。机の上だ」
「は? ……えっ、これを全てですか!? しかも、いつもの三倍の精度で……」
「今日は帰る。急用があるのだ」
「き、急用とは!?」
国の一大事かと色めき立つ部下に、私は真顔で答えた。
「生命維持活動だ」
言い残して、私は風のように執務室を出た。
目指すは帝都の下町。
あの赤い提灯が揺れる、路地裏の聖域だ。
◇
日が落ちると、帝都は冷たい夜気に包まれる。
私は早足で路地裏へと向かった。
昨夜の記憶を頼りに、入り組んだ道を曲がる。
頼む。
夢であってくれるな。
もしあれが幻覚だったら、私は絶望で二度と立ち直れないかもしれない。
角を曲がった瞬間。
暗闇の中に、ぽっと温かい朱色の光が見えた。
「……あった」
『極楽亭』の赤提灯。
そして、そこから漂ってくる、あの暴力的なまでに食欲をそそる香り。
私は安堵のあまり、その場に膝をつきそうになった。
「あ、いらっしゃいませ! ……って、やっぱり貴方でしたか」
屋台の中から、赤髪の店主が顔を出し、ニカッと笑った。
彼女は昨夜貸してくれた毛布を丁寧に畳んで持っていた。
「昨日はどうも。おかげで風邪を引かずに済みました」
「いえいえ。でも、あんなところで寝ちゃダメですよ。死んでるかと思って焦りましたから」
「……昨夜は、生き返った気分だったよ」
私はカウンター席に座った。
特等席だ。
寸胴鍋の中では、スープが昨日よりも濃厚そうな色をしてグツグツと煮えている。
「メニューはラーメンでよろしいですか?」
「ああ。……だが、その前に」
私は鼻をヒクつかせた。
今日の屋台には、昨日の豚骨臭とはまた違う、香ばしい油の匂いが混じっている。
ゴマのような芳醇な香りと、焦げた小麦の匂い。
「なんだ、この香りは」
「お、鼻がいいですね。ちょうど今、新メニューの試作を焼いていたところなんです」
店主は鉄板の蓋を開けた。
ジュワァァァァッ……!!
凄まじい音と共に、真っ白な湯気が立ち昇る。
その中から現れたのは、三日月のような形をしたきつね色の物体だった。
六つほど、行儀よく並んでいる。
それぞれが薄い皮のようなもので繋がれ、パリパリとした羽を纏っていた。
「これは……?」
「『焼き餃子』です。ボアの挽肉と野菜を皮で包んで、蒸し焼きにしたんですよ」
「ギョーザ……」
その響きだけで、私の唾液腺が決壊した。
見た目の破壊力が凄まじい。
こんがりと焼けた焼き目。艶やかな油の照り。
間違いなく美味い。私の本能が警鐘を鳴らしている。
「それを頼む。ラーメンと一緒に」
「はいよ! 『ラ・ギョーセット』一丁!」
彼女は威勢よく返事をすると、手際よく調理を始めた。
待つこと数分。
先に目の前に置かれたのは、長方形の皿に乗った餃子だった。
薄い羽根が照明を浴びて黄金色に輝いている。
「タレはどうします? 王道なら酢醤油にラー油ですけど、私のオススメは『酢コショウ』です」
「酢と、コショウ?」
「ええ。肉汁が濃厚なので、さっぱり食べられますよ」
彼女は小皿に穀物酢を注ぎ、そこに粗挽きのブラックペッパーを山のように振りかけた。
黒い粉が酢の表面を覆い尽くすほどだ。
見た目はかなり刺激的だが……。
「では、頂こう」
私は箸で餃子を一つ摘み上げた。
パリッ。
薄い羽根が割れる感触が、箸を通して伝わってくる。
それをたっぷりと酢コショウに浸し、口へと運ぶ。
カリッ、サクッ。
歯を立てた瞬間、香ばしい皮が弾けた。
その直後。
ジュワッ!!
「……んぐっ!?」
口の中に、熱々の熱湯が噴き出した。
いや、お湯ではない。
これは、肉汁だ。
濃厚なボアの脂と、野菜の甘みが凝縮されたスープが、爆弾のように炸裂したのだ。
「熱ッ! ……う、美味いッ!!」
熱さに悶絶しながらも、咀嚼を止められない。
皮のモチモチとした食感と、底面のカリカリとした焼き目のコントラスト。
中の餡は、肉の旨味が強烈だが、それを「キラーガーリック」と「ジンジャー」の香味が引き締めている。
そして何より、このタレだ。
大量のコショウと酸味の効いた酢が、ボア肉の脂っこさを中和し、次の一口を誘うのだ。
「なんだこれは……酒だ。これは猛烈に酒が欲しくなる味だ!」
「あはは、やっぱりそう思います? 冷えた『麦酒』、ありますよ」
「……もらう」
私は宰相としての矜持を一瞬で捨て去った。
出されたジョッキをあおり、餃子を放り込む。
麦酒の苦味と炭酸が、脂で満たされた口内を洗い流す。
そしてまた、餃子へ手が伸びる。
無限のループだ。
「はぁ……。私は今まで、何を食べて生きてきたのだろう」
六つの餃子は、瞬く間に消滅した。
皿に残ったのは、わずかな油と私の感動だけだ。
「タイミング、バッチリですね。ラーメンも上がりますよ」
絶妙な間合いで、今度はラーメンが差し出された。
昨夜よりもスープの色が濃い。
「呼び戻し」とかいう技法で、旨味が継ぎ足されているらしい。
私は無言ですすった。
麺、スープ、チャーシュー。
昨日の衝撃が色褪せるどころか、さらに深みを増している。
餃子の余韻が残る口に、豚骨スープが追い打ちをかける。
この店主は、私の胃袋をどうするつもりだ。
これはもはや、食のテロリズムだ。
完食。
スープの一滴すら残さない。
私は空になった丼と皿を眺め、深く息を吐いた。
「……君」
「はい? お茶、いります?」
「いや、違う」
私は真剣な眼差しで、赤髪の店主を見つめた。
彼女の名前もまだ聞いていない。
だが、そんなことは些事だ。
重要なのは、彼女のその「手」だ。
この神ごとき料理を生み出す黄金の腕。
私は衝動のままに、カウンター越しに彼女の手をガシッと掴んだ。
「えっ!? ち、ちょっと!?」
彼女が目を丸くして驚く。
だが、私は止まらない。
熱い思いが口をついて出る。
「君を、私の屋敷に迎えたい」
「は……?」
「金ならいくらでも払う。公務員の給与の三倍、いや五倍出そう。住居も、衣服も、最高級のものを用意する」
私の目は血走っていたかもしれない。
だが、本気だ。
この味を、他の誰かに奪われるわけにはいかない。
帝国の未来のためにも(主に私の健康のために)、彼女を確保しなければならない。
「だから、私の専属になってくれ。君の料理を、毎日私のためだけに作ってほしい」
路地裏に沈黙が流れた。
屋台の蒸気だけが、シュウシュウと音を立てている。
店主の娘は、真っ赤になって固まっていたが、やがてハッとしたように手を振りほどいた。
「……お断りします!」
「なっ……なぜだ! 条件が不満か!?」
「条件とかじゃなくて! いきなりプロポーズとか、怖すぎますから!」
「プ、プロポーズ……?」
私は瞬きをした。
ああ、そうか。
「屋敷に来い」「毎日作れ」というのは、一般的には求婚の文句か。
私はただ、専属料理人として契約したかっただけなのだが。
「違います! 私は、私の店を持ちたいんです!」
彼女は腰に手を当て、毅然と言い放った。
「誰かの専属になって、鳥籠の中で料理するのは御免です。私は、もっとたくさんの人に、自分の作ったラーメンを食べてもらいたい。美味しいって言わせて、見返してやりたいんです!」
その瞳には、強い意志の光が宿っていた。
職人の目だ。
地位や金ではなく、己の腕一本で世界と戦おうとする者の目。
私はハッとして、襟を正した。
無礼を働いたのは私の方だ。
彼女の料理に対する誇りを、金で買おうとしてしまった。
「……すまない。私の配慮が足りなかった」
「分かってくれればいいんです。……でも、常連さんになってくれるなら大歓迎ですよ? 貴方の食べっぷり、見てて気持ちいいですし」
彼女はニカッと笑った。
その笑顔を見て、私は胸の奥が妙に高鳴るのを感じた。
胃袋だけでなく、何か別の場所まで掴まれたような感覚。
「……ああ。約束しよう」
私は眼鏡の位置を直した。
「私は毎日通う。君の店が、この帝国で一番の店になるまで……いや、なってからも、一番の客であり続けよう」
「ふふ、言いましたね? 上得意様第一号として、期待してますからね!」
こうして、私と彼女の奇妙な関係が始まった。
昼は冷徹な宰相として国を動かし、夜はこの屋台で餃子とラーメンに溺れる。
それが私の新しい日常となった。
だが、この時の私はまだ気づいていなかった。
彼女の料理が、私だけでなく、近衛騎士団長や皇帝陛下までをも巻き込み、やがて国を揺るがす大騒動に発展していくことを。
「あ、そういえば名前、聞いてませんでしたね。私はエレナです」
「……クラウスだ」
「じゃあクラウスさん。明日は『チャーハン』を作りますから、お腹空かせて来てくださいね!」
チャーハン。
また聞いたことのない料理名だ。
だが、私の胃袋は既に、明日の夜を待ちわびて歓喜の声を上げていた。




