第4話 鉄の宰相、陥落する
ズルルッ、ズゾゾゾッ……!
路地裏の静寂を破るのは、私が麺をすする音だけだ。
行儀が悪い? 知ったことか。
この店主の娘が言ったのだ。「音を立てた方が香りが広がる」と。
私はガルディア帝国の宰相、クラウス・フォン・アイゼンベルク。
「鉄の宰相」と呼ばれ、感情を持たない冷徹な仕事人形として恐れられている男だ。
だが今の私は、ただの一匹の飢えた獣でしかない。
「はい、お待ちどうさま。替え玉です。味が薄くなっていたら、そこの『ラーメンのタレ』を足してくださいね」
赤髪の店主が、湯気を立てるザルから直接、私の残ったスープへ麺を投入する。
黄金色の麺が、白濁したスープの海に沈み、再び浮き上がる。
私は迷わず箸を突っ込んだ。
一杯目は無我夢中で飲み込んだが、二杯目はもう少し冷静に味わおう……そう思ったのは間違いだった。
一口すすった瞬間、思考は再び白紙になった。
(……なんだ、この食感は!)
一杯目よりも少し硬めに茹でられた麺。
彼女はこれを「バリカタ」と呼んだ。
芯にわずかな粉っぽさを残したその歯ごたえが、濃厚なスープと絡み合い、噛むたびに小麦の甘みが弾ける。
そして、スープだ。
時間が経つにつれて、表面に膜が張り始めている。
これは大量のコラーゲンと脂が溶け込んでいる証拠だ。
唇がペタペタと張り付くような濃厚さ。
だが、不思議と重くない。
「……ニンニク、か?」
ほのかに感じる刺激臭。
王国では魔除けに使われる「キラーガーリック」だ。
あんな強烈な臭いのものを、まさか食用にするとは。
しかし、このスープの中では、それが食欲を煽る起爆剤になっている。
「ええ。すりおろしたキラーガーリックと、隠し味に『ファイア・ジンジャー』を入れています。体が温まりますよ」
店主が厨房からニコニコと解説してくる。
温まるどころではない。
胃袋を中心に、熱い塊が全身を駆け巡っている。
指先まで痺れるような血液の循環を感じる。
ここ数年、私の食事といえば、軍部が支給する「完全栄養ゼリー」か、執務中に片手でつまむ「魔力回復錠剤」だけだった。
それは生命を維持するための作業であり、そこに喜びなどなかった。
味覚など、とうに死滅したと思っていた。
だが、どうだ。
今の私は、生きている。
この暴力的なまでの旨味が、私の死んでいた細胞を一つ一つ叩き起こしていくようだ。
「……美味い。本当に、美味い」
私は独り言のように呟きながら、チャーシューをかじった。
ホロリと崩れる繊維の隙間から、甘辛いタレと肉汁が溢れ出す。
これだけでワインが一本空く味だ。いや、この場合はエールか。
気がつけば、二杯目の麺も消えていた。
私は丼を両手で持ち上げる。
行儀作法など、この路地裏では無意味だ。
ゴクッ、ゴクッ、ゴクッ。
喉を焼くような熱さと、脳を麻痺させるような満足感。
最後の一滴、丼の底に残った骨粉のザラつきすらも愛おしい。
プハァッ……。
空になった丼をカウンターに置いた時、私は長い間忘れていた感覚に襲われた。
「満腹」という、幸福な重みだ。
「綺麗に食べてくれて、作り甲斐がありますね」
店主が満足そうに笑い、冷たい茶を出してくれた。
口の中の脂が、冷たい茶でさっぱりと洗い流される。
その爽快感が、さらなる幸福を呼ぶ。
「……いくらだ」
私は懐から財布を取り出そうとした。
しかし、指に力が入らない。
いや、指だけではない。
瞼が、鉛のように重いのだ。
「えっ? お客さん?」
「すまない……急に、体が……」
視界が揺れる。
毒か?
一瞬だけ、職業柄の警戒心が頭をよぎる。
だが、不快感はない。
むしろ、泥のように深く、温かい沼に沈んでいくような心地よさだ。
(ああ、そうか……これは……)
血糖値の上昇。
そして、副交感神経の強制的な優位。
不眠症で何日も眠れず、常に張り詰めていた神経が、極上の食事によって強制的に緩められたのだ。
「あらら、顔が真っ赤。もしかして『ラーメン・ハイ』になっちゃいました?」
店主の楽しげな声が、遠くで聞こえる。
ラーメン・ハイ。
なるほど、言い得て妙だ。
これは酒よりもタチが悪い。
抗えないほどの、強烈な睡魔。
「……代金は、ここに……」
私は銀貨を数枚、カウンターに置いた。
釣りはいらない。
むしろ、これだけの体験に対して安すぎるくらいだ。
「ちょっと! ここで寝ないでくださいよ~! 風邪引きますって!」
「……少しだけ、休ませてくれ……」
私はカウンターに突っ伏した。
木の板の硬さが、今は羽毛布団よりも心地よい。
鼻孔に残る豚骨の香りが、どんなアロマよりも安らぎを与えてくれる。
「もう……仕方ないですねぇ」
呆れたような声と共に、背中に何か温かいものが掛けられた気がした。
毛布だろうか。
その優しさに、私の意識は完全に暗転した。
◇
チュン、チュン、チュン……。
小鳥のさえずりと、朝日の眩しさで目が覚めた。
「……っ!」
私はガバッと上半身を起こした。
見慣れない天井……ではない。青空だ。
私は路地裏のベンチで、毛布にくるまって寝ていたらしい。
「ここは……」
慌てて周囲を見渡す。
昨夜、私が座っていたはずの屋台がない。
赤髪の店主も、寸胴鍋も、あの暴力的な香りのスープも、跡形もなく消え失せていた。
残っているのは、私が握りしめていた毛布と、朝の冷たい空気だけ。
「……夢、だったのか?」
私は呆然と自分の頬に触れた。
夢にしては、あまりにも鮮烈だった。
口の中に残る、微かなニンニクの余韻。
そして何より――
「体が、軽い」
私は立ち上がり、自分の体を確認した。
ここ数年、私の肩に重くのしかかっていた鉛のような倦怠感が、嘘のように消えている。
頭痛もない。
吐き気もない。
思考がクリアで、全身に力がみなぎっている。
「寝たのか? 私が?」
不眠症の私が。
睡眠導入剤も飲まずに、こんな硬いベンチの上で、朝まで熟睡したというのか。
信じられない。
だが、現実に私は今、かつてないほどの活力を感じている。
あの「ラーメン」という料理。
ただの食事ではない。あれは、錬金術の粋を集めた万能薬か何かか?
「……ふっ、ふふふ」
自然と笑いが込み上げてきた。
毒薬?
馬鹿なことを。
あれは、人を再生させる魔法のスープだ。
私はベンチに畳んであった毛布を拾い上げ、丁寧に埃を払った。
上質なウールではない、安物の布だ。
だが、どんな高級品よりも温かかった。
「……逃がしはしないぞ」
私は眼鏡の位置を直し、いつもの「鉄の宰相」の顔に戻った。
だが、その瞳の奥には、新たな執着の炎が灯っている。
あの味を、もう一度。
いや、毎日でも味わいたい。
あの不思議な料理を作る、赤髪の魔女。
必ず探し出し、私の専属……いや、帝国の食卓を改革する重要人物として招聘せねばならない。
「まずは、今夜だ」
彼女は夜にしか現れないと言っていた気がする。
ならば、今夜もまたここに来ればいい。
私は毛布を小脇に抱え、足取り軽く路地裏を後にした。
出勤の時間だ。
今日の私は、いつもの三倍は働ける気がする。
そして仕事を定時で終わらせ、必ずあの屋台へ戻ってくるのだ。
部下たちが、朝からご機嫌な私を見て恐怖に震え上がることになるのを、今の私はまだ知らなかった。
◇
一方その頃。
路地裏から少し離れた安宿の一室で、私はベッドにダイブしていた。
「あー、疲れた!」
マジックバッグから売り上げの銀貨を取り出し、ベッドの上に広げる。
たった一人の客だったが、彼が置いていった銀貨は、普通の屋台なら一週間分の売り上げに相当する枚数だった。
「あのお客さん、どんだけチップ弾んでくれたのよ」
社畜だと思っていたが、もしかしてどこかの商会の偉い人だったのだろうか。
まあいい。
彼のおかげで、当面の宿代と仕入れ代は確保できた。
「それにしても、いい食べっぷりだったなぁ」
思い出すだけで、作り手としての快感が蘇る。
スープを飲み干した時の、あの恍惚とした表情。
あれを見るために、私は料理をしているのだ。
「ふふっ、待ってなさいよ帝国人。今夜はもっとすごいメニューを出してあげるから」
私は枕元に置いてあるメモ帳を開き、次なる飯テロ計画を書き殴った。
スープの次は、焼き物だ。
パリッとした皮、溢れる肉汁。
ビール……もとい、エール泥棒の代名詞。
『焼き餃子』
今夜のターゲットは、これで行こう。
私はニヤリと笑い、泥のように眠りについた。
今夜また、あの「行き倒れのお客さん」が来ることを、少しだけ期待しながら。




